第7話
そして数日後、タカヤマが向かった先は町はずれの歯医者であった。
経緯を説明しよう。タカヤマは主に歯磨きを欠かす不衛生な車中泊と、連日に及ぶあんパンの暴食が祟ってしまったのだ。いつか見たことのあるドラマの真似で、「捜査と言ったらコレだろ」と購入したあんパンを常に片手に持ちながら連日過ごしたのがいけなかった。突然訪れた右奥歯の痛みに耐えかね、職場に午後から出勤すると連絡したのが先ほどの話。運よく今すぐ治療をしてくれる歯科医院を見つけて、年甲斐もなく虫歯の痛みに苦悶の表情を浮かべて駆け込む男タカヤマ32歳。今はしばし仕事を忘れて保養に励む正午前なのであった。
「これはもうすぐ削っちゃいましょう」
タカヤマの歯の写真を見ながら年配の歯科医はそう言った。
一刻も早く捜査に戻りたいタカヤマにとっては、虫歯なぞ削るなり抜くなり何でもやってくれという気持ちだった。「ではそれで」と歯科医の提案に唯々諾々と従い、患者とは思えない勢いでシートに腰かけたのであった。
「じゃあ削りますんで、痛かったら手を上げてくださいね」
口元が開いたタオルをタカヤマの顔に被せた歯科医は、手を上げてもどうせ止めてくれないだろう決まり文句を皮切りに治療を開始した。 歯だけでなく脳の内側まで削られそうなドリルの音を聞きながら、タカヤマは自らの奥歯がつつかれるたびに虫歯が剥ぎとられていくのを感じた。が、しかし驚くことに、手を上げるような鈍い痛みはなく治療は終わった。さあ来るなら来い、と身構えていたタカヤマに「じゃあ次回で詰め物をして終わりですね」と歯科医が声をかけたとき、タカヤマは彼の技術に感服したものだった。まさにこれが現代に生きる達人の技なのだ。サンキュー、技術の進歩。
タカヤマは身を起こす
「いや、あっという間でしたね。全然痛くなかったですし、今まで診てもらったどの歯医者様より上手でした」
「それは嬉しいですね。今後とも是非ご贔屓に。まあ歯医者に来ることがないのが一番ですがね」
歯科医は助手に器具の片づけを命じた後、少し照れながらマスクの上から頬をポリポリとかいた。しわの寄った目元が細まって、さらにしわだらけになる。
「一時間ほどは何も食べないでくださいね」
「わかりました。これから仕事なのでそれは大丈夫ですね」
「おや、それは忙しいのですね。差し支えなければ、お仕事は何を?」
「それが実は、時間管理警察に勤めておりまして」
ガシャーン……。
金属製のものが床に落ちる音が狭い治療室に響き渡った。シートから身を持ち上げたタカヤマは、その音は歯科医が治療道具を落とした音だとすぐに気付いた。歯科医に目を向けると、マスクで覆われていない肌色がみるみる青ざめいていくのがよくわかった。
「あの……」
「はい!違った!いいえ!私は何もやっておりません!」
「あ、いえ。まだ何も聞いておりませんが」
「え、ええいや、それもそうですね。そそそ、それで刑期はどれくらいなのでしょうか?」
「あなたは何もやっていないでしょう……」
ここで男タカヤマ32歳、現場での数年の中で培った安物の捜査のカンが閃く。
足元のカゴの中に畳んで置いていた上着の中から装置を取り出す。例によって時間の波を計測する装置だが、それを知らないであろう歯科医は自分に向けられたものが何であるのか分かっていない様子であった。
「な、何ですか……?」
「いえ。いえ、いえ。念のためってやつですよ」
その時、唐突に鳴り響く国民的アニメのテーマソング。それは時捜全員に共有された、犯人の痕跡と思わしい時間の波の乱れを察知した時になる警告音であった。ちなみに音声は各自自由に設定できる。目の前のオオツキからその反応が検出されたということが、この男が今回の事件を引き起こした犯人だと言葉を介さずに語っているのである。
タカヤマが装置のスイッチを押すと、警告音がピタッと止まる。タカヤマと物陰から顔を出した助手がそろって恐る恐る歯科医を見る。
「……」
「……」
「……あの、先生」
「……はい」
「これもまた念のためってやつですが」
「はい」
「この世界から3時を盗んじゃったりしていませんかねー、なんて」
「……ははは。まさか」
「そ、そうですよね。はっはっは……」
冷や汗をかきながらも否定する歯科医。その反応は「盗みました」以外の意味を持つ返事ではないのでは、といぶかしむタカヤマ。
しかし今の時点では、この歯科医の周辺に事件と関りがある時間の乱れが確認できただけだ。
残念ながら、現行の法律上では時間管理警察に任意同行を容疑者に求めることは許されていない。タカヤマは歯科医を確保するための証拠や裁判所からの罪状も持っていないため、ここで「犯人はあなただ」と宣言したところでそれ以上の進展は不可能なのであった。
どうしたものか、と悩むタカヤマと手汗をしきりに拭く歯科医。
「で、では今日はこれで終わりですから。受付で次の診療日を決めてくださいね。ええ、今日はこれで終わりですから。はいさようなら」
そそくさとその場から離れようとする歯科医。
今日は一旦出直すしか……もし彼が犯人だったら逃亡の時間を与えることになるだけだ。しかし今すぐに身柄を拘束する方法などない。目の前にニンジンをぶら下げられた馬であっても、走る道がなければ進めないのだ。
すぐ本部に連絡をするしかないか……と踵を返そうとしたタカヤマだったが、
半径30メートルにいる鳥たちが一斉に飛び立ちかねないほどの轟音と共に診察室の扉が開いた。
「ちょっとお父さん!?」
突如治療室へ飛び込んできたらしい女性の怒鳴り声がタカヤマの動きを止めた。どこかで聞いたような声だな……いやまあ気のせいかあ、とタカヤマが振り返ると、そこには顔をほんのり赤くしたヨコヤ夫人がいたのであった。
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