7

 ごめん、とひらくは言った。

 七月のはじめのことだった。ひらくはモモコに呼び出され、好きだから付き合ってくれと言われたのだ。ひらくは迷うことなく、断った。

 ひらくはモモコから好かれていることには気づいていた。そしてそれが恋慕を含むものだということにも。ひらくはモモコの気持ちには応えてやれそうにない。

 モモコはひらくのぶっきらぼうな返事を聞いて、ひどく傷ついた顔をした。ひらくはそのときに初めて罪悪感のようなものを感じた。今までモモコのことを醜い醜いとさんざん心中で罵ってきたにも関わらず。

「ちがうんだ、モモコのことは嫌いじゃないんだ」

 ひらくは初めて、モモコの前で慌てふためいた。モモコに泣き出されたら困るのと、モモコのフラれた姿がひらく自身と重なったからだ。

「ぼくはモモコのことは友達だと思っている」

 そう口にしながらも、ひらくの心は冷め切っている。いったいどの口がそんなことを言うんだろう? と。ひらくはモモコのことを友達だなんて思っていない。できるだけ隣を歩いて欲しくないし、いっしょにいるところを誰かに見られたくもなかった。

 どうしてモモコのことをそんな風に思うひらくがモモコと一緒にいるかと言えば、なんとなく好かれていることが気持ちよかったからだ。モモコとひらくの間に横たわる、目に見えないパワーバランス。それは、ひらくの方に傾いている。そのことがひらくは心地がよくてたまらなかった。リョウと一緒にいることでは得られないもの。

 このとき、ひらくはモモコのことを似たもの同士なんだと思った。報われない片思いをして、傷ついているもの同士。

「だけど、ぼくは好きな人がいるんだ。その人とは付き合っていない。ぼくの片思いだ。その人には付き合っている人がいて、ぼくには見向きもしないんだ」

 モモコは傷ついた表情を変えずに、ひらくの話をじっと聞いていたが、何かを聞こうとして口をひらき、思い直してやめた。ひらくにはモモコの言いたかったことがなんとなくわかった。

 その人がいなかったら、わたしと付き合ってくれた? だ。

 答えはもちろんノーだ。ひらくは多分、生まれ変わっても、モモコと付き合うことはないだろう。

 どうしてグレユウだけに夢中になっていられないんだろう、とひらくは思う。ふたりの幸せを自分のことのように願い、二人がまぐわっていることを思い描く。どうしてそれをやめてしまったんだろう?

 結局のところ、モモコも普通の人間だった。本物の温もりが欲しい人間なのだ。そこに尊さはない。あさましい性欲と、すえた臭いがする恋心があるだけだ。

 ひらくはモモコをフッてなお、モモコを憎んだ。フラれるのもつらいが、フるのもとてもつらいのだ。

 なんで告白なんかしてきたんだよ、とひらくはモモコを忌まわしく思う。モモコをフッて、そのまま大学を出てきたせいで昼食を食べ損ねてしまったが、まったく食欲が湧いてこない。

 ふと、ひらくがスマートフォンを取り出してみると、メッセージの受信を知らせる緑色のランプがちかちかと点滅していた。内容はなんとなく予想がつく。きっとリョウだ。ひらくは鼻からため息を深く吐き出す。どいつもこいつも、とひらくは思う。

 ひらくの脳内に最近関わった人間の顔が浮かんでは消えていった。リョウ、モモコ、ユズキ、マウロ神父。ユウ、グレイ――それから、ひらく自身。

 そして皮革と木で出来た、擬牝台。

 ひらくは目を閉じた。心の底は澱が溜まって、昏く濁っている。その心とは反対に、初夏の空は気持ちよく晴れていて、ひらくは目を伏せた。ひらくの白い頬を日光が淡く焼き始めているのをひらくは肌で感じた。

 なにがきっかけだったのか、それはひらくにもわからない。気持ち良く晴れた空のせいだったかもしれないし、モモコをふった罪悪感のせいだったかもしれない。一向に実ることのないリョウへの片思いがそうさせたのかもしれないし、あるいはそれらすべてが手を取り合い、示し合わせたようにひらくの背中を強く押しているのかもしれなかった。

 ひらくはスマートフォンを起動させ、予想と寸分違わなかったリョウからのメッセージにフリック入力で返信をした。そして吐き出したため息をもう一度取り込むために、深く息を吸い込み、歩き出す。

 ひらくが歩く道はからからに乾いたコンクリートで舗装され、そのコンクリートとコンクリートのすき間には青々としたハマヒルガオが力強く根づいている。しかしひらくの足取りは確かに、破滅へと向かっていた。


 ひらくはその日、リョウとのセックスで、ユズキに言われたとおり「擬牝台」になろうと思った。リョウがひらくの身体に手を滑らせるそれは、生身の人間にするものではなく、木で出来た人形に、皮革を貼りつけた物にするものだと思い込むのだ。

 しかしひらくの試みは簡単に失敗した。リョウのきれいな指がひらくのくびれた腰を通るとき、ひらくは感じないわけにいかなかった。リョウの指も視線も、ひらくを介して、その向こう側にいるユズキに向けられているというのに。

 リョウに抱かれながら、ひらくは自分の中で呪いのようなものを膨らませていく。

 ぼくに生命はない、ぼくに感情はない、ぼくに血液は通ってはいない。

 リョウはぼくのことを、孕まない人形だと思っている。

 その妄想はひらくにとって、自傷的な快楽を含む妄想だった。ひらくを思うリョウの内面を思い浮かべるとき、ひらくの内側はざくざくと傷ついて血を流す。

 リョウが思い描いている未来にひらくはいないのだ。きっとリョウがウユニ塩湖に立つときも、その隣にはユズキがいる。その光景はきっと、世界中が祝福するだろう。

 ひらくはリョウに騎乗位で「している」とき、目を閉じ、まぶたの裏側で遠い海の果てにあるという、しょっぱい湖を思い浮かべた。天空の鏡と呼ばれているその湖は、その身体に大きな空をまんべんなく映している。その中央にはぴん、とリョウが立っている。

 その横にぼくも立っていいだろうか? とひらくは口にしてみる。

 そうすると、リョウはひらくに見せたことがないくらい、くもりのない笑い方で、了承するのだ。

 そのとき、ちょうどひらくのお尻の穴の中に埋め込んだペニスから勢いがなくなって、ひらくは目を開けた。寝たままのリョウがひらくに向かって言う。

「なあ、してるときに考え事してた? やめろって」

 そうだね、とひらくは返事をする。それはお互い様だよ、と言いかけてやめたが、不意に口をついて出てしまっていてもおかしくはなかった。


 ひらくとリョウはいつも通りセックスを終えた後で、リョウがまたピロートークを始めた。

「ユズキがさ、今度一緒にUSJ行こうよって言うんだ。大阪なんてクッソ遠いのに、行きたいんだってさ。めんどくせえ」

 そう語るリョウの顔は、だらしなく緩んでいる。

「よかったね……」

 本命の彼女との惚気を、男娼はどういう風に聞くのが正解なんだろうとひらくは思う。元気よく、「彼女とうまくいってよかったですね!」と返すべきなのだろうか? そんな迷いが声に出たのか、ひらくの返事を聞いて、リョウが不満そうに言った。

「なんだよ、その返事」

「あはは」

 ひらくは、ユズキが会いに来たことをリョウに言うべきかどうかを決めかねていた。そのことをリョウはもう知っているかもしれないし、知らないかもしれなかった。たとえ知らなくても、ひらくから教えて貰ったところでリョウは驚かないかもしれないとひらくは思う。

 きっと、リョウもユズキも、ひらくには感情がないと思っているのだ。ひらくは擬牝台だから。

 ひらくは性の香りが残るベッドの上で目を閉じ、擬牝台を思い浮かべた。革製のそれは牛をあいまいに模した形をしている。本物の牛の雌に似せるための装飾はされていない。牛の雌から顔を取り除き、四肢を取り除いた造形をしていて、そのうしろ、尻と見立てる場所にはだれかのペニスを咥えるために空けられた穴が空いている。その穴は貫通しておらず、奥にはガラスの筒がついている。誰かが射精したときに、その精液を受け止められるように。

 ひらくはベッドを出ると、自分の足に脱いだ靴下をかぶせながら言った。

「ねえ、公園に行かない?」

 ひらくは、リョウにラブホテルから少し歩いたところにある、街中の小さな公園に行こうと提案をした。その公園には小さな桜の木があり、春先にリョウとささやかに花見をした場所だ。

 それは不自然な申し出だった。時間は夜の十九時過ぎで、公園で安らぐには遅い時間だ。桜も今の時期は咲いていない。

 しかしリョウは二つ返事でオーケーをした。おそらく、リョウもリョウで、ぼくと話したいことがあるんだろうとひらくは思う。 

 リョウがシャワールームに立ったときを見計らい、ひらくはラブホテルに備え付けられていた灰皿を鞄の中に入れた。それはずっしりと重く、生き物のように静かに鞄の中で息づいていた。


 初夏の夜の公園には、示し合わせたように誰もいなかった。小さなジャングルジム、ふたりがけのベンチ、砂場、ブランコ、そして人目から隠れるのにちょうど良い、ひらくの背丈よりもわずかに高い植え込みがある。植え込みは公園の周りを丸く、ぐるりと囲んでいた。ふたりは何も言わずにベンチへ向かい、ひらくが座った。リョウは立ったままだ。

「改まって、ぼくに何か言いたいことがあるんじゃない?」

 ひらくはそう言って笑った。しかしリョウは首を振る。

「いや、ひらくが言い出したんだろ。ここに来たいって。なんだよ」

「……そう? そうかな。そうかもね」

 ひらくはベンチから立ち上がり、リョウと目線を合わせず背中を向ける。入れ替わるように、今度はリョウがベンチに座った。

「ぼくね、色々考えたんだ。やっぱりリョウは、もうぼくと会わない方が良いと思う」

「それは、なんで?」

「うーん、やっぱりユズキちゃんに悪い気がしてさ」

 ひらくの言葉はうそだ。ひらくはユズキを思って身を引くのではない。それどころか、あの女はできるだけ苦しんで生きてほしいと思っている。

 リョウはひらくの言葉に重ね、少し早口で言った。

「でも俺はひらくのこと好きだよ」

 リョウの語気は焦っているようで、ひらくはそのことに嬉しくなる。ぼくと会えなくなることを、リョウは惜しいと思っているんだ、そんな風に。

「とにかく、ぼくらは二度と会わない。そう決めたんだ」

 ひらくはそう強く言い切り、リョウに向き直ってから、「それでね」と続けた。

「最後にチューだけしない? そしたら、もうぼくからリョウに連絡はしない。それで、リョウもぼくに連絡しない、って約束して」

 リョウは大きく開いた太ももの上に腕を乗せ、指を組んだまま困った犬みたいな顔をしてひらくを見上げた。リョウはまだひらくのことを惜しいと考えているらしい。しかし、長考したあとで一つうなずき、ひらくの申し出を了承した。

「ぼくはベンチに登るね。最後くらいぼくが屈んで『したい』んだ」

 そう言いながらリョウの返事も待たず、ひらくはスニーカーも脱がずにベンチに登った。リョウはひらくの手を取り、ひらくがバランスを崩して転ばないように支えていた。

「そう、そう……ありがとう。それで、ちょっとうしろ向いて」

「は? 何で」

「いいから」

 リョウは首を傾げながら、ひらくに背を向ける。ひらくの眼前より少し下には、リョウの後頭部があった。それはラブホテルのシャンプーの香りがして、とても清潔だった。今にも鼻をうずめたくなるほど。

 そこへひらくは、力いっぱい、ラブホテルから盗んできた灰皿で殴りつけた。

 リョウのやわらかな右側頭部に、固い灰皿を力強く叩き込んだのだ。

 リョウはすぐに悲鳴をあげなかった。それどころか笑ってみせた。たぶん、何をされたのか分からなかったのだろう。

 ひらくにはその笑い方さえもかんに障った。

 なに笑ってんだよ、殴られてるのに。

 次にひらくは右足をできる限り持ち上げ、リョウの腹にそのつま先をめり込ませた。リョウは後ろに倒れて尻餅をつく。このときやっとリョウはひらくに不当な暴力を振るわれていることに気づいた。

 初夏の湿った地面の上、自分の足下に倒れているリョウを見て、本当はずっとこうしたかった、とひらくは思った。リョウが足下で震えているのを見ながらなぜかそう思った。リョウの人間的尊厳を極限までおとしめ、踏みにじりたかった。踏みにじったときのリョウの顔が見たかった。でもそれはずっとできなかった。ひらくはリョウのことが好きだからだ。

 ひらくは、うずくまるリョウの背中に向かって、そのつま先で勢いよく刺し続けるのをやめられなかった。リョウはひらくが動かす足に合わせて、くぐもったうめき声をあげるだけだ。不思議と同情心は湧かない。それよりも、どこか呆然としていた。

 ひらくよりリョウのほうが力も強いし、背丈もある。そのため、ひらくはリョウに暴力を振るっても、あっさりやり返されると考えていた。ひらくの予想と違って、リョウが反撃してこないのは、灰皿による打撃がひらくの想定よりも強力に決まったせいだ。ひらくのためらいのない打撃は、リョウの頭蓋骨をくだき、脳みそを揺らし、彼の意識をショックでもうろうとさせた。

 それでもリョウはやおら立ち上がり、ひらくに反撃しようとした。しかしひらくはリョウの股間を強く蹴り上げることで阻止した。そしてひらくは痛みにもがくリョウにまたがり、その首に両手をあてがい、首を絞めはじめた。

 さんざんひらくを傷つけてきたリョウが、首を絞められて、ひらくの下で喘いでいる。

 それはひらくを愉快な気分にさせた。懸命にもがき、命乞いをするリョウはしっかりとひらくを見ていたからだ。ずっと、とひらくは思う。ずっと「これ」が欲しかった。

 ひらくは自分の右手人差し指にぬるぬるとした物を覚えて、リョウの首から一度手を外した。その手には血がくっついていた。公園はうす暗いため、すぐに気がつかなかったが、さっき灰皿でなぐった時に血が出ていたようだった。それは側頭部を流れて顎を伝い、リョウの首筋まで流れ落ちていた。

 ぼくはどうして、こんなことをしているんだろう?

 ひらくはリョウの首を絞めながら涙を流した。けして美しい泣き方ではなかった。ひらくの顔は中心に向かって歪められ、横向きのしわがあつまった。ひらくの細い指はリョウの頸動脈を捉え、的確につぶした。リョウはひらくの下で白目を剥いている。死んだかもしれないとひらくは思ったが、そう思ってもなお、リョウの首を絞める力は止まらなかった。


 リョウはぼくを愛してくれない。その二つの目はいつもあのユズキに向けられている。ぼくはリョウから目を離したことがないのに。

 そんなぼくにゆいいつ微笑みかけてくれるのは、リョウのペニスだった。ぼくだけがリョウのペニスを愛してあげられる。リョウと「しない」ユズキとちがって、ぼくはリョウのペニスを誰よりもおいしそうにしゃぶることができた。リョウのペニスはぼくの味方だ。

 ぼくは知らないうちに、リョウ、と声に出していた。

 リョウのペニスはコンパスみたいにぼくのことを指し続けているのに、リョウはどうしてぼくのことを見てくれないんだろう?


 こうして首を絞めてる今でさえ、リョウは白目を剥いてひらくを見つめようとはしない。それがひらくには悲しかった。

 ひらくがリョウの首を絞めていると、リョウの動きがだんだん鈍くなっていった。しかしひらくは何も考えずに、指にあるだけの力を込め、リョウの首を通る血管を潰した。

 たとえばひらくは、リョウの生死を確認するために人差し指をその鼻にあてがってもよかったが、そうしなかった。

 別にリョウは死んでいても良い、とひらくは自分に言い聞かせる。

 そうだ、別にリョウは死んでいても良い。

 ――本当に?

 そのとき公園の入り口から怒号が聞こえた。

「アンタ!」

 それは老人だった。運転席の窓から、窓を開けて顔を覗かせた老人が叫んでいた。ひらくが何をしているのか分かったのかもしれないし、ぜんぜん別の誰かに向けて叫んだのかもしれなかった。しかし、老人は車の扉を閉めて降り、ひらくのところへずんずんと歩いてきている――そんな風にひらくは見えた。

「何してるんだ!」

 もう一度老人が叫ぶ。見つかった、とひらくは思った。覚悟をしていたはずが、本当に見つかると怒られるのが怖くなる。ひらくは気を失っているリョウを放り出して、老人がいる反対の出口から公園を出た。凶器に使った灰皿を置いたまま。ひらくの耳の中ではいつまでも老人の怒号が貼りついて、剥がれようとしなかった。

 ひらくはめちゃくちゃに逃げだした。身体は興奮で満ち、熱い血潮がひらくの中を駆け巡っている。あの老人が追ってくる気配はなかったが、とにかく誰かに捕まるのが怖かった。

 横断歩道を渡るときに信号を無視して、道路を行き交う車にひやひやしたが、車はしっかりと停車してひらくを優先して通行させた。ひらくに向かって走ってくる車のどれか一台が、自分に向けてクラクションを鳴らしたような気もしたが、ひらくはそんなことにも構わず走り続けた。

 いまこの瞬間、警察につかまってもおかしくはないとひらくは思う。あの老人が救急車と警察を呼び、警察がぼくを追いかけ出すまで時間はかからないだろう。

 逃げても無駄だとよくわかっている。ひらくは灰皿を鞄に入れたとき、もうその覚悟を決めていた。

 それでもひらくは逃げだしたかった。怒られたくない、警察に捕まりたくない、その気持ちだけで走り続けた。ひらくはもう、自分がいまどこにいるのかもよくわからない。

 ひらくが走っていると、ちょうど近くにあったバス亭にバスが止まった。ひらくはその行き先も見ないで飛び乗った。そうだ、とひらくは思う。このバスの終点まで行こう、と。バスに乗って動き続けている間だけは、きっと警察もぼくを捕まえることができない。

 ひらくは震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、ラインを開いて、モモコにメッセージを送った。

「いまなにしてる?」

 ひらくの指はリョウの血がついていて、ひらくがスマートフォンをタップし、スワイプするたび、液晶画面に血が伸びて汚れた。ひらくは血で汚れた画面のすき間から文字を読む。モモコに送信したメッセージはすぐに既読のマークが付き、モモコは愉快なキャラクターのスタンプをひらくによこした。


 どうしたの?


 モモコの返事を見て、ひらくの頬は自然とにやけた。モモコのことを考えてうれしくなるなんて珍しいことだな、とひらくは思いながら、モモコに返事をした。


 いま電話できる?


 いいよ


 ひらくはその返事を見て、停留所もろくに見ないでバスの降車ボタンを押した。バスはすぐに次の停留所で止まり、ひらくはICカードをかざして代金を支払い、降車用の階段をジャンプして飛び降りた。その停留所で降りたのはひらくだけだった。

 ひらくはバスを降りてすぐ、一般住宅の車庫を見つけた。その車庫は歩道に向かってつきだした屋根を持っていて、ひらくはその下に隠れると、スマートフォンを開いてモモコに通話をかけた。通話はすぐに繋がり、モモコが出た。

「もしもし?」とひらくが言う。

「もしもし……どうしたの?」とモモコが言う。

 モモコの声はわかりやすいくらいに困惑しきっていた。しかし、ひらくはそんなことに構わず、電話口に向かってわざと大きな声を出した。

「ねえ、モモコ。ぼくと一緒にウユニ塩湖に行こうよ」

「え?」

「ウユニ塩湖。インドだっけ? 大きな水たまりになって、すごく綺麗だって、言ってたじゃん」

「え? うん」

 モモコの返事がはっきりしないので、ひらくはいらいらして言葉をたたみかけた。

「ぼくと一緒にさ、ウユニ塩湖に行こう。どれくらいお金がかかって、どれくらい時間がかかるかとか、ぜんぜん知らないけど。そういうの調べて、ぼくと行こうよ、ウユニ塩湖」

「どうしたの? ひらく、もしかしてお酒飲んでる? なんか変だよ」

「なにも変じゃないよ、ひどいな」

 モモコの言うことは半分間違っている。ひらくはお酒を一滴も飲んでいない。

 しかしモモコの言うことは半分だけ当たっている。ついさっき、人間を血が出るまで何度も何度も殴りつけたから、頭がおかしくなっているのだ。

 もちろんひらくとモモコが一緒にウユニ塩湖にいくことは、かなわないだろう。ひらくは自分が今夜中に、あるいは明日の朝までには殺人未遂で逮捕されるということが分かっていた。公園にはひらくの指紋がついた灰皿も置いてきてあるし、老人に目撃されている。警察は、きっとすぐにひらくを捕まえてしまう。そうなったら学校をやめて、きっと刑務所に連れて行かれるんだろう。もうモモコと会うこともない。ぜったいにない。

 ひらくは初夏の夜空を見上げた。そこでは街灯が夜空を隠すほどまぶしく光っていて、数匹の羽虫が光源をめざして、勢いよくぶんぶんと飛び交っている。

 ひらくの未来は暗闇で満ちていた。このあとのひらくの人生には、訴訟とか、刑事裁判とか、慰謝料とか、そんな不穏な言葉ばかりが並んでいる。しかしそれでもひらくの心は不思議なくらいすっきりと澄み渡っていた。いつも頭の中で思い描く、ウユニ塩湖に映った青空みたいに。ひらくは携帯電話を耳に当てながら両目を閉じて、その背中を車庫のシャッターにあずける。

 ひらくはいつかの夢の中で見た、ユウのウェディングドレス姿を思い出した。記憶の中のユウは、白いヴェールを被って、おしとやかにしている。彼はグレイにその肩を抱かれ、うれしそうに微笑んでいた。ひらくもああいう風に笑ってみたいと思う。

 どうしてぼくには、それができないんだろう?

「ひらくとウユニ塩湖かあ、いいね。今年の夏休みとかに行ってみる?」

 電話越しに聞こえるモモコの声は、うれしそうに弾んでいた。

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擬牝台 トウヤ @m0m0_2018

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