擬牝台
トウヤ
1
ぼくとリョウが初めて会ったのも、こんなふうに雨が降る日だった。
そんな風にひらくは思い出す。ひらくは傘を持ち直して、自分の頭の上に真っ直ぐさした。そうしてもなお、ひらくの肩はわずかに傘からはみ出し、傘の骨を伝って落ちたしずくが彼のジャケットを濡らした。
いま、ひらくはリョウに指定されたコンビニの入り口前で待っていた。人の出入りが多い時間帯なのか、あたりにはコンビニの入店音が響き渡っている。
ひらくを呼び出しておきながら、リョウはもう三十分も遅刻していた。体の中にこみ上げてくる怒りを、ひらくはスマートフォンをいじることでなんとかやり過ごしていた。リョウが時間を守らないのは珍しくない。それでもこうやって待たされるたび、ひらくは腹が立つ。時間と場所を指定してきたのは、リョウのほうなのに。
ひらくはSNSを眺めることに飽きると、スマートフォンをスリープさせて目を閉じ、鼻から長いため息をついた。その少し後で、自分を呼ぶ誰かの声を聞いて、ひらくは目を開いた。
「ひらく、寝てるのか?」
「遅いよ……もー」
ひらくがもったいぶるように顔をあげると、そこでリョウが笑っていた。リョウには遅刻を悪びれる様子はない。
「行こう、早く」
リョウは遅刻を謝ることもせず、ひらくの手を引いて近場のラブホテルまで歩き出した。リョウは足が長く、歩くのが速い。ひらくもそれに追いつけるように、小走りになってリョウの背中を追いかけた。
リョウがとった行動に、リョウは本当にセックスのことしか考えていないんだな、とひらくは落胆する。そしてひらくの網膜の中で、リョウの外形はにじんでぼやけ、それは体長百七十センチ超の巨大なペニスへと変貌を遂げた。
その巨大なペニスは、巨体に似つかわしい巨大な陰嚢を持っている。そして右と左の陰嚢を交互に前方へ出すことで、体を移動させている。しかし、陰嚢はざらざらしたコンクリートの上でひきずられたせいで、表面には血がにじんでいた。ひらくはひらくの持つペニスでその痛みを想像し、心を痛める。どうしてそんなふうに、リョウのペニスは拷問みたいな目に遭わされているんだろう?
かわいそうなペニスを、今すぐ指と舌で癒やしてやらねばならない、とひらくは思う。
「ひらく?」
足を止めたひらくを不思議に思ってか、リョウがひらくに声をかけた。そのことをきっかけに傷ついた巨大なペニスの虚像はひらくの目の前から砕け散り、リョウの姿は元に戻る。そこには爽やかな好青年が、戸惑った表情で青色に変わった横断歩道を渡ろうとしている、ただそれだけの光景が広がっていた。
「ごめん、ごめん――」
「なんかあった?」
「何にもないよ」
まさかリョウに自分が妄想していた話をすることはできないので、ひらくは曖昧に笑ってごまかす。ひらくは誰もいないことをいいことに、リョウに手をつなぐことをせがんだ。リョウも機嫌がよく、そして人通りが少ないこともあってそのことを了承した。
ひらくは今、おおきなペニスと手を取りあってラブホテルに向かっている。
ひらくは男娼で、リョウはひらくのなじみの客だ。ふたりはゲイ向けの出会い系SNSで知り合って、半年前から援助交際を始めた。
ひらくにはリョウがいるから、出会い系SNSを使うことは、もうない。しかし、ひらくは暇つぶしに、そのSNSを眺めることがある。
そこには色々なプロフィールが並んでいる。斜めに角度をつけたキメ顔の自撮り写真、丸いお尻をアップで映した写真、たくましく鍛えられた背中を切り取った写真、どうして載せたのか分からないような、ぼんやりした表情の自撮り写真、プロフィール写真未設定を示す、デフォルトのアイコン……そういうものがタイル状になって一面に並べられていて、ひらくはそれらを気が済むまで下へ、下へ、とスクロールする。なかには高収入であることを示すためか、外車の写真を載せている人もいた。その突拍子のなさに、ひらくは思わず笑ってしまう。
そしてひらくは親指でタップを繰り返しながら、そこに潜むペニスの数を数えるのだ。いっぽん、にほん、さんぼん……。五本を超えたところで、飽きてきてやめてしまった。
ここはまるでペニスの畑だ、とひらくは思う。一面に広がるのは金色に実った稲穂ではなく、先っぽの剥けたペニスなのだ。それらは意思をもち、尿道でぱくぱくと呼吸をしている。まるで酸素を欲しがって水面に顔を出す、金魚みたいに。
その中にはリョウがいたのだ、とひらくは思う。
その中にはぼくもいたのだ、とひらくは思う。
ひらくはホテルの部屋に灯った照明を見つめるともなしに見つめていた。ほかに目線のやり場がなかったからだ。部屋には情事の後に残った、生臭くて重たい空気が残っている。ひらくの枕元には、リョウから差し出された五千円札が一枚寝ていた。ひらくは自分の財布を取り出すことさえおっくうで、それを投げやりにしている。
リョウがいつもどおりのピロートークを始めた。このとき、リョウは必ず判で押したようにひらくへ感謝を述べる。
「ひらく、いつもありがとう」
「どういたしまして」
それはまるで母の日に感謝を述べる、思いやりに満ちた子どものようだ。ひらくはこれを言われるのが嫌いだ。何だかリョウの母親になった気分になるから。ひらくはそもそも女ではない。子宮もなければ、月経もない。それに、ついこの間二十歳になったばかりだ。母親のような包容力は、まだ持ち合わせていない。
ユズキがさ、とリョウは言った。
ひらくはその言葉に耳をふさぎたくなる。ユズキはリョウの彼女だ。リョウよりも少し年下の、リョウがいちばん大切にしている女の子だ。ひらくは体を固くしてリョウの言葉を待った。
ユズキがやらせてくれない、とリョウは言う。
「ユズキとこないだマリンピアに行ったんだけど、」
マリンピアは近場にある、県内で一番大きい水族館の略称だ。
「マリンピア行ってその後『やる』と思うだろ? でもだめだって言われた。おかしいよな。高校生とかならまだわかるけど、俺もユズキもいい年なんだよ。もう子どもじゃない」
「そうだね……」
ひらくはリョウの言葉に力なく同意する。リョウが口にした、「やる」という言葉はセックスのことだ。ひらくはセックスをするときに「セックスしよう」と言ったが、リョウはセックスのことを口にするとき、「やろう」とか「しよう」とぼかした。まるで「セックス」が呪いの言葉であるかのように。「セックス」という言葉の、いったい何が恥ずかしいのだろう? ひらくにはその理由が分からない。
リョウは鼻息荒く、語気を強め、ユズキが自分と「して」くれないことについて不満を述べている。
「ユズキはさあ、『した』ことないんだって。今まで彼氏はいたことあるけど、ないんだってさ。でもそんなこと信じられないぐらいにかわいいんだよ。ウソをついてるとは思えないけど、でもさあ」
リョウの最低なピロートークは、ひらくが知っている、リョウの嫌いなところのひとつだ。リョウの話はこんな風に続く。
「ユズキは俺と『する』のが怖いんだって。でも俺のことが好きだから、待って欲しいって言われた。だから俺もユズキのことを大切にしたいんだよ。だけど、『それ』と俺の『したい』って気持ちは別だろ? 俺だってがまんの限界があってさあ。ユズキも俺のこと、少しは尊重して欲しいよなー」
リョウはここで言葉を句切って、ひらくを抱きしめた。身長一七九センチのリョウの体に、身長一六五センチのひらくの体はきちんと収まる。リョウの固くて太くて、大きな右腕がひらくの首にからまり、同じくらい太くて大きな左腕はひらくの腰にしっかりと回された。このときひらくはとても幸福な気分になる。暖かくて、大きな物に守られている安心。人肌の温もり、頭のてっぺんに感じるリョウの鼻息。そういうものひとつひとつが愛おしくてたまらなくなる。このときのためにひらくはわざわざリョウに抱かれているのだ。ジェットコースターの頂点のように一瞬しかない、たとえようもない高揚。
そしてリョウは必ずこの後に、残酷なひとことを言う。
「俺、もうひらくと付き合っちゃおうかな」
ひらくはこの言葉を聞くたび、息が止まるような思いがする。そのため、数秒遅れてから呆れたような声で返事をする。
「なに言ってるんだよ」
ひらくが出した声はかすれていた。ひらくと本当に付き合いたいなんて、リョウはそんなこと絶対に思っていない。ひらくにはそのことがよく分かる。
ひらくは自分にそのことを思い出させるために、リョウからお金をもらっている。小づかい程度のお金にしかならないが、それはひらくにとって言い訳になっているのだ。
しかし、いつかリョウが好きだと言ってくれるのではないかと、ひらくは期待をする。ひらくはリョウと会っているとき、リョウの一言一句に悲しいくらいに踊らされてしまう。
それらはすべて単純なひとことだ。かわいい、とか、エッチだ、とか、そういうの。リョウの指がひらくの体をなぞるたび、リョウがひらくの名前を呼ぶたび、そのことに折に触れ気づかされるので、ひらくはどうしてもリョウのことが嫌いになれなかった。
ひらくはリョウに好きだと言ったことはない。だけどそれでいいのだ。ひらくはお金を言い訳にしてリョウに抱かれたい。きっとひらくは、リョウからもらったお金で鼻をかんだって惜しいと思わない。
「俺は本気で言ってるよ。ああ、ひらくと本当に付き合いたいな――」
リョウのきれいな、整った指がひらくの髪の毛をするする梳いた。
だったら付き合おうよ、ぼくら、とひらくはいつも思う。それを口にしないだけだ。その代わりにひらくは、考えてもいない言葉を口にする。
「そんなのムリだよ。何回も言わせないで」
ずいぶん昔、リョウと出会ったばかりのころに、ひらくはリョウに聞いたことがある。彼女がいるのに、僕とセックスするのは浮気にならないの? と。リョウはすました顔でこう答えた。
「ならないよ、だってひらくは女じゃないだろ」
「うん――」
頷いてはみたけれど、なんだそれ、とひらくは思う。そのときの釈然としない気持ちのもやもやを、今でもひらくは抱えている。
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