第3話 天気の子/君の名は/シン・ゴジラ(ハイブリッド新新海誠)


 話題になった映画の感想ばかりを書いていると、ぼくがにわかなんじゃないかと思われそうだけど、今回も話題になった、相当話題になった映画の話をする。

「天気の子」はこの文章を書いている時点で公開から一ヶ月くらいしか経っていない。興行収入は100億円を突破し、歴代日本映画の興行収入ランキングのナンバー10に入ったらしい。ぼくとしてはそんなことは死ぬほどどうでもいいことだから(100億円欲しい)、作品の内容に限った感想を書く。宣伝効果とか商法としてどうかとかは考えない(でも100億円は欲しい)。

 で、またここで前置きを長引かせることを言うと、現段階で天気の子の感想・批評・考察の文章は相当出回っているのである。とくに多いのが、この映画が90年代だかゼロ年代だかのエロゲにありそうだ、というかこの映画の原作をプレイしたことあるぞ! といったもので、筆者はエロゲに詳しくないので、ああそうなのか、でも陽菜さんのHなシーンがあるんだったらちょっとは見てみたいなあ、くらいにしか思っていない。たぶん新海誠の作品はセカイ系の生きた化石のようなものだから、たぶんその点で90年代だかゼロ年代だかのエロゲとの共通点を探せるということなのだろうけれど、それは新海誠のすでに分かりきっている作家性を再び掘り返すのと変わらないから避けることにする。ここでは、前作の「君の名は」との差異点、そして共通して存在する目的について書くことにする。つまり、新海誠がどういう作家というより、新海誠がどのように展開したかという内容になるだろう。

 「天気の子」と言いつつ、「君の名は」の分析・感想を先に書いておいておかなければならない。簡潔に済ませるために箇条書きで列挙する。なお、SF的な世界設定に関する考察は極力与えない。


 0、悪役が存在しない。

 1、都市部と地方とでの日常生活の違いをよく描いている。

 2、自然災害にどう立ち向かえばいいのか? という問に対し、親子の繋がり(伝   説の口伝)を回答する。

 3、瀧くんの視点とミツハの視点が交互に現れるので、両者の感情の動きが読み   やすい。

 4、どう転んでも糸守町は消えてなくなり、住民は故郷を失う。

 

 2については補足しておかなければならない。

 糸守町の宮水神社には古くから伝統として口噛み酒の儀式があった。おそらくこの儀式の目的とは、二度目のティアマト彗星の片割れが糸守町に落ちるのを伝承することであったのだろう。しかし詳細を記した書物は300年前の大火事で消失している。このために、一度は糸守町の住民の大半が死ぬことになる。それを無かったことにしたのが瀧くんとミツハの入れ替わり現象なのだが、そもそも二人に入れ替わり現象が代々起こることだと教えたのはおばあちゃんだった。またミツハの父親もこの入れ替わり現象を経験しており、そのために映画のラストで本物のミツハが請願しに行ったとき、入れ替わりのことを口にしたために住民の避難を決断した(もちろん父親ははっきりとは覚えていないだろう。しかし心当たりがあり、看過できないものがあった)。このおばあちゃんや父親との繋がりが糸守町を救ったと言ったのであって、瀧くんとミツハの協力が救ったのではない。それも少しはあるのかもしれないが、最後のトリガーは父親である。その意味で、親子の関係、縦の繋がり(これは数百年を遡る)が自然災害に立ち向かうための回答として与えられているということになる。(たとえば東日本大震災のとき、遥か昔の大津波の記録が引き合いに出されたが、この記録を大切にし後世が忘れないようにせよ、というのが主張である。)

 

 では、天気の子の分析・感想を書く。これも箇条書きで書くと分かりやすいだろうから、そうする。


 0、悪役が存在しない。

 Ⅰ、都市部での生活しか描かれない。

 Ⅱ、自然災害にどう立ち向かえばいいのか? という問に対し、祈るしかないと回   答する。

 Ⅲ、穂高の視点でしか描かれない。よって陽菜の恋愛感情の有無が不明となり、そ   のため穂高の言動が終始気持ち悪い。

 Ⅳ、東京を救うか、陽菜を救うかという選択がある。


 もちろん感想はこれだけじゃないけれど、基本的なところはこの五つでおさえている。多くの人から納得が得られそうだ。

 「君の名は」と「天気の子」の共通点はいくつかあるが、箇条書きから分かることは、悪役が存在しないことと、自然災害にどう立ち向かえばいいのか? という問を立てている点だ。

 対して相違点は、視点が一つしかないことだ。これはそれぞれの映画の冒頭を見ただけでわかる。「君の名は」の冒頭は瀧くんとミツハのポエム(いつからかずっと誰かを探しているような気がする)で始まり、「天気の子」の冒頭は穂高の一人語りで陽菜が晴れ女になった経緯を説明する。これはほとんどあいさつのようなもので、映画の世界観・雰囲気を提示するのと同時に、視点がどこに置かれるのかを明らかにしている。「君の名は」の場合は、入れ替わり現象が起こるために相互の視点移動は必要不可欠だったからこのような手法になったのだろう。新海誠の基本的なスタイルは男の側が、相手の女がどういう状況にいるのか、存在しているのかもわからない状況で想い続けるというものなのだが、「君の名は」ではその矢印が両方向的になった(それ以前は単方向だった)ために新海誠っぽくないと言われた。それでもぼくは、セカイ(糸守町)を救った二人が、しかし自分たちが協力し事実救ったことまで忘れてしまったのにもかかわらず、お互いのことをなんとなく覚えているという普通なら荒唐無稽な展開をやってのけるということが新海誠っぽいとむしろ思うわけである。ぼくが言いたいのは、「君の名は」は商業的につくられた作品であって新海誠成分は薄まっているという指摘に対して疑問を持つべきで、この作品が新しい新海誠(新新海誠(もともとは海誠だったのがここまで来た!))のスタンスによって作られたということだ。ぼくは決して新海誠が書きたいものをゆがめたから商業的に成功したとは考えないし、それはちょっと新海誠に失礼(?)なんじゃないかとも思う。それを成長と呼ぶのも上からものを言う感じでおかしい。展開というべきだ。

 そこで――「君の名は」以前の”海誠”は言うまでもなく新海誠なわけだが――「君の名は」以降は新新海誠となった、と考えると、今回の「天気の子」の作劇スタイルはどちらの”海誠”に近いのだろうか?(”海誠”とは新海誠および新新海誠の基礎となるモデルである。エヴァの碇レイと言えばわかりやすいか?) 

 ここで新海誠と新新海誠の性質についてまとめてみよう。

 新海誠の性質:男女の恋愛を男側の視点に偏った方法で描き、劇中では感情を互        いにはぐくんでいくが、物理的ないし環境的な要因によってそれ以        上の関係は成立しない(させない?)。


 新新海誠の性質:男女の恋愛を両方の視点から描き、互いに感情を育んでいく          が、その関係はすぐには成立しない。長い時間を経たあとに何         らかの偶然によって彼らが出会い、結ばれるという作り方をす          る。

 注:新新海誠の性質を見極める材料がここに一つしかないことを注意されたい。


 「天気の子」には穂高の視点しかないし、穂高の故郷はついでと言ったかんじでしか描かれない。また、陽菜さんが劇中でどのような感情を穂高に対し持っているのかも具体的には描かれない。(たぶんビジネスパートナーから少しずつランクを上げて言ったのだろう。過程は省略され過ぎてよくわからないけど、ラブホテルで体を見せた点から恋愛感情のようなところまで到達したことはたしかだ。)これは新海誠の性質に近い。となると二人の関係は成立しなさそうだが……?

 しかし、映画の後半では穂高は陽菜を助けたのち警察に捕まり、故郷の島に返される。そして高校卒業まで島を出ることができなかった。高校を卒業して大学に入り、やっと東京に出てきた穂高は陽菜と再会し、(おそらくだろうけど)結ばれる。これは新新海誠の性質に近いのだ。とくに映画の前半部分は新海誠のスタイルで、後半は新新海誠のスタイルで構成してある。もちろんプロットの内容だけでこれらを判断するのは暴力的だということを忘れてはならない。

 では、ぼくは「天気の子」のスタイルが”新”と”新新”のちょうど中間に位置すると考えるべきなのか?

 これは違うと思う。なぜなら「天気の子」自体が、「君の名は」からの問いを受け継いで、それとはまた別のベクトルの回答を与えた作品であり、つまり「君の名は」に対する疑問符なり異論になっているからだ。災害という日本にいる限りどこにいても逃れられない現象に対して、「君の名は」は対処手段を回答したが、「天気の子」はひどく消極的な受容態度を回答した。なぜこの二つの映画でこんなにも違った結論を導いてしまったのか、ぼくには始めのうちは疑問だったのだけれど、このあいだネットフリックスで無料視聴可能になったシン・ゴジラをもう一度観たあとに気が付いた。「君の名は」は東日本大震災への回答で、「天気の子」は福島第一原発への回答だ。

 そしてシン・ゴジラの本筋もまた、福島第一原発への回答になっていることを思いだしてもらいたい(?)。この映画は、福島第一原発という問題をゴジラの中に押し込んだ上で、犠牲が出てもいいから未来に希望が持てる対処をすべきだというやや過激で厳格な回答を与えた。映画で犠牲になったものの中でとくに衝撃的だったのは、内閣総辞世でもなんでもなく、ゴジラに薬品を飲ませるときの自衛隊員が消し飛ぶシーンだ。しかも次のシーンでは何のためらいもなく次の部隊を出撃させる。参加隊員が全員消し飛ばされても構わないという姿勢を瞭然と示しているわけだ。

 「天気の子」はこの姿勢を全否定する。「なぜ東京ごときを救うために誰かを犠牲にしないといけないんだい?」と真剣に主張しているのだ。あるいは換言して「誰かを犠牲にするくらいなら、みんなで我慢してこの場所を諦めればいい」となる。つまり、「天気の子」の思想はアンチ・シン・ゴジラであり、多くの人の大きな利益を追求するよりも個々人の小さな幸せを追求しようという内容を含んでいる。(たぶんシン・ゴジラのプロットを天気の子で置き換えたら、東京に核が落とされ、日本人は新たな首都で別々の新しい幸せを築いたたのだろう。)

 このことから「天気の子」の位置が分かってくる。

 この映画が穂高の視点に偏っているのは、穂高が東京を救うか救わないかという選択を行う人物だからで、陽菜はその選択を行えない(これがエロゲにありそうと言われる所以か?)。陽菜は救われるか犠牲になるか、自分の運命が決まるのをただ待つのみである。シン・ゴジラの文脈に従えば、穂高が矢口(長谷川博己が演じる主人公)で、陽菜は出動を待つ自衛隊員だ。ここにもしも自衛隊員の視点が交錯してしまえば、先に述べた「天気の子」の思想が思想でなくなってしまう。自衛隊員がどのような覚悟で臨もうとも(彼らが自分たちが死んで東京が救われることを望もうとも)、「天気の子」のプロット上での矢口は出動を許可しない。諦めて、撤退して、ゴジラは国連軍に任せようという決断をするのだ。

 あるいはこれ以上書くと蛇足かもしれないし妄想だと言われても不思議じゃないんだけど、自衛隊を陽菜に置き換えて考えてもいい。もしかしたら陽菜/自衛隊員は、自分が犠牲になることは致し方ないことだと心の内で思っていたかもしれない。もしかしたら陽菜/自衛隊員は穂高/矢口に救われるべきではないと思っていたかもしれない。でも、決断を下す側の人間(穂高/矢口)はそんな不可知なことに頓着しない。さらにいえば、穂高は、犠牲を全否定したことを全肯定する(庵野は犠牲を全肯定することを全肯定する)。「天気の子」は、この決断を毅然と下す様を描きたかったのだ――シン・ゴジラがそうしたように。(とはいえ、映像のコミカルさがそれを妨害しているのだけれど)だから、穂高の視点に偏る必要があったのだ。よって、これは新海誠の性質であることには変わりないのだが、思想を表現するために意図的に用いられているということになる。

 ということで、「天気の子」での”海誠”のスタイルを定めるなら、ハイブリッド新新海誠と言えるだろう。ハイブリッド新新海誠は、新海誠がかつて行っていたスタイルを部分的に意識的に利用しながらも、新新海誠のやりたいこと、思想を実行する。「君の名は」に比べるとエンタメ性はやや下がったが、個人的には、すべての”海誠”を統括する段階に進んだとして次の作品がすごく楽しみになる作だった。もちろん単体としても楽しめたけど。


 あと、SF的世界設定について、ひとつ書いておきたいのだけれど、冒頭、穂高が東京に向かう船の中で、須賀圭介に命を救われる。ここで疑問なのが、なぜ須賀圭介がこの船に乗っていたのか、ということだ。須賀圭介の職業はオカルト系雑誌のライターである。記事を書くために取材に行く描写がたびたびある。ぼくが思うに、もしかして須賀は穂高の故郷の島に取材に行っていたのではないか? その帰りに偶然穂高に出会ったのだ。では、なぜそこに取材に行っていたのかと言うと、たぶんオカルト系の伝説があるからだろう。ではどのような伝説か。それは判然としないが、劇中、晴れ女と雨女の二つの話が出てくる(占い師のおばちゃんが言っていた)ことから、そのどちらか、または両方なのではないかと考える。とすると、穂高がどういう存在か分かってくる。彼はもしかしたら巫女(!?)かもしれないし、あるいはメタファーとして陽菜の対になる存在なのかもしれない。

 詳しいところはぼくは全然考えていないからわからないけれど、ここにまだ秘密がありそうだ。

 余談をまだ続けると、作画は「君の名は」より良かった。やたらにころころシーンを動かさずまっすぐ進むのが見やすい。「君の名は」を観終わったときはけっこう疲弊していたのだった。あと、音楽を使い過ぎだという感はあった。作品に入り込んでいるときに突然音楽が鳴りだして現実に引き戻されたところがあった(陽菜が空の上に行くところ)。はっきり言ってRADの曲なんてあってもなくてもそんなに変わらない。感動しやすい人がより感動しやすくなるだけで、映画を始めから終わりまで冷観する人には耳障りなんじゃないか? これにはどうぞ意見をください。

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