第1章「沈黙の姫君」:4
征ちゃん、征ちゃん……。
征四郎は微睡みの中で、誰かが自分の名を呼んでいることにぼんやりと意識が向く。そう呼ぶのは、実母くらいだ。……母さん? 征四郎は、疑問に想いながら、ハッと覚醒した。見慣れない天井が、覆い被さるように視界に広がった。征四郎は、啄馬が手配してくれていた下宿先に着いた後、荷解きも終わらぬ内に畳の上に横になり、いつの間にか眠りかけていたことに気付いた。
啄馬が用意していた下宿先は、「三条・木屋町」の一角にあった。カフェー『マダム・バタフライ』という洒落た煉瓦造りの二階の一部屋だった。主(ぬし)は、百鬼蝶子(ナキリ チョウコ)という、三十手前の若い女性だった。啄馬の話に依ると、先の戦争で主人を亡くし、今は女手一つでカフェーを切り盛りしているそうだ。啄馬の書いた紹介状を持って現れた征四郎を、蝶子は屈託のない微笑みと共に迎えてくれた。ただ、その微笑には、透明な境界線を想わせる僅かながらの冷やかさもあった。
「征ちゃん、征ちゃん――」
階下から、正に、その蝶子の呼ぶ声がした。はぁい、と眠気の抜け切らない声で応じた後、枕元でカチカチと鳴っていた懐中時計で時刻を確かめる。針は、午後十一時を少し過ぎた辺りを示していた。
征四郎は木綿の白シャツに袖を通して、簡素な装いのまま階下へと降りていく。
最早、暗橙色の灯りが照らす店内からは客の姿は退けていて、カウンター席の隅に、一人男の客が残っているだけであった。和装にエプロン、という装いの蝶子はカウンターの奥で店仕舞いを始めているようで、征四郎が降りてきたのを認めると、その手を止めて微笑んだ。
「寝ていた……かしら? ごめんなさいね。征ちゃんに、紹介したい方がいらして」
蝶子は、カウンターの隅に目を向ける。西洋式の硝子の器に注がれた琥珀色の液体を弄ぶように揺らしながら、水面で照り返す煌めきを思案気に眺めていた男が向き直る。軽く、会釈した。 英国風の、肩幅がやや広めのスーツが馴染んで見えて、どことなく富裕層の出であることを知らせているようだ。年の頃は、父ほどは離れていまい。征四郎は、何度か小さく瞬いて目の前の眠気を追い払いながら、会釈を返した。
「こちら、よく来てくださっている、明報新聞京都支社の神喰雪郎(カミジキ ユキヲ)さん。……征ちゃんの先輩に当たる方」
雪郎は、僅かに朱が差した頬を緩ませながら隣りの席を勧めてきた。征四郎が恐縮したような表情で腰を掛ける。その瞬間、微かに突くような鋭い香りが、鼻の先を掠める。雪郎が察したように微かに笑って、琥珀色に輝く液体を口に含んだ。硝子器の方から、暖かみのある香りが漂ってくる。見惚れている征四郎の前に、蝶子が曹達水(ソーダスイ)の入った器をそっと置いた。
「専攻は?」
「史学……民俗学、です」
――啄馬先生のお弟子さん、と横から蝶子が食器を洗いながら添える。
「ああ、染葉先生の」
「先生と、お知り合いなんですか?」
――まあ、知らない仲ではないね。
笑って言葉を濁す雪郎の口振りに、蝶子が意味深に笑みを添えた。
「偶に、お世話になることがあってね。この街で、時々起きる事件を読み解くのに、助言を貰うことがあるのさ」
「事件?」
「嗚呼。『京都』という街は、千年以上も昔から曰く付きの都市でね、他の街では聞かれないような様々な事件が起きるんだよ。染葉先生は、その分野にとても詳しいんだ」
今日、啄馬が零した数々の言葉と関係があるのだろうか――妖魔たちとの戦争は、我々の意思に関係なく、もう間もなく始まる。あの、言葉の連なりに。
……と言っても、治安は良い方だから滅多に事件が起きる訳じゃないがね、と雪郎が付け足す。ここに来るまでの道程を歩いた征四郎にも、この街が物騒な印象など全く受けなかった。
「今までに、どんな事件があったんですか?」
「嗚呼、子どもが神隠しにあったとか、鴨川で変死体が見付かった、とか――その類いの怪奇現象が多いな」
店外の通りの様子を伺いながら、外燈を消して戻ってきた蝶子が、四つ折りにされた明報新聞を、良かったら、と差し出す。一面に目を歩かせている征四郎を横目に、
「昨日も、四条大橋の辺りで、見つかったんでしょう? 例の、変死体。雪郎さんも、見に行かれたの」
「ええ。酷いものでしたよ。あれは、人の仕業とは思えない」
「如何して?」
征四郎は新聞を広げたまま、ちらりと視線を上げて蝶子の顔色の移りを盗み見る。蝶子は、相変わらず柔らかく微笑んでいるが――すごいことを聞くな、と思った。征四郎は胸の内で、蝶子に抱いた第一印象を訂正した。意外と、ゴシップが好きなのか? それとも――。
それは明日の新聞をご覧下さい、と雪郎は冗談めかして言い、器の中身を一気に飲み干した。そして、勘定を置いて席を立つ。丁度日が変わったことを、壁に掛かった振り子時計の鐘の音が報せた。
「マダムもお若いのだし、変な事件に巻き込まれぬようお気をつけください」
「私? ……私は、大丈夫よ。それに、今日から征ちゃんがこの家に居るもの」
「それも、そうか。征四郎クン、君も、また。僕に用があるときは、いつでも社の方に来給えよ」
征四郎は、雪郎に名刺を差し出されて、口数少なに礼を言って受け取る。『記者』、という肩書きが眩く見えた。雪郎は高級そうなタイを整え上着を着直すと、お休み、と言って出口へと向かった。
「嗚呼、そうだ――雪郎さん、今夜は、河原町ではなく寺町通の方からお帰りになって」
小さくなっていく背中に投げられた蝶子の言葉に、嗚呼そうする、と振り返ることなく返すと、雪郎はそのまま京の闇の中へと消えていった。征四郎はもう一度、雪郎の名刺を眺める。そして、新聞記者ならば、鷹矢家の状況に詳しいのかと推測し、次に会ったときに訊いてみようと思った。
「さて、店仕舞いの時間ね」
蝶子が絞った濡れ雑巾を片手にカウンター側に出てきたので、僕も手伝います、と征四郎は追随した。舌に、先程口にした曹達水の爽やかな甘みが甦る。征四郎は、お客の退けた店内を見回し、椅子と机を整えていく。
「そう言えば――最後に、神喰さんに言っていた話って、何かあったんですか?」
「嗚呼、あれは方違え(かたたがえ)みたいなものね」
蝶子は、雑巾でカウンターを拭きながら、今は慎重になった方が良いわね、と言った。そして、今一腑に落ちていないように首を傾げた征四郎に向かって、
「……私、実は色々見えてしまうのよね」
と、優しげな笑みと共に、蝶子は言った。
『見える』のだ、と。
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