第1章「沈黙の姫君」:3
【京都帝国大学第三文学部史学専門群民俗学第一研究室】。
その長ったらしい名前を冠に掲げた場所が、手紙の主――染葉啄馬の、この街での拠点だった。
同研究室は、雄大な広さの敷地を誇る京都帝国大学の、五番棟と呼ばれる建物の地下の最奥にあった。迷いに迷った征四郎が到着したのは、待ち合わせの時間の直前であった。開けっ放しの扉には、研究室の名が雑に書かれた半紙が看板のように画鋲で留められていた。あのう、と探るように声を奥に投げつつ、征四郎は薄暗い書物の森の中へと一歩足を踏み入れた。
『大学』という機関に初めて触れる征四郎が、これが研究室か、と感嘆した程に、室内はインクと湿った紙の匂いを宿らせた数々の書物が充満していた。両脇の書物の山を崩してしまわぬよう注意を払いながら、奥に揺れて見えた小さな西洋燈の灯りを目指して薄暗い室内を進んでいく。そこに、人の気配があった。近付くにつれ、もう一度、ごめんください、と細く声を投げた。
奥まで進んでようやく声が届いたのか、灯りと書物の間に埋もれていたボサボサ頭が、まるで芽吹くように上がり姿を現した。遠目には、煤の塊のように見える。
「誰だ?」
振り向き様に、もう何日も剃っていないような、伸び放題になっている口髭を揺らして男は言った。見た目では、年齢が分からない、と思った。声は、若いようだが……。征四郎は、目を細めて髭面の男の様子を探る。
「あなたから手紙を貰った、陸鬼です」
「陸鬼? ――ああ! もう、そんな時間か」
男は、西洋燈の灯りを受け止めて艶やかに映える天鵞絨(ビロード)の椅子に座り直した。背凭れを軋ませながら、征四郎の方に向き直る。仕事机を挟んで対峙し、征四郎の顔を見上げた。男は、椅子はその辺にあるだろう、と適当に書物の山を指差した後、仕事机の上に積まれた書類や書物を取り敢えず脇に押し遣った。両肘を置ける程度に、空間を作る。征四郎は、書架の前に無造作に置かれた椅子を、上に積まれた書物を丁寧に床に避けてから運んでくる。一礼してから、慎重に男の前に腰掛けた。
「ようこそ、我が研究室へ。改めて、第三文学部史学専門群民俗学、特任講師の染葉啄馬だ」
啄馬はつらつらと肩書きを述べた後、口許を微かに緩めて若き来訪者を観察し始めた。鷹矢美音子を見て、どう思ったか――黙った啄馬の目の奥に、そんな探るような、どことなく自分を試すような表情が透けて見えた。征四郎も名乗った後で、
「ご指示通り、行ってきました」
と報告を済ませる。目の前の男に聞きたいことは、山程ある。そもそも不意に現れて、自分の人生を捻じ曲げた目の前の男は、何者なのか。征四郎は努めて冷静に、最初の質問を投げた。
「……で、どう思った?」
「何て言って良いのか分かりませんが……。憑かれてる、という噂は聞きましたし、その通りかな、と」
ダダンッ――。その音は、啄馬が、大きな溜め息と共に仕事机に頭から突っ伏した瞬間、悲鳴のように沸き起こった。続いて、仕事机がガタン、と揺れて、端から書類が何枚か滑り落ちる。
「僕、何か変なことを言いました……か?」
啄馬は机に顎を乗せたまま、上目がてら恨めしげな目を向ける。それ以上聞かずとも、啄馬の言いたいことは分かった。
「はぁ……。キミ、本当に陸鬼の人間か? 俺は、そんな素人の感想なんて求めてないんだがな」
伏した啄馬の口から、人選を間違えたかな、とか、これからが思いやられる、とかボソボソと愚痴が聞こえてくる。
「僕を、試してるんですか」
まったく意味がわからず、少々怒気を帯び始めた征四郎の声に、啄馬はゆっくりと顔を起こす。
「まあまあ、怒るなよ。期待した答えと違っただけさ。はぁ……。――憑かれてる、のは、鷹矢家じゃない。この街、そのものさ」
この街そのもの、と反芻した征四郎の呟きの語尾が僅かに上がる。啄馬は苦笑いを浮かべてから、唐突に、水を汲んできてくれないか、と室外を指差した。どうやら、話が長くなるらしい。征四郎は言われるがままに研究室を出て、突き当たりの給湯室に向かった。古びた蛇口を捻り、給湯室に備えられていた鍋一杯に水を入れて持ち帰ってくる。仕事机の上で、珈琲の豆が挽かれて待たれていた。
啄馬は、水を無言で受け取り、ゆっくりと小型サイフォンの上に据えられた硝子製の器に移し替えていく。征四郎は、物珍し気な眼差しで、水が注がれていく様を眺めた。「銀座」のカフェーで見たのと似ている、と思った。小型ランプに火が灯され、その上に置かれた器で湯が沸くと、今度は室内に香ばしい珈琲の香りが満ち満ちていった。啄馬は、淹れたての珈琲を注いだ茶碗を一つ、征四郎に勧めた。珈琲を飲んだことがあるか、と問いながら、啄馬は一口啜って満足そうに目を細めた。
「キミは、父君から何も聞いていないのか」
征四郎は、茶碗の端に唇を付けつつ小さく頷く。すべては染葉氏が教えてくれる、と言った父親の言葉をそのまま伝える。あの野郎――と、啄馬は嘆息する。
「じゃあ、『鷹矢』の家のことも、何も知らない? 『染葉』のことも?」
「染葉さんの家とは、先祖の代に、何か縁があったとは聞いていますが……」
「それだけか?」
征四郎は、上目で様子を伺いながらも、また頷く。啄馬は軽く舌打ちをして、分かった、とだけ独りごちた。
「『鷹矢』も『染葉』も、すべては、かつてこの聖域で、帝に仕えた陰陽師の末裔だ。勿論、キミ――『陸鬼』も。今から一千年以上も前に、陰陽寮に所属した陰陽師で、仲間だった連中の末裔が俺たちだ」
啄馬は、その後も幾つかの名を挙げながら、数えるように指を折った。
「俺たちの祖先は、皆、稀代の天才陰陽師である安倍先生の流れを汲む弟子の血筋であり、この地で同志だった者たちの末裔、ということになる。――平安末期、一つの災厄がこの地に降りかかったという。或る史上最悪の妖魔が降臨し、この地を力の限り呑み込もうとした。妖魔の巣窟にせんが為に――それに立ち向かったのが、俺たちのご先祖様らしい」
啄馬は、目に掛かった前髪を横の方に避けた。現れた真っ直ぐな眼差しが、征四郎を真正面から捉えていた。
「だが、その妖魔の力があまりに巨大過ぎて、俺たちの先祖は滅ぼすまでには達せなかったらしい。何とか多くの犠牲を払ってでも、封印するまでには漕ぎ着けたらしいが……。この街が焼け野原になるほどに荒廃し、戦火と混乱に見舞われたのも、それが原因の一つと言われている」
啄馬は珈琲を啜りながら、仕事机の脇に寄せた一冊の古びたノートの表紙を一瞥する。
「そして、先祖の陰陽師たちは、いつか再び来る大戦に備えるべく、当時の秘術や宝物が失われていかぬよう、『京都』の外へ逃す計画を立てたらしい。陸鬼が、『東京』に根付いたのも、その結果さ――で、ここまで話せば、薄々分かるだろう? 何故、陸鬼であるキミが呼ばれたか」
「その、史上最悪の妖魔が復活する、ということですか?」
「そうだ。――その予兆があったのは、昨年の夏。その予兆は、すぐに鷹矢家の当主、清政殿が押さえ込んでくれたが、惜しくも、その所為で清政殿の魂は犠牲になってしまった。――『鷹矢』は、優れた『結界師』の血筋で、先の大戦の後にも、この京師(けいし)を守るべく、この地に留まられた。そして今は、跡を継いだ美音子殿が、自身の魂を削って、何とか結界を保っている」
その術中の最中にある儚げで虚ろな姿を、あの女主人――美音子の母親は、病と呼んだ。恐らく、自分の夫や娘の身に起きたことを知らないのであろう。それも長くは持ちそうにない、と啄馬は続けた。一人娘の美音子の魂が尽きれば血筋が絶える、そこで終わりだ、と澱みなく事実を告げた。
「だから、僕を呼んだのですか」
「……キミだけじゃない。他にも、全国に散らばった、かつての仲間をこの地に呼び戻そうとしている。間もなく始まる、大戦のために。――だが、古い文献を探っても、それにも限界がある」
啄馬は、部屋中に木々のように生えた、天井まで届きそうなほどに高く積まれた書物を見回す。背表紙に刻まれた様々な題名を、征四郎も同じように目で追った。この地の歴史、伝承、民話らしき題材に触れた書物ばかりが積まれているようだった。その中に、自分の祖先、陸鬼の記録もあるのだろうか。
「征四郎クン――妖魔たちとの戦争は、我々の意思に関係なくもう間もなく始まる。キミも、かつての同志の末裔として、共に戦ってくれるね?」
啄馬の言葉にも、語気にも、眼差しにも、身体から発せられている雰囲気にさえも――そのすべてに有無を言わさぬ迫力があった。
征四郎は、何も言えなかった。
ただ、自分を肩越しに見た、鷹矢美音子の虚ろな瞳が想い出された。彼女はもう、今この瞬間も、目に見えない敵と戦っているのだ。
「もう一度言おう。共に、戦ってくれるね?」
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