5
「それ」は、ひらくにとって何の前ぶれもなく起こった。その日、ひらくは近所のスーパーマーケットまで買い出しに出ていこうとしていた。アパートを出て、車が行き交う大通りに出たとき、呼び止められた。
その人は女性だった。青いシフォンのカットソーとベージュのスカートを履いている。大学生というには落ち着きがあったから、社会人か院生だろうと検討をつけながらひらくは返事をした。
「どうかされましたか?」
道を聞かれると考えていたひらくは、感じよくにこやかに返事をした。しかし、女の表情は少しこわばったままだった。女が言う。
「あなた、ひらく君ですか?」
「え?」
どうして通りがかりの女性がぼくの名前を知っているんだろうとひらくは思う。ひらくの動揺を見越したように、女はすました受付嬢みたいに、すずやかに微笑んだ。
「私、ユズキっていうの。リョウから聞いたことはない?」
ひらくはその言葉にひどく驚く。そして肩にかけていた鞄の紐をつよく握りしめた。
コイツがユズキ、とひらくは思う。リョウの寵愛を受け、大切にされている女。そしていまだ、リョウと「していない」女。育ちの良い、すてきな女性――クズみたいなリョウにはもったいないほどの。
「これから用事はある?」
「いいえ」
ひらくは首を振った。態々ひらくに声をかけてきたということは、ひらくとリョウが友達同士ではないということも知っているんだろう。しかし今のところ、ユズキはひらくに敵意を向ける様子はなかった。これから生命保険のセールスでもはじめるのかというくらい、ひらくに優しい声音と上品な態度で接してきた。
「それじゃあ、一緒にご飯でも食べよう。私が払うから」
「はあ……」
ひらくは空腹ではなかったが、逃げ出す気も起きなかったので、ユズキが履いているヒールの音を追うように小走りで追いかけた。
いったいどこから、ぼくのことを見ていたんだろう? とひらくは思う。しかし、どれだけ考えても答えは出てこなかった。
ひらくとユズキは、イタリア料理を出すファミリーレストランへはいった。
「『おごる』っていったのに、あんまり高くない場所でごめんね」
「べつに……」
ひらくは自宅の近くにある、このファミレスが好きで、ひとりでもたまに来たし、リョウと来たこともあった。リョウといっしょに半端な時間にやってきて、ひらくはピザを、リョウはパスタを頼んでいた。しかし、わざわざユズキの前でそんなことを話題に出さなかった。
そして偶然にも、店員に案内された席は、たまたまリョウと座ったことがある四人掛けの席だった。ひらくは以前自分が座った席に座り、ユズキはその向かい側に座る。ひらくの左側は鏡張りになっていて、ひらくは自分の顔を一瞬だけその鏡で見た。その目元には、うすくクマが浮かんでいる。
ひらくはユズキに向き直り、その顔とリョウを重ねた。ユズキはどこか機嫌が良さそうに、微笑みをたやすことなくひらくの前に座っていた。
ひらくからすると、ユズキは利口で上品そうな女に見えた。ひらひらした生地のカットソーと膝丈のスカートからは、性欲のにおいというものを感じさせない。目の前にいるのに、ユズキは食品サンプルのようにすました顔を取り崩さなかった。
「なんでも頼んで良いよ」
ユズキはメニューを開いたひらくに向かってそう言った。それじゃあ、とひらくは注文を取りに来た店員にオーダーを告げる。
「ムール貝のガーリック焼きと、青豆のサラダと、パンツェッタのピザをください。それから赤ワインも。デカンタで、五百ミリリットルをください」
「私はドリンクバーひとつください」
「食べないんですか?」
「さっき、ひらく君を待っている間にすこし食べちゃったんだよね。だから、いらないよ」
そういってユズキはひらくを拒絶した。ひらくはそれを不快に思う。
「本当に全部払ってくれるんですか?」とひらくは語気を強めて聞いた。
「もちろん、学生さんにお金を払ってもらうわけにはいかないよ」と、ユズキはシンプルに答えた。余計な注釈も、制約も付け加えたりはしない。
店員が立ち去ったあと、ユズキはさんご色のネイルがぴかぴかと輝く指でおしぼりの入った袋を開けた。そのしばらくあとで、ユズキが立ち上がってドリンクバーからブレンドコーヒーを持ってきて再び席に着いた。そうするとふたりの間に気まずい沈黙が流れたが、それでもなおユズキは何も言おうとしなかった。そのことにだんだんひらくが焦れてくる。
この女はぼくに言いたいことがあって、声をかけたんじゃないのか?
しかしユズキはかすかに笑って、コーヒーカップから濡れた唇を離して控えめに笑っているだけだ。自分から何かを話そうとはしない。
ひらくから聞きたいことはたくさんあった。「どうして、ぼくのことが分かったんですか?」「どうしてぼくやリョウを怒らないんですか?」「どうしてリョウとセックスしないんですか?」「本当にリョウのことが好きなんですか?」とか、そんなことだ。しかしユズキが話しだそうとしない以上、ひらくから話題を持ち出すのは気が進まず、ひらくはメニューをもう一度開き、眺めるふりをした。イタリアンハンバーグ、ミックスグリル、若鶏のグリル……。
そのうち店員が赤ワインをもってきた。デカンタにワインがなみなみと注がれていて、ひらくはそれを見て幸福な気持ちになった。それから背の低いワイングラスがひとつ。ワイングラスもデカンタの瓶も、どちらもプラスチック製でとても軽いが、ひらくはそんなことは気にしなかった。ひらくはワインの味なんて分からず、どんな器で飲もうが変わりはないと考えているからだ。
ひらくはデカンタからワイングラスにワインを移す。ひらくはまるでそれをアルコールだとは考えていないように、無邪気なようすでワインを注ぎ、グラスを口にした。ワインはよく冷えていて、ひらくはそのことにも満足した。
それからムール貝のソテーと青豆のサラダが運ばれてきた。ムール貝のソテーは黒くて平らな鉄皿の中に、五つのムール貝がその中身を剥き出しにして天井を仰いでいた。皿のふちではにんにくソースがほんの少しだけ焦げていた。
ひらくはいちおうユズキに声を掛けたが、ユズキはにこにこ笑うばかりで何も言わない。ひらくはユズキの態度に気分が悪くなりながらも、並んだムール貝のうち、一番左にあるものを手に取り、歯で貝の中身を貝殻から剥ぎ取った。ムール貝の食感はプリプリとして気持ちが良く、にんにくのソースとよく合った。ひらくはソースを掛けずにひとつ、ソースをかけてもうふたつを食べた。そしてにんにくの油を、赤ワインで洗い流した。ひらくはそこで、白ワインにすればよかったと思った。そのほうがこの料理にあっていると思うからだ。
ひらくは青豆のサラダにも手をつけた。青豆のサラダは、塩気のあるスープでグリーンピースをゆで、それらを小さな器へ盛り付けた上に温泉卵を乗せたものだ。小さな器にグリーンピースがぎっしり入っているのは、サラダとしてはグロテスクな光景に見え、スプーンを差し込むのを少しだけためらう。しかしそれらを口に含んでみると、粒のそろったグリーンピースのすべてがプチプチとした食感にゆでられ、塩気と相まってつるつると食べられる。卵を搦めて食べてもおいしい。ひらくはそのサラダを良く噛まずに飲みこんだ。そして合間、合間にグラスに口をつけ、赤ワインを流し込む。
何も食べずに微笑む女と、運ばれてきた食事を欠食児童のように食べるぼくは、いったい端から見たらどう見えるんだろうと、ひらくはそんなことが気になった。小食の姉と大食いの弟? 社会人の女と、そのヒモ? ひらくは脳裏に浮かんだその考えを打ち消すように、手酌で空いたグラスに赤ワインを注いだ。まさかひとりの男をめぐる恋敵なんて、だれも考えつきやしないだろう。
ひらくとユズキのテーブルは、ひらくが物を食べる音だけが響いていた。ひらくがムール貝の貝殻に唇をつけてにんにくソースを啜る音、青豆のサラダをスプーンですくって口に突っ込み、咀嚼をする音。デカンタのビンを持ち上げ、グラスに注ぎ、それを一息で飲み干すところ。皿を引きずる音、スプーンを持ち上げる音、フォークをトレイから取り出す音、ナフキンを折りたたみ、口を拭う音。
ひらくがわざと音を出して食べているわけではない。ユズキが静かすぎるだけなのだ。ユズキは「よく食べるね」も、「私も食べていい?」といった言葉もなく、ただ不気味な笑みを口元に浮かべ、時折思い出したようにブレンドコーヒーを口へ運んだ。しかしそれもポーズをとっているだけで、ほんとうに口をつけて飲もうとはしていなかった。カップに口をつけるだけ。
ひらくはユズキにじろじろと見られながら食欲を満たした。その視線に急かされるせいで、ひらくの食事ペースは早まっていく。ワインのペースも早くなる。ひらくはだんだん「負けるか」という思いのほうが強くなってくる。そうやってかっこつけてばかりいるからリョウはぼくに浮気をするんだ。
いいか、ぼくはお前とちがって、リョウの食事の好みも、リョウのいびきがどんな風にかかれるかも、リョウのちんぽの曲がり具合も、ぜんぶ知っているんだぞ――
ひらくはユズキに遠慮して残したムール貝の残りひとつを、ユズキに確認せずに手をのばしてその貝殻を手に取って平らげた。ムール貝の中身はつるりと簡単に貝殻から離れて、ひらくに噛み砕かれて胃の中に落ちていった。ひらくはそこに赤ワインを飲み下してかぶせる。
ひらくがムール貝の皿を空けたとき、それを見計らったウエイトレスがパンツェッタのピザを持ってきた。湯気の立つ熱いピザには、表面にチーズがふつふつと焦げ、ベーコンが無造作に並べられ、生地のふちまでトマトソースがかかっていた。ひらくはこのとき既に腹は膨らんでいたが、そのおいしそうな光景に思わず顔がゆるんだ。店員はテーブルに伝票を置き、ムール貝の皿を持って行った。そこでひらくはようやく一息ついてユズキに聞いた。
「ピザも、食べないんですか?」
ひらくの質問に、ユズキはすぐに返事をした。
「うん。私は別にいいかな」
「そう」
ひらくはピザを切るための回転カッターを手にしながら、いったいこの女はなにがしたいんだろうと思った。
いったい、この女はなにがしたいんだろう?
彼氏が気に入っている男娼を待ち伏せし、食事に誘う。そして糾弾するわけでもなく、ミステリアスに微笑みながら自分はブレンドコーヒーをすするだけ。そして男娼に、自分は一切口をつけていない食事代を払う、と言う。
ひらくは考える。この食事になにか悪い物でも混ぜられているのだろうか? しかし女にそんなそぶりはない。ぼくに食事をおごってから、リョウと別れるように説得をするつもりなのだろうか? 悪いけど、ぼくにはそんなつもりもない。そうしたいならまず、リョウに言うべきだ。男娼とセックスをするのをやめろ、って。
ひらくはピザにころころと回転カッターを差し入れ、三十度ほどの角度をつけてピザを小さく切り取り、その鋭角を口に含んだ。
そうしてからやっと、ユズキが口を開いた。
「ひらく君はさ」
「はい?」
ピザ生地に持って行かれた咥内の水分を足すように、赤ワインをずるずる飲みながら、ひらくはユズキの言葉になおざりに返事をした。ひらくの目は、アルコールのせいで既に少し据わっている。
「ひらく君は、ぎひんだいって知ってる?」
「ぎひんだい?」
「擬態のギに、牛偏のメスに、台座のダイって書くの。擬牝台」
ひらくは首をひねる。ユズキの言いたいことがよく分からなかったからだ。
「よくわかりません」
ひらくがそう言うと、そうだよね、とユズキが笑った。
「擬牝台っていうのは、牝牛の形をした木製の台座なんだ。牛の精液を採取するための道具で、種牛がその台を本物の牝牛だと間違えて種付けをするように作られたんだよ。それで種牛の精液を採取するんだって」
「はあ……」
ひらくは口の中のピザを噛んで飲み下した。チーズのうまみも、トマトの酸っぱさもピザの小麦粉の味も、すべてがおいしいハーモニーを生んでいたのに、ユズキのわけがわからない話でなにもかもが台無しになった。そう思いながらひらくはワイングラスに唇をつけて中身を飲み、もう一度ピザを切るためにカッターへ手を伸ばした。ユズキが話を続ける。
「私はひらく君のことを、ギヒンダイだと思うことにしているの。リョウのために作られた、擬牝台」
ユズキがそれを、表情を変えずに、ほがらかに言った。その顔には苦しみも悲しみもなかった。割り切っている、というクールな表情。ひらくはびっくりして呼吸が止まった。
「だから別に、怒らないよ。それどころか、むしろ『ありがとう』って、思ってる」
ユズキは感謝の言葉をひらくに聞かせた。しかしそれは悪意に満ちた感謝の言葉だった。そこにはユズキ自身のおごり高ぶりがあった。ひらくがいくらリョウに身体を許したところで、リョウはひらくになびかないだろうという余裕。リョウはユズキが好きだからこそひらくを抱くのだ、という自信。ユズキは言葉を続ける。
「なんていうか、すごく『尊い』と思うんだ」
また「尊い」だ、とひらくは思う。たしか同じ言葉をモモコも言っていた。グレユウのふたりは、とうとい――いったいなにが?
ひらくは自分の欲望のままにリョウに抱かれているだけだ。そこには精液や唾液や汗が飛び交い、尊いという光景からはかぎりなく離れているはずだった。ひらくは切り取ったピザを噛みちぎることで開いたままだった口を閉じた。ユズキは指を組んだまま肘をつき、ひらくの反応をじっと待っているようだった。ユズキから悪意を向けられていることはわかっているのに、ひらくは黙っていることしか出来なかった。右ほおにトマトソースをつけて、頬張ったピザを咀嚼しているだけだ。
たとえば、とひらくは思う。
「ぼくはあなたと違って、リョウのペニスを頬張ったことがある」と言ってみる。
「ぼくはあなたと違って、リョウのペニスを尻にいれたことがある」と言ってみる。
「ぼくはあなたと違って、リョウと『している』。それも、数え切れないくらい」と言ってみる。
ピザを呑み込み、「ぼくはあなたと違って」、とひらくは口にしようと思った。しかし実際はどの言葉も出ては来なかった。ひらくはただ、ユズキの目の前で顔をわずかに青ざめさせ、もぐもぐと間が抜けた顔でピザを咀嚼するだけだった。
ひらくが何も言わないのに飽きたのか、ユズキは「それだけ」と言って組んでいた指をほどいた。そして、ネイルの光る、美しい右手の指で伝票をつまみ、それじゃあね、と言って席を立った。ユズキはひらくを擬牝台だと思っていること、ただそれだけを本人に伝えるためにひらくを待ち伏せし、ひらくをレストランに誘い、食事をおごったのだ。
なんて嫌な女なんだろうとひらくは思った。
ねえリョウ、あんな女はやめておいた方がいいよ、とひらくは胸中でリョウに語りかける。
ぼくを選べば、もっともっとリョウのことを幸せにしてあげられるよ。ろくに皮のなかまで洗われていないちんぽだってなめて良いし、リョウがしたいっていうこと全部してあげられるよ。
しかしひらくの思い描くリョウは、ひらくの胸中でさえかたくなにその首を横に振るだけだ。俺はお前とは付き合えない、そんな風に。
ユズキがいなくなったあとで、ひどい目眩を覚えて、ひらくは勢いよく立ち上がった。食べかけのピザもそのままにして、トイレを探して席を離れた。胃のあたりに空気がたまっていて、その不快感に心当たりがあったからだ。ひらくは店の通路を歩き、トイレを見つけるとその扉をほとんど体当たりするように押し開け、個室トイレに駆け込んだ。先客がいなくてよかったとひらくは思った。
閉じていた便座の蓋を大きな音を立てて跳ね上げ乱暴に開き、便器の白い表面が見えた途端、ひらくは右手の親指を立て喉奥につっこみ、直後に激しく嘔吐した。胃袋の底がせり上がり、食道が激しく震えて胃液が下から上へ逆に流れていく。
吐き出した物は赤黒い色をしていて、ひらくは吐血かと思って驚いたが、直前に赤ワインをたらふく飲んでいたことを思い出す。便器の底はひらくが吐き出したワインでなめらかに赤黒く染まっていた。ひらくはえずくのを止めることができず、二度、三度と続けて嘔吐した。吐いたものは鼻からも出てきて、それを受け止めたひらくの右手も濃い赤色で濡れた。先ほどひらくが噛み砕いたピザの生地、ムール貝の破片、そういうものが便器の底の水たまりに浮かんだり、沈んだりしていた。赤ワインで濡れた便器の表面に、あざやかな緑色をした青豆がぽつぽつと貼り付いていて、それらは最初に食べた青豆のサラダだ、とひらくは自分が食べた物を思い出す。青豆はひらくの胃液で濡れ、便器の中で薄暗くひかり、不気味ななまめかしさがあった。まるで、虫の卵みたいだとひらくは思う。いまにもそこから羽虫が殻を突き破って生まれてきそうだ。
ひととおり胃の中の物を吐き出しきると、ひらくは手の甲で自分の口元を拭った。手の甲も吐き出した赤ワインで汚れた。ひらくは一度身体を起こし、個室トイレの壁に背中をあずけ、膝を折ってずるずる滑らせて呼吸を整える。ひらくは濡れた唇を開いて呟く。そうすると、ひらく自身が驚くほど低い声がひらくから絞り出された。
「あンのクソアマ……」
ユズキへの呪詛はひらくの体の中で膨れ上がり、とどまることがない。
ひらくは脳内でモモコとユズキを比べた。ユズキはかわいい。ユズキの栗色の染められたきれいな髪の毛、ゆれるイヤリング、甘い色でつやつやに塗られた爪、主張しすぎないメイクにきれいな肌。整った歯並び、上品な笑い方、きれいな靴。美しい姿勢――なにもかもができすぎていると思うほどにきれいな女だった。
しかしユズキが口にする言葉は猛毒だった。それは致死的な毒性を持ってひらくの中を蝕んでいく。臓器が溶け出して痛むような侮蔑のことば。
ぎひんだいって知ってる?
擬態のギに、牛偏のメスに、台座のダイって書くの。擬牝台。
私はひらく君のことを、ギヒンダイだと思うことにしているの。
だから別に、怒らないよ。それどころか、むしろ『ありがとう』って、思ってる。
たしかに、とひらくは思う。ぼくは擬牝台だ。リョウという大きなペニスにあてがわれた、代用の牝。
きっと擬牝台にも穴が空いているのだろう、とひらくは考える。血も肉もないその体に、どんな穴が空いているのだろう? それはひらくも持っている穴と同じように、濡れていてあたたかいのだろうか?
木製の擬牝台の中心に空けられた、雄牛のペニスを含むための濡れた穴。それはひらくの想像の中で、不気味なほどに白く、なまめかしく輝いている。
ひらくのすぐ下では洋式便器の中が鮮やかな赤紫色に染まっていた。ひらくはその赤色を目にして、さらに頭痛がひどくなったような気がして、レバーを押して水に流す。嘔吐したことで不快感はなくなっていたが、頭痛は治まることがなかった。
それでもいい、とひらくは考え始める。
たとえ擬牝台でも、リョウに必要とされているなら、それでいい。
ひらくはトイレの壁にもたれかかり、その白い壁にずるずるとその背中を滑らせた。
牛用の擬牝台と、人間用の擬牝台であるひらくとでは、決定的な違いがあるとひらくは思う。
それは血が流れるということだ。
ひらくは今この瞬間にざくざくと傷つき、血液を噴き出している。そして流れ落ちた血液はひらくの両手を濡らしていった。もうこれ以上濡れることはないというくらいに。
その夜、ひらくは夢を見た。
夢の中で、ひらくは地元の教会にいた。教会は婚礼のミサの最中で、ひらくはそれに参列していた。時間は日曜日の朝九時で、窓の外からはきれいな青空が見えていた。
ひらくは長椅子に腰を掛け、両手の指を組み、静かにマウロ神父の説教を聞いていた。マウロ神父は高齢のためか、話の筋が同じ所を行ったり来たりしてあまり前に進まない。ひらくはその説教を聞き流しながら、ぼんやりとしていた。
聖堂の中は人で八割ほど埋まっている。ひらくはふと思い当たって、この結婚式に誰が参列しているのかを知りたくて周りを見渡した。
ひらく自身は、教会の入り口から見て右側、前から七番目の長椅子に腰掛けていた。左側、前から二番目の長椅子には、鮮やかな緑色のワンピースを身に着けた、ショートカットの女性――モモコが座っていた。
マウロ神父の説教は前ぶれもなく終わり、シスターがマイクを使って「ご起立ください」と言った。ひらくもそれに従って起立する。
「キィリストニヨッテー、キィリストニシタガーイー、ツツシンデシュウノイノリヲトナエマショウ」
(キリストによって、キリストに従い、謹んで主の祈りを唱えましょう)
神父がさきほどまでのくだを巻いた説教はうそであったかのように、オペラ歌手を思わせる低く豊かな声を聖堂中に響かせてお祈りの歌を歌った。ひらくもそれに応じて、これまでに何度も唱えてきたお祈りの言葉を口にする。すべてのほまれと栄光は、代々に至るまで。アーメン。
信者たちが口々に祈る中、教会の鐘が鳴り響き、シスターによってオルガンが奏でられた。重厚で複雑な和音に合わせ、教会の入り口から婚礼のミサを行う新郎新婦が入場してきたので、ひらくは後ろを向いて目線をやった。
新郎新婦は、「ゼータブレード」の登場人物であるユウと、グレイだった。ふたりは腕を組み、聖堂の真ん中の道をゆっくりと歩いてくる。
ひらくは、どちらが新婦でどちらが新郎なのかはすぐに分かった。ユウは白いヴェールを頭から被っていて、白いウェディングドレスを着ていたからだ。グレイは黒いタキシードを着ていた。
ふたりともカトリックなのか、ということをひらくは意外に思った。ふたりとも、神様とかイエスキリストとか、信じていなさそうだけど。
ユウは男だが、ウェディングドレスはふしぎなほど似合っていた。彼のトレードマークである赤い髪の毛は白いベールからでもしっかりとその赤さが伝わった。また、ユウは肌が白く、体型も小柄であるため、新婦役をしても違和感はなかった。
隣に立つグレイはコミックの中で見たのと同じ、長身の男だった。虫を思わせるくらい足が長い。スタイルが良いので、黒いタキシードがとてもよく似合っていた。
ふたりとも、確か漫画の中で殺し合いをしていた、とひらくは思い出す。グレイがユウを裏切り、旅から抜けると言い出したときに戦っていた。それはたしか、単行本の何巻だったかな? とひらくは首をかしげる。
ミサの参列者たちが祈りをやめ、新郎新婦の入場に拍手を始めたので、ひらくもつられて拍手を始めた。おめでとう、おめでとう……。
――どうしてぼくが、ふたりの式に参列しているんだろう?
ふと、先ほどその姿を認めたモモコが気になって、ひらくは左側のベンチを見た。モモコは参列者の中でひときわ大きく手を打って拍手をして、それだけにとどまらず涙を流し、しゃくりあげ、タオル地のハンカチで顔をごしごし拭いていた。それを見てひらくは思わず笑ってしまう。君は、あのふたりとなにも関係がないんじゃないか?
盛大な拍手の中ゆっくりと祭壇の前まで来たユウとグレイを見て、シスターがオルガンを止める。それに従い、拍手も自然とやんだ。
神父が言った。
「アナータガタハ、ヤメルートキモ、スーコヤカナルトキモ、エイェンノアイヲチカイマスカ?」
(あなた方は病めるときも健やかなるときも、永遠の愛を誓いますか?)
ユウとグレイが声を揃えて言う。はい、誓います。
このとき、静かな教会の中にモモコの泣きしゃっくりが大きく響いた。
ひーっ。えぶ。えぐ、えぐ。
「ソレデハ、チカイノキスヲ」
(それでは、誓いのキスを)
グレイがユウの顔にかかった白いベールをもちあげ、ユウの頭の後ろに回した。本当にするのか、とひらくは驚き、参列者の体のすき間からふたりのキスシーンを覗こうとした。しかしちょうど前に並んでいる人影が邪魔をして、よく見えなかった。
そのときひらくは何気なく隣を見た。そこにはリョウがいた。ひらくはそのことにとても驚く。
どうしてリョウがここにいるんだろう?
リョウはひらくに目を向けることもなく、至って真面目な顔つきでユウとグレイの誓いのキスを見つめていた。その横顔は、ひらくが見とれてしまうほどに美しかった。今の今まで、リョウの存在に気づかなかったことが不思議なくらいだ。
ユウとグレイのキスはすぐに終わったようで、教会中に歓声と拍手が響き渡った。ひらくはそのときやっと、祭壇の前に立つユウとグレイの表情を人影の間から見ることができた。
ふたりはとても幸せそうな顔をして笑っていた。それは漫画の中では見たことがないくらい、文句のつけようがないほど輝かしい笑顔だった。
ひらくの耳の奥では、暖かな歓声と大きな拍手がずっと響き渡っている。
そんな夢だった。
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