【2023年再開】京師裏史書

狩部崇介

第1章「沈黙の姫君」:1

 陸鬼征四郎(クガキ セイシロウ)が初めてその地を踏んだとき、胸を衝くような郷愁が沸いてきて抗えなくなった。涙が、一粒。続いて、もう一粒。そして……。自分の意志とは関係無く、ただ溢れた。胸の奥を揺らすのは、かつて愛しんだものに包まれるような安心感と、微かな苦み。征四郎は、人に涙を見られまいと、赤銅色の学生帽の鍔を深く下げた。

 その街の名は、「京都」と言った。数十年前に「東京」に遷都されるまで、一千年以上もこの国の中心地だった領域。日本有数の「霊都」。

 征四郎は、この春より同地の帝国大学に進学するために、生まれ育った「東京」を離れて移り住むことになった。元々は、学友と共に『東京帝国大学』へ進むつもりでいた。だが、昨年の夏、古都より届いた一通の手紙に呼び寄せられることになり、今日に至る。征四郎が知るには、陸鬼の先祖は、かつてこの地で栄え、陰陽寮に籍を置く名の知れた陰陽師の一人だったという。しかし、平安末期の荒廃と戦火から逃れるべく、陸鬼の家に伝わる宝物や秘術と共に東へ東へと逃亡。やがて、当時は未開の地でもあった関東の地に隠れるように根付いた。以来、先祖代々歴史の表舞台に姿を現さぬようにひっそりと暮らし、細々と系譜を繋いできた。

 ――それが、昨年の夏に事態は一変する。「染葉啄馬(ソメハ タクマ)」と名乗る京住まいの人物から父宛に書簡が届き、父は迷わず「行け」と言った。父の口数少ない説明に依れば、染葉は、先祖と縁のある家の末裔らしい。そして、啄馬なる人物は、今は『京都帝国大学』で教鞭を執っているらしい。父は、「向こうに行けば、あとは啄馬氏が話してくれる」と締めた。

 征四郎は我に返り、胸の奥の震えが収まり始めてから、ようやく足元に置いたままになっていた西洋鞄に手をのばした。中には、僅かな衣類と書物が詰めてある。汽車への乗り降りでごった返す群像を縫いながら、改札へと向かった。

「さて――鷹矢の家は……」

 改札を抜けてから、征四郎は、上着の内ポケットから取り出した手紙を覗いた。差出人の名は、染葉啄馬である。宛先には、自分の名がしたためられている。出発直前に、届いた手紙だった。啄馬の連絡先と今日の日付の午後三時に大学の研究室に来るように書いてあり、その後で添えるように、「待ち合わせまでに時間があるから、鷹矢の家に寄ってこい」との指示書きがあった。理由は、書かれていない。

「父さんも、この人も、ホンットに乱暴なんだよな」

 征四郎は、溜め息をつきつつ頭を掻いた。辺りを見回し、乗合馬車や人力車が集まる停車場を探す。

 征四郎は、駅の構内を歩きながら、「古都」の変化は未だ「東京」に比べて緩やかだと思った。例えば、洋装より和装の方が目につく。故郷の「東京」では、西洋化が急速的に進み、街並みも人も日に日に変わっていっている。新たな季節が訪れたことを喜ぶように、誰もがみな、新しい時代への期待を隠せないでいた。

 初めて触れる「東京」とは異なる趣に、征四郎は、若者らしい好奇心もそそられていた。駅の構内から、やや遠くに高層の塔が見える。あれが「東寺」の五重塔かと目を見張ったとき、幾筋かの涙の跡はもう乾いていた。

 十分ほど人混みの中を歩き回った後、駅の外れに停車場を見つけた。近付くと、五、六人の車夫の一団から愛想良く手招きをされた。

「兄さん、学生さんかい? 安くしとくよ」

 俺も俺も、と肉付きの良い車夫が前のめりに手を伸ばしてくる。

「京都は初めてかい? 俺なら、案内も込みだよ。乗合馬車じゃあ、こうは行かねえなあ」

 と、またその隣りの、少し年上に見える浅黒肌の男が溌剌とした声で言った。

 征四郎はやや気圧されながら、ここまで行きたいのですが、と啄馬からの手紙に記された住所を指差して見せた。その住所は、二条通り、から始まっている。征四郎の指先を目で追った車夫たちは、一斉に顔を見合わせた。

「これ、鷹矢様の御屋敷かい?」

 一番年を重ねているであろう白髪の車夫が言った。征四郎が事情を飲み込めないでいるうちに、間髪入れず、それなら話は別だ、と首を横に振られた。その言葉に付き従うように、全員が怪訝な眼差しを向けてきた。明らかに目が、そこに向かう理由を求めていた。

「兄さん、あのお屋敷に、何の御用だい? まさか、その形(なり)で、医者の先生って訳でもあるまい」

「僕は、大学の先生に言われて――」

 最後まで言い切らないうちに、厄介事は御免だ、と言葉を遮られた。既に白髪の車夫以外の男たちは、さも何事も無かったかのように他のお客に誘いをかけている。一人残った白髪の車夫だけが、疑わし気な目つきで征四郎の頭上から爪先まで流すように眺めた。

「今は、俺たちは彼処には行けねえな。兄さんも、余程のことじゃなけりゃあ止めときな」

 そう言うと、白髪の車夫は身を翻した。引き留めようと手を伸ばした征四郎を制すように、車夫は肩越しに言った。

「彼処は、憑かれた家なのさ」

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