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ひらくは地方国立大学の二年生だ。一年間浪人しているから、同学年の学生よりもひとつだけ年齢が上だ。それだけが原因ではないが、ひらくは大学にひとりも友達がいなかった。ただのひとりも。もしかしたらそれは、ひらくの態度に問題があるかもしれない。ひらくは性格が羊のように大人しく、あまり人に多くを語りたがらない。人と目線を合わせるのも苦手だ。長い時間、人と話をするのも得意ではない。
大学と家を往復し、ときどきリョウとセックスをする。
――はたして、ぼくは「健全なキャンパスライフを送っている」と言えるのだろうか?
ひらくはそんな風に自分へ問いかけるが、答えはノーと決まっていた。サークルやアルバイトに精を出したり、ツイッターやインスタグラムに写真をアップロードしたりする学生とは、永遠に打ち解けられそうになかった。
その日、ひらくは三限目の講義を終え、昼食とも夕食ともいいにくい時間帯の食事を学食で摂った。人がほとんどいない学食で、ひらくはかきあげうどんを頼んだ。
「私もかきあげうどんにするよ」
ひらくの隣にはモモコがいる。モモコはひらくと同じ学部の学生だ。たまたま講義が被っていて顔を合わせることが多く、モモコとひらくは自然と仲良くなった。
モモコはそう思っている。
モモコがひらくを好ましく思っているいっぽうで、ひらくはモモコのことが、あまり好きになれなかった。それにはいくつか理由がある。
ひとつ目はモモコの見た目だ。
モモコはあまり器量が良くない。目や鼻の配置も悪かったが、とりわけ歯並びが悪く、上の側切歯二本がずれていて、すこしでも口を開くと間が抜けた印象を受けた。彼女が口を開くたび、乾燥してひび割れた唇のすき間から、真珠のように白い歯がちらちらと見え隠れをして、ひらくはそれをとても目ざわりだと思った。
髪型は手入れの楽なショートカットにしていて、染められてはいない。整髪料もつけていないように見える。前髪は自分で切っているのか、その長さはふぞろいだ。それが不潔感を連想させた。
そして彼女はまったく化粧をしなかった。そのせいであまり肌もきれいではなく、色白の肌に赤みやシミが見え、子どもっぽいような印象を受ける。
服装もあか抜けていない。今日のモモコの服装は、銀色の大きなリュックサックを背負い、フードのついたカーキ色のワンピースを身につけ、それに、汚れたスポーツシューズと踝にオレンジ色のラインが入ったスニーカーソックスを履いている。まるで高校生みたいな着こなしだ。ひらく自身も自らが特別ファッショナブルな格好をしている自負はないが、モモコに比べたらいくらかマシだと思っている。
モモコがうどんをすすり、その汁を白いテーブルにまきちらして太くて白い麺を咀嚼した。そして、咀嚼しきらないうちに、興奮した様子で話を始めた。
「グレイはユウを裏切ったんじゃなくて、ユウのことを思って機関側についたの! まだそれは本編で明らかになっていないんだけど」
ふたつ目の理由は、モモコの偏った性的嗜好だ。
モモコはひらくと昼食を摂るたび、必ずボーイズラブの話をした。ひらくはモモコから同じ話を数回されているが、何度聞いてもその話の細部を覚えられない。だからその話をされるたびに、毎回専門用語を聞き直す。しかしそのたびにモモコは嫌な顔をせず、むしろ嬉しそうに説明をしてくれる。何度も何度も。
モモコは少年向けの雑誌で連載している、「ゼータブレード」という漫画が大好きだった。その中でも、主人公の「ユウ」と、その師匠である「グレイ」というキャラクターを気に入っている。ひらくも少し前に、押しつけられる形でモモコから漫画を貸され、ひととおり目を通した。
主人公のユウは少年の剣士で、背中まで届く赤い長髪を持ち、小柄な体躯に見合わない大ぶりの剣を持っている。彼の性格は、元気で明るく、いつも自信にあふれ、人を疑うことをしない。そして各地にはびこる災厄を払うため、故郷を離れて旅をし、一緒に戦う仲間を集めている。
グレイはそんなユウの剣術の師匠役だ。甘いマスクときれいなブロンド、そして人目を引くほどの長身を持ち、その長い足を生かした巧みな剣術で敵を倒す。性格はいつでも冷静で、少し皮肉屋なところがあり、そのビジュアルと性格から女性ファンに人気がある。ささいなきっかけからユウの旅に同行することになり、ユウの稚拙な剣術を見かねて指導役をしている――
モモコは、その「ユウ」と「グレイ」が付き合っている妄想をするだけで幸せになると話す。「付き合っている」というのは、交際関係にあるということだ。友情や親愛といった類いのものではなく、恋愛のことを指している。
ひらくはモモコのように、男性同士の恋愛を妄想して楽しむ女性がいることをうっすらと知っていた。しかし本物を目にしたのはモモコが初めてだった。
しかし、モモコの話に辛抱強く付き合っても、ひらくはまったく共感することができない。そのため、ひらくはこの先ボーイズラブを好んで読むことはないのだろうと思っている。
ひらくからすれば、モモコは漫画「ゼータブレード」を歪んだ形で愛している異常者のように見えた。しかしモモコいわく、モモコほど声を大きくして主張しないだけで、彼女のような人間はたくさんいるらしい。害虫みたいだな、とひらくは思う。一匹見かけたら三十匹いると思え。たとえその存在が、目に見えなくとも。
「それで、ユウは魔力も低くて、剣術もへたで、なにもできないんだけど、グレイはそんなユウのことがすごい好きなのね。公式はぜんぜんビーエルじゃないのに、これが公式でいいのかな!? っていうくらいにふたりを仲良しにするの。一般の人も見てるのに」
「うん、うん」
モモコがする話の中では、「一般の人」とか、「普通の人」という言葉が頻繁に出てきて、ひらくはそれが気になる。その言葉の範囲にモモコは含まれていない。ひらくはその区分けを疑問に思う。まるでモモコが特別であるような言い方に聞こえるからだ。
ひらくはそんなことを考えながら、かきあげうどんのスープに浮かぶ小口切りのねぎを箸の先で追いかけた。スープの上に浮かぶねぎの数はだいぶ少なくなったけど、どんぶりの底にはまだたくさん残っていて、ひらくはそれをとても惜しいと思う。細い箸のさきでつまんでもつまんでも、それらはけして尽きることがない。
「グレユウがいちばん人気のあるカプなんだけど、最近はアマユウも流行ってるんだよね。私もアマユウみたいな、ほのぼのした雰囲気のあるカプもいいとは思うんだけど、でもやっぱグレユウが好きだな。やっぱり関係性が良いって言うか……」
グレユウというのはグレイとユウのキャラクターの名前をくっつけて、省略して呼びやすくしたものだ。また、アマユウは「アマダ」というユウの親友のキャラクターとユウのことを指している。
グレユウのほかにユウグレという呼び方もあるらしく、両者のなにが違うんだろう? とひらくは思って、少し前にモモコに聞いたことがある。しかしモモコに「ぜんぜんちがうよ」と言われた。ひらくが「ユウグレ」と口にするだけでもモモコは本気で怒った。まるで服を身につける順番を間違えるとかんしゃくを起こす、気難しい子どもみたいに。
モモコいわく、「グレユウ」と「ユウグレ」を呼び分けることでユウとグレイのどちらが「攻め」であり、どちらが「受け」であるのかを明らかにしていると言う。先に名前を呼ぶ方が「攻め」で、後に名前を呼ぶ方が「受け」であり、この攻めというのは肛門性交における男役のことを指し、受けというのは女役のことを指すらしい。
つまり、モモコは漫画のキャラクターである、ユウとグレイが男同士でキスをし、肛門を使ってセックスをしていると本気で妄想しているのだ。
どうしてそんなことを考えつくのだろう? とひらくは驚く。ひらくにとってそれは、夜空の星を掴んでみようとする試みに聞こえる。
なあモモコ、きみは絶対誰かとやったことなんてないだろうけど、あれって結構手間がかかるんだよ。
なんでそんな面倒なことを、わざわざユウとグレイのふたりにさせるんだ?
「だからホント、グレユウ『尊い~』って思う。尊さで言葉が出ない。自分の語彙力が足りなくて困る」
「尊い」という言葉も、モモコはよく口にした。男と女がする恋愛は尊いとせず、男同士の恋愛を「尊い」とするモモコの思考はよくわからない。「グレユウ」が尊くて、「ユウグレ」が尊くないロジックも、ひらくには理解ができない。
でも結局、妄想の中でそのふたりに肛門を使ってセックスさせているんでしょう、とひらくは思う。
それは、「グレユウ」の尊さをおとしめることにつながるんじゃないのか?
ひらくはモモコに自分が同性愛者で、しかも今もなお特定の男と「している」ことを話した事はない。モモコの反応は予想がつく。目を輝かせて、どうしてふたりが付き合うことになったのか聞いてくるだろう。モモコはいつもよりも声を大きくして、ひらくを問い詰める。
ひらくは自分とリョウの関係がまったく「尊く」ないことを知っていた。ひらくとリョウはお金をもらって体を差し出す、ビジネスライクの関係だ。モモコが喜びそうな答えはあげられそうにない。
ひらくはモモコが口角に泡をためながら話すのを眺めながら、プラスチックのどんぶりを持ち上げて傾け、甘く味付けされたうどんスープを啜った。それはひらくの体内を通りぬけ、冷えた身体をそっと温める。
今度は、モモコが「ユウグレ」がいかに間違っていて、「グレユウ」がどれだけ正しいかを語り始めた。その内容は二日前にも聞いたよ、と言いたいが、新発見をした学者のような熱意でモモコはひらくに話しかける。
「グレイはぜったいユウのことが好きなんだよ。ユウのことだけを特別に想っているの。それがコマ割のすきまから伝わってくる。だってそうじゃなかったらどうしてグレイがユウのこと命をかけて守るわけ? だけどユウはグレイのことを、まあ好きなんだけど一番には考えていないんだ。だからユウグレじゃなくて、グレユウなの!」
ひらくも同じ漫画を読まされたはずなのに、どうしてか、ひらくはコマ割のすきまから「グレイがユウのことを好いている」という風には読めなかった。たとえ作者がグレイはユウのことを好きだと描いているとして、どうして男のユウが男のグレイに股を開くんだろう? そこに不自然さを感じないのだろうか? どうしてそんなことを盲目なまでに信じられるんだろう?
「今までの波乱に満ちた人生で荒んでいたグレイは、ユウの純真さに惹かれたの。グレイはたまにユウへ素直になれないけど、いっかい素直に好きだって言っちゃえばいいのにな。でももう、コマの枠外で、グレイはユウと『してる』からな~! 七十七話でユウとグレイが洞窟にこもって修行していた話があったんだけど、ユウはそのときグレイに稽古をつけてもらったお礼に『する』の!」
「へ~」
「ゼータブレード」単行本九巻には、グレイの過去エピソードが収録されている。それは、グレイの右手薬指にはめられた指輪の話だった。グレイはかつての戦争のさなか、最愛の妻を亡くしている。その妻を忘れることがないように、彼女の瞳の色と同じ、翡翠を嵌めこんだ指輪を身につけている――ひらくには、そんないじらしい一面を持つグレイが、旅に同行した少年とセックスをするとはとても考えられない。グレイが小児性愛者である、という設定がない限り。
しかしそんな話をしても無駄だということはよくわかっていた。モモコの脳内ではユウとグレイは「している」のだ。モモコにそう言われたら、そうだねと頷くことしかひらくにはできない。なぜかというと、グレユウの話をする彼女は本当にうれしそうだからだ。彼女の熱弁に水を差すのは、どうしても気が引けた。そしてモモコの話を聞きながら、架空のキャラクターであるユウとグレイをうらやましいとさえ思う。
ぼくとリョウのことも、こんな風に応援してくれる人がいたらいいのに。
ひらくはモモコの話に相づちを打ちながら、自分の尻穴をぎゅっと引き締めた。小指の先も入らないくらいに。
ようやくモモコの語りが落ち着き、ひらくとモモコは学食から出て、それぞれが帰途についた。やっと解放された、とひらくはため息をつき、リョウからメッセージが来てるといいな、という願いを込めてスマートフォンを確認したが、通知は来ていなかった。ひらくはリョウからのたったひとこと、「明日会える?」を待ち焦がれているというのに。
ひらくはスマートフォンを身につけていたジャケットのポケットに滑り込ませる。さっきまでモモコが一生懸命熱弁を振るった「グレユウ」なんて、さっぱり忘れてしまった。
ひらくにはフィクションに登場する男同士のセックスよりも、本物のセックスのほうがよっぽど信じることが出来る。
リョウの指先、体温、声とペニス。皮が剥けた彼のくちびる。ひらくの臓器の中へ埋め込まれていく男性器。
いつかモモコにも、そのことが分かる日は来るんだろうか?
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