第1章「沈黙の姫君」:2
「憑かれた家」と白髪の車夫が言った鷹矢家の屋敷には、結局、付近の「二条城」まで乗合馬車で向かい、停車場からは自分の足で歩いた。幸いなことに「京都」の街は、碁盤の目の如く路地が交差しており、通りの一つ一つに縁りの名が付けられている。細かな住所を伝えずとも、交わる通りの名を言えば、道行く人に親切に教えてもらえた。
征四郎は見慣れぬ風景の中をただ黙々と歩きながら、何度も口の中で、白髪の車夫の言葉を反芻した。
憑かれた家……。
鷹矢家の屋敷は、一本筋に通った路地に古めかしい正門が接しており、表札の代わりに、三本の矢羽根の家紋が控えめに掲げられていた。門の外からは、特に何か異変らしい雰囲気は感じられない。何百年もの間、風雨に耐え、色褪せてもなお、この家を護ると言わんばかりの堂々たる佇まいを見せる風格。征四郎は、緊張を追い払うように一度大きく息を吸い、意を決して門を二度叩いた。
五分ほど待っただろうか。正門の脇に構えられている勝手口の戸が、外の様子を探るように目玉一つ分の幅で開いた。
「――何方様でしょうか」
低い女の声がした。ぎょろりと蠢く目玉に警戒色を露わにしたまま、戸の向こうで女の目が征四郎の顔を捉えた。
「突然の訪問、失礼致します。……陸鬼、と申します。京都帝国大学の染葉先生に、御宅に伺うように言われまして」
女は、染葉の名に何かしらの心当たりがあったように、ああ、と喉の奥で声にならない声を吐いた。安堵と言うには、その声は細かった。そして、ゆっくりと、精々人一人が通れる程度に戸を開いた。来い、というのだろう。征四郎は、体の向きを横に変えて勝手口を抜ける。戸はまた静かに、女の手によって固く閉ざされる。
戸を閉めた女は、年の頃は四十辺りに見えた。濃鼠(こいねず)色の着物を着込み、形(なり)や佇まいは思ったより崩れてはいなかった。髪も昔ながらの和髪の型に結われ、その脇から柳のように幾筋か垂れて揺れる黒髪が、心身にまとまりついた疲労を匂わせていた。
女は、どうぞこちらへ、と鍵をかけた手をそのまま敷地の奥に向けて歩き出した。飛び石が続く真正面の母屋の玄関を避け、裏手に回るように屋敷の壁に沿って進んでいく。ザッ、ザッ、ザッ――小刻みに足元の砂利を鳴らしながら、征四郎も、その背を追うように数歩後から続く。羽振りが良さそうな広々とした屋敷なのに、まるで海の底に沈んでいるように静まり返っているな、と思った。
「本来は、駅までお迎えに行くべきところなのでしょうが――申し訳ありません。使用人には、みな暇を出しておりまして、今、屋敷に居るのは執事と数名の女中のみ。男手も不足しておりまして」
征四郎は、視線の先を歩く女の口振りから、彼女が鷹矢家の女主人であると悟った。しとやかな歩き方からも、どことなく品は失せてはいない。いえ、と受け流しながら周囲を見回すと、憑かれた、という白髪の車夫の言葉が、またどこかから聞こえてくるような気がした。
「成る程。……貴家のご当主様は、息災でらっしゃいますか」
女主人は、歩みを止めぬまま、少し押し黙った後で、
「染葉さまからは、何もお聞きになってはおりませんか」
と京都訛りを語尾に香らせながら、緩やかに言った。
「はい。今日、大学へ行く前に、こちらにお邪魔させていただくように、とだけ申し使っている次第で」
そもそも、指示を出した染葉啄馬にさえ会ったこともないのだ。征四郎は、鷹矢家と染葉の関係さえ、まだ何も知らない。
「そうですか……。当主、鷹矢清政(タカヤ キヨマサ)は、昨年病に倒れ、この世を去りました。そして、次は一人娘の美音子(ミネコ)が、また同じ病に」
女主人は、淡々と語る。涙が尽きる程に苦しんだ後の空虚さが、痩せ細った首筋と背中から窺える。征四郎は、はあ、と曖昧に吐息を溢した。
――同じ病。
「お嬢さん、何か、ご病気なのですか」
「ええ。主人が先立って間もなくのことです。美音子も、主人と同じ病に罹り……」
それが、憑かれた、という口伝で広まったのだろうか。征四郎が口を開きかけた瞬間、屋敷の壁が途切れて、次の区画に向かう。途切れた角から少し離れた場所に、別館らしき煉瓦建築の二階建ての洋館があった。文明開化後の建造物、と考えると、建てられてからそう年月は経っていないように思われる。「東京」では、最近増えてきているが、「京都」ではまだ珍しいのではないか。
「美音子は、こちらにおります」
女主人は、洋風の木造扉に手を掛けた。染葉は、美音子と引き合わせるために鷹矢家に寄るように言ってきたのだろう。どうぞ、と征四郎は中央の螺旋階段へと促される。美音子は右手一番奥の部屋です、と女主人に言われ、ここからは独りで行くのだと悟った。失礼します、と手短に断って、征四郎は螺旋階段の一段目に足を掛けた。珍しい、黒鋼で組まれた階段。ゆっくり、ゆっくり、と時間を掛けて上階へと上がっていく。二階の中央の天窓に嵌められた宗教画のステンドグラスに目を奪われている内に、二階へと着いた。そのまま奥へと向かう。真昼の煌々とした陽射しが、色鮮やかに紅、蒼、碧…と頭上の宝石を輝かせている。
征四郎は、女主人の指示のままに右手一番奥の扉の前に立つ。二度、軽く叩く――が、返事はない。部屋を間違えたか、と思うが、部屋の中からは虫の足音のように細々と連なる乾いた音が聞こえる。人の声、か。そこに、誰かがいる。それが美音子か――理由は分からないが、少なくとも染葉啄馬は、彼女と自分を会わせようとしたに違いない。ここまで来て会わずには帰れまい、と征四郎は、また扉を二度叩き、今度は迷わずドアノブに手を掛けた。回す――鍵は掛かっていなかった。
西洋式のドアを開くと、窓際に置かれたきらびやかな生地の椅子に、一人の少女が置物のように、ただそこに座っていた。少女は青藤色の着物を纏い、椅子に浅く腰掛けて窓の外を向いたまま、ブツブツと聞き取れない何かを呟き続けていた。それは、まるで部屋中を駆け回る虫の足音のように、ただ平坦に小刻みに続く。人の話す言葉かどうかも聞き取れない。
「美音子……さん?」
背に声を掛けると、美音子が呟きながら、どこか気怠気な動作で肩越しに振り向いた。その瞳は深い影を宿らせたまま、まるでこちらの瞳を覗くように征四郎の目に焦点を当てて動きを止めた。
――今、心を読まれた。征四郎は、直感で悟った。
それが、鷹矢美音子との出逢いだった。
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