4

 ゴールデンウィークが終わった、五月中旬の日だった。外は晴れていて、五月にしては気温が高く、大学中に休み明けのけだるさが残っていた。

 そして、ひらくはモモコといっしょに談話室で昼食を摂っていた。モモコの昼食は生協の弁当で、ひらくの昼食はコンビニで買ったサンドイッチとカフェオレだ。モモコは変わらず、ひらくにボーイズラブの話をしたがり、今日は同人誌を持ってきて、ひらくに読ませていた。

 同人誌というのは個人が趣味で発行する本で、主として日本ではアニメや漫画の二次創作を発表する媒体に使われている。それは映画のパンフレットに似た、とても薄い冊子の形をしていた。

 その冊子の中では、ゼータブレードの絵によく似せたユウとグレイが汗を散らし、肛門を使って熱烈なセックスをしていた。こんなにうまくいくわけないんだけどな、と思いながらひらくはページをめくる。モモコいわく、グレユウが好きな腐女子の中でも、もっとも絵がうまい腐女子が描いた、もっとも売れている同人誌だそうで、たしかにイラストから作者の画力の高さが伺えた。

「どう?」

 テーブルの向かい側では、モモコがひらくの感想を待っていた。モモコはひらくにグレユウの良さを知ってもらおうと躍起になっている。ひらくはモモコの望んでいる感想を言うことができないが、抱いた感想のうちで正直、かつ、モモコを傷つけない物を選んだ。

「絵がすごくきれいだね」

「そうでしょ?」

 ひらくが今目にしているページの中では、グレイのペニスを尻に挿入されたユウがあえいでいた。そのペニスは白くふんわりとぼかされ、妖精やヒトダマといった霊的なものに見える。ペニスを挿入しているグレイも、手を抜かれることなく、むしろしっかりと表情が描写されていた。うすい唇、切れ長の目、頬を覆うほつれたブロンド、開いた瞳孔と高い鼻梁――意地が悪そうで、サディストを想起させる表情だ。

 対して、ユウは目が大きく、きゃしゃな体に描写され、それらの特徴は元の漫画よりも誇張されていた。少女のように見えないこともない。

 ひらくが同人誌を読んでいる間、ヒマなのか、モモコがこのグレユウの同人誌を手に入れるのにどれだけ苦労したかを語りだす。

「この作家さん、坂口さんって言うんだけど、この人すごく人気で、絶対通販しないんだ。だから東京のイベントに参加するしかなくてさ、この間行ってきたんだよね。でもまあ、偶然グレユウのオンリーもあったからちょうど良いかなって思って。それで、イベント始まってすぐ行ったんだけどすごい行列になっててさ、もうホントだめかと思った。でもやっぱ大手だからそこそこ数刷ってるみたいで、心配した割にちゃんと買えてよかったよ。ノベルティで不織布のトートもらったし、大学で使おうと思うんだ」

 そんなモモコを横目に、ひらくはコマ内に飛び散る、Uの字型に描かれた汗のしずくを指でたどりながら、生じた疑問について考えていた。

 どうしてモモコは、男同士の恋愛模様にそこまで一生懸命になれるんだろう? ぼくは男だけど、女性同士の恋愛模様を書いたラブストーリーを読んでも、モモコほど嬉しい気持ちにはならないだろうと思う。

 そしてひらくは、その答えについて自らの中に仮説を立てていく。

 おそらくモモコは、とひらくは思う。

 おそらくモモコは、元気いっぱいで、純真で、すべての仲間から慕われるユウに自らの姿を重ねている。そして自分自身を重ねるユウの見た目は、妄想の中で可能な限り少女に近づけられ、性別の区分けをぼかされる。

 そして自分を重ねたユウを守り、恋人として接する相手に、モモコ好みの男であるグレイを選んだのだ。

 グレイに最愛の妻がいようが、ユウが思いを寄せているヒロインがいようが、それらはすべて見なかったことにされる。それはもはや、盲目といって良いほどだ。

 同人誌の中で描かれたグレイのしなやかな指はユウを介して、その向こう側にいるモモコの体の稜線をなぞる。グレイの透きとおった目はユウを介して、モモコの目を捕まえて離すことがない。

 同人誌を読み進めるうち、ひらくはだんだん、架空のキャラクターであるユウのことが気の毒に思えてきた。ひらくが読んだ漫画のなかでは、ユウは健康な心と体を持つ少年であり、快楽のため尻に異物を挿入するといったことは考えつきもしないだろう。しかしモモコや、モモコと同じような思考をする女性たちの欲望を満たすため、性格や体つきを女性的に作り替えられている。

 ひらくが目にしたページの中で、グレイがユウに「愛している」と告げていた。それに対して、ユウがグレイに「何言ってるんだよ」と言って、両腕で顔を隠して照れている。

 それがこの同人誌のラストシーンだった。

 ひらくが同人誌を閉じたところを見計らい、モモコに再び感想を求められ、ひらくは言葉に詰まる。

「えーっと、すごくエッチだね」とひらくは言った。「感想に困るぐらいに」

 ひらくのコメントが求めていたものではなかったようで、モモコは唇を尖らせた。

「いいよ、もう。ひらくにはわかんなかったか。グレユウの尊さは」

「ごめんね」

 ひらくは曖昧に笑ってモモコに同人誌を返した。「グレユウ」が好きな腐女子のうちでもっとも売れている本がひらくの好みに合わなかったんだから、ひらくは「グレユウ」を好きになることは一生ないんだろうな、と思う。

 驚いたことに、このうすい本は九百円もするのだという。ノンブルが振られていなくてもページ数が分かりそうな本なのに、九百円。一ページあたり幾らなんだろう? と、ひらくは頭のなかで割り算を始めたが、すぐに計算できなくてやめた。

 モモコはひらくの反応の薄さを横目に、グレユウの同人誌を大きなリュックサックの中に滑り込ませ、今度はスマートフォンを取り出し、お気に入りのイラストをひらくに見せた。ひらくはうんざりしている、という表情をしてみせたが、モモコにそれは伝わらないようだった。

 そのイラストの構図は中央から横半分にするように水平線が引かれ、上下対称になっていた。上半分は青い空で、下半分にも同じ青い空が鏡映しになって描かれている。その中央には小さく人が描かれていて、彼らは手をつないでいるように見えた。

 モモコいわく、湖の上にユウとグレイの二人が立って、中央で手をつないでいるらしい。イラストを見ても、ひらくにグレユウの尊さは伝わらなかったが、作者の画力の高さは伺えた。人物のデッサンは崩れていないし、デジタルで描かれた空は彩度の高い青で塗られ、透き通っている。鏡面のように見える湖も、画面の隅まで丁寧に描き込まれていた。きれいな風景画だ、とひらくは思う。ユウとグレイのふたりがいなければ、もっと良い。

 この湖はウユニ塩湖って言うんだよ、とモモコが言った。

「聞いたことない」

「ウユニはカタカナで、塩の湖って書くの」

「イスラエルにあるやつ?」

 たしかイスラエルには、死海と呼ばれる、塩気の濃い海があったはずだ。そう思ってひらくが聞くと、モモコはちがうよといった。

「ボリビアだよ。アフリカ。日本からの直行便はなくて、ものすごくアクセスが悪いけど、でもすごいきれいなんだ。アニメのオープニングみたいに」

 またアニメかよ、とひらくは思う。アニメの話をする前に、君の指に生えた毛をどうにかしたらどうなんだ、と言いかけた。しかし、余計な波風を立てたくはなく、卵のサンドイッチを飲み込むことでどうにか耐えた。

「ウユニ塩湖はすごく平らな湖で、雨が降ると大きな水たまりになるんだよ。それが鏡になって空を映すんだ。いっかい見てみたいんだよね」

「ふうん……」

「グレユウにも行って欲しいなあ、ウユニ塩湖」

 モモコはよく、こういう風にユウとグレイのふたりに旅行をしてほしいと話した。自分とは無関係である彼らに、旅行の感動を共有して欲しい、という。

「でも別に、ウユニ塩湖じゃなくてもいいんだよ。ユウとグレイは、ふたりいっしょならどこに行っても楽しいと思うから」

 モモコは自分の幸せではなく、実在しないアニメキャラクターの幸せを願っている。ひらくにはそれも理解できない。姿形を持たず、自分と関わりのないものについて真剣に祈る。それはもはや、オカルトじみたものさえ感じさせた。そう思った途端、疑問がひらくの口から突いて出てきた。

「モモコはさ、どうしてグレユウにそこまで一生懸命になれるの?」

 その問いに、モモコは口を閉ざし、ひらくを正面から見た。

「珍しいね。どうしたの?」

「いや、何というか、ぜんぜん分からないんだ。グレイとユウが結ばれても結ばれなくても、君は関係ないよね? それなのに、君はまるで自分のことのように一喜一憂するから」

「そうだね……」

 モモコはしばらく言葉を探した後で、再び口を開いた。

「私は関係なくていいんだよ。そういうのって自分が入り込むとすごく疲れるし……だから、私の関係ないところでユウとグレイに幸せになってもらうんだ。それで、私はその二人を見てるだけでいい」

「――そうなんだ」

 モモコの説明を聞いても、ひらくにはよく理解が出来なかった。

「よくわかんないよね、ごめん。自分でもうまく説明できないんだ」

「いや、別に。大丈夫だよ」

 モモコはなおも最適な答えを言おうとしていたが、言葉を重ねるほどうまくいかなくなっていた。ひらくは表現に苦しむモモコを眺めながら、サンドイッチの切れ端を口に詰め込み、甘いカフェオレで飲み下す。

 ハムときゅうりが挟まったサンドイッチは、なぜかほとんど味がしなくなっていた。


 昼食を終えたひらくとモモコは連れだって談話室を出て、大学の教養棟を出た。ひらくはできるだけモモコと連れだって歩きたくなかったが、友人がいなかったからしょうがない。それならひとりで行動するべきだと思うが、ひとりで行動するのは心細い。ひらくはモモコと並んで歩くとき、友達づくりを間違えたのだといつも後悔する。

 そして自動ドアをくぐったときに、ひらくは思いがけない人物を見かける。

「リョウ?」

 大学の建物の前には小さな噴水がある。それはどうしてあるのか分からないような噴水で、上に向かって力なく水しぶきを噴き上げている。その噴水のふちにリョウが座っていた。リョウはひらくの姿を見つけると、身体を起こし、右手をあげてひらくに挨拶をした。

「どうしたの? 今日仕事じゃないの?」

 そうひらくが聞くと、リョウは照れたように早口で言った。

「ゴールデンウィークが出勤だったから、今日休みになったんだ。で、暇だったからひらくに会いに来た」

 ひらくはリョウに講義の時間割を教えているから、講義が終わる予想をつけてひらくの元を訪ねてきたんだろう。横でモモコがひらくに尋ねた。

「ひらくのお兄さん?」

 ちがうよ、とひらくは言う。セックスフレンドだよ、と言いたかったが、本当のことを言うのはためらわれたので、言葉をにごして「友達だよ」と言った。

 モモコはひらくの返事を疑わず、へえと言った。ひらくはそれを残念だと思う。ボーイズラブを好むモモコでさえも、ひらくとリョウが並ぶと、年の離れた兄弟か友人にしか見えないのだ。ふたりがキスやセックスをしている可能性を思いつくことができない。しかしそれはモモコが悪いわけではないのだ。モモコは、ごく普通の反応をしただけにすぎない。

 リョウはモモコに挨拶もせず、「ごめんね」もなく、行こう、とだけ言ってひらくを連れ去ってしまおうとした。そしてひらくもそれに従った。ひらくも、モモコよりリョウと一緒にいたかった。

「またね」

 ひらくの去り際に、モモコがそう言った。ひらくもそれに、うん、じゃあと返事をした。モモコは傷ついたような表情を見せる。しかし、ひらくはそのことから目を背け、「見なかったこと」にした。

 きっとモモコは、ぼくのことが好きなんだ。

 だけど、ぼくはその気持ちに応えることが出来ない。

 ひらくとリョウが連れ立って歩いていると、リョウはひらくに昼食を済ませたか聞いた。リョウがすませたと答えると、「俺も」と答えた。

「いまから『しない』?」

「いいよ」

 またセックスか、とひらくは思う。

 それでもひらくは、この自分勝手な男が好きで好きでたまらないのだ。


「ひらくはかわいいな~」

 愛犬をかわいがるような、牧歌的な声音でリョウがそう言った。そして本当に犬を愛でているような手つきでひらくの頭をごしごしと撫でた。ひらくの髪はそのせいでぐしゃぐしゃになるが、このあともどうせ乱れるのだからひらくは気にしていない。

 ひらくはいま、ベッドの端に腰掛けるリョウの股ぐらから生えているペニスを頬張っている。ひらくはたいして口淫は上手に出来ない。その証拠にリョウは一度もひらくのフェラチオで射精したことはない。ひらくはただ、リョウが「もういいよ」と言うまで褒められることを待つ、無垢な大型犬みたいにリョウのペニスをしゃぶるだけだ。

 ひらくの頬は、リョウのペニスで内側から押されて変形している。その出っ張りを愛おしむようにリョウがひらくのあごを撫でた。ひらくはそのことを幸せに思う。そう思う一方で、ひらくの胸中は呪詛でまっくろに染まっていく。

 きっと、ユズキには「こんなこと」させないんだろうな。だけどぼくはリョウのことを愛しているから、「こんなこと」ができるんだ。言い訳のためにはした金をもらっているだけで、ぼくはリョウからお願いされたらペニスだって咥えるし、お尻の穴だってなめたってかまわない。

 リョウのペニスで塞がったひらくの口はまともに喋ることが出来ないから、ひらくは口に出さずにリョウに念じた。

 ねえ、ぼくかわいいでしょう。君はユズキよりぼくを好きになるべきだし、きっとリョウ自身もユズキよりぼくのことが好きだって気づいていないんだ。いまにわかる。だってぼくのフェラチオは未熟だけど、こんなにも献身的だ。

(ひらくはここで、ひときわ強くリョウのペニスを吸った)

 君はぼくのことをひんぱんに「ビッチ」だと言う。でもこんなに従順なフェラチオもないと思うよ。青臭いにおいも、アンモニアのにおいだって全部全部耐えてみせるさ、なんたって

(リョウはここで、「もういいよ」と言ってひらくの前髪をひっぱらないように掴んだ)

 ぼくは、君のことがすきだからね――


 ひらくはリョウとセックスをするとき、騎乗位を好んだ。ひらくは寝たままのリョウにまたがり、ペニスに手を添えて腰を落とし、自分の尻の穴にあてがう。そうするとひらくの中心に穴が空く。

 そんな風に、ひらくはリョウのペニスに串刺しにされているとき、キリストの磔刑を思い出す。キリストは磔刑に掛けられるとき、その両手の平と足の甲に杭を打たれて穴を空けられた。木製の十字架に手と足を沿わせ、標本にされた虫のように飾られたのだ。

 リョウによってひらくの中央に空けられた穴は、ひらく自身が望んで空けた物だ。それに血は流れない。キリストに空けられたスティグマとは理由がまるで違う。しかしひらくはリョウを愛してしまう自分と、愚かな人間に無償の愛を注ぎ続けたキリストを重ねずにはいられない。ひらくがリョウのペニスを搾り取ろうと腰を前後させて喘いでいるとき、それは快感ではなく、痛みと苦しみに満ちている。無感動に見上げてくるリョウの視線を浴びながら、ひらくはそれでも自分の身体を捧げずにはいられないのだ。

 リョウが射精した後、ひらくが自分の身体からペニスを抜いて息を吐き、ベッドに倒れこむ。震える手のひらをベッドについて、肘をついて身体を休めたときに、リョウがお疲れ様というようにひらくの小さな頭を撫でた。ひらくはいとおしさで涙が出そうになるのをごまかして、ふと思いつきで話を始めた。

「リョウはウユニ塩湖って知ってる?」

「え? なに?」

「だから、うゆにえんこって知ってる?」

「なに? それ。知らない」

 射精が終わると、リョウのひらくに対する態度は冷たくなる。その気持ちは分かるが、それにしたって、もう少しにこにこしてくれてもいいんじゃないだろうかとひらくは思う。そしてこうも思うのだ。そんなんじゃ、ユズキちゃんに嫌われちゃうぞ、と。

「塩の湖って書いて、えんこって読むんだ。大きくて平らな湖で、雨が降ると大きな水たまりみたいになって、空が反射して、それがすごくきれいなんだ」

「あーなんか、見たことあるかも。でも海外で、すげー遠いんじゃないっけ」

「アフリカにあるんだって」

「飛行機代やばそう。いくらぐらいかかんだろ」

「十万円とか?」

「もっとかかるんじゃね? まあ、写真で良いだろ。それより温泉とかマッサージとか、そういうのに行きたい。景色はきれいだと思うけどさ」

「ジジくさいなあ」

 リョウがひらくの発言に傷ついたのか、うるせ、と言ってひらくの腰を抱き寄せた。きっとリョウは、「ぼくとウユニ塩湖に行く」なんて思いつかないんだろうなとひらくは思う。ひらくはリョウの体温に包まれながら目を閉じ、頭の中で、先ほどモモコから見せて貰ったウユニ塩湖の風景を思い浮かべた。

 地平線まで広がる、空を映した湖。空と湖は遠い果てでにじみ、混ざり合っている。ひらくはまぶたのなかに差し込む、空想した陽光のまぶしさに目を細める。

 ひらくの数メートル先では、リョウが両手を広げて、その片手ずつに脱いだ靴をぶらさげている。リョウが足下の水たまりをちいさく蹴り上げ、それがしぶきになってきらきらと輝いて散った。

 リョウの表情は、ひらくがいる場所からでは逆光になって見えない。ひらくはいま、リョウが笑っているといいなと思った。

 そのとき、ひらくとリョウは静かな湖の真ん中で、お互いの姿だけを映し合っているのだ。

 このままでいたいとひらくは思う。もう目を開きたくはなかった。

 ひらくには、美しい湖もその真ん中に立って笑うリョウも、すべて幻なのだとわかっているからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る