第51話 四面楚歌
「その怪我、どうされたのですか?」
晶紀は、小春の姿を見るなり驚いて叫んだ。
手や足、そして顔にも何かに引っ掻かれた傷が残っていた。
着ていた服も傷だらけになっていたので、新しい服に着替えていた。
「青鬼と闘ったんだ」
「まあ、青鬼と? それでは、倒したんですか?」
「いや、逃げられてしまった。でも、傷を負わせることはできたよ」
「小春様は大丈夫なんですか?」
「大丈夫、かすり傷ばかりだ」
しかし、かすり傷で済んだのは奇跡かもしれない。相手の動きは驚くほど速く、小春はほとんど避けることしかできなかった。
だから、傷を負わせたあの時にとどめを刺しておきたかった。しかし不幸にも、夜の闇の中では相手がどこにいるのか見ることができなかった。
次に現れるときは傷も癒えているだろう。もしかしたらあの鞭も復活しているかも知れない。本気で向かってきた時の雷縛童女に勝てる自信が、小春にはあまりなかった。
「風華とか名乗ってたな。しばらく出てくることはないだろうな」
そう言って小春は空を見上げた。
空は前の日と同じく灰色の雲で覆われ、なんとも寂しげな様子であった。
はらはらと黄色い落ち葉が落ちてきて、座っている小春の肩の上にちょこんと乗った。
その落ち葉を指でつまんで、鼻を軽くはたきながら
「次は、冬音が現れるかな」
と小春がつぶやいた。
「また、山に登るのですか?」
晶紀が尋ねる。
小春は晶紀の顔を見た。
「そうだな・・・」
晶紀が心配そうな顔をしている。
「今日はやめておくよ」
小春はそう言って、笑みを浮かべた。
桜雪と正宗、そして月影たち一行は、大府への帰途についていた。
「なんとか無事に旅を終えられそうですね」
荷車の後ろを歩いていた正宗が、隣りにいた月影に話しかけた。
「まだ油断はできません。鬼は神出鬼没ですから」
月影が、鋭い目を周囲に向けながら返した。
桜雪は先頭を歩いていた。普段は抜け目のない男であるが、珍しく考え事をしていた。
冬音のことだ。
冬音と闘って、桜雪は完全に敗北していた。
しかし、冬音は桜雪を殺さなかった。他の兵士は平気で斬り刻んでいたにもかかわらずである。
冬音の自分に対する気持ちを、桜雪はただの戯れだと思っていた。その考えを、その時からは改めることになった。
自分を死なせることができなかった冬音を見て、桜雪は複雑な気分であった。
(鬼の目にも涙とは言うが・・・)
対峙した時の悲しげな表情を、そして自分の正直な気持ちを伝えた時の微笑みを、桜雪は思い出していた。
鬼たちのせいで、多くの兵士が命を落とした。それを許すことはできない。しかし、人間の死体がなければ生きていけない鬼に対して、桜雪は憐れみを感じていた。
一行は、大府の手前にある森の中へと入っていった。
道には枯葉が積もり、その上を通る荷車が乾いた音を立てる。
空は久しぶりの青空だった。はるか高く水色の雲が流れてゆく。
「そろそろ、休憩しませんか?」
桜雪はその声を聞いて、いつの間にか正宗が桜雪の隣にいたことにようやく気付いた。
正宗が訝しげに桜雪の顔を見た。
「大丈夫ですか?」
正宗が心配そうに声を掛ける。
「いや、大丈夫だ。そうだな、少し休憩するか」
桜雪はニヤリと笑って正宗に返答した。
人足たちが座り込んで休んでいる間も、兵士たちは周囲を警戒していた。
森の中は静かだった。時折、風が吹いて枯れ葉の動く音が聞こえるくらいだ。
「なんとか今日中に大府へ着くだろう」
桜雪は大府のあるほうを眺めながら、周囲の兵士たちに話しかけた。
「それにしても森の中が静かすぎる。鳥の鳴く声も聞こえない」
月影が周囲を見ながらつぶやく。
「確かに気になりますね。まるで何か現れることを予知しているようだ」
と、正宗も月影に同調した。
「現れた時は、闘うまでだ」
桜雪は軽い口調でそう言った後、二人のほうを向いて笑みを浮かべた。
風が吹き、落ち葉が音を立てて足元を通り過ぎていった。
その落ち葉を見ていた桜雪の目に、地面に漂う白い霧が映った。
空気が冷ややかに感じる。肌を突き刺すような感覚と、押さえつけられるような圧迫感に襲われた。
兵士たちに緊張が走る。
「どうやら、現れたようだ」
桜雪が見る先に、黒い煙が立ち昇った。
艷やかな青い髪と青い肌、姿を現したのは雷縛童女だ。しかし、以前と様子が違う。
武器の鞭を持たず、しかも右足に布が巻き付けられている。相手を見下したような笑みは今はない。その表情には、人間に対する憎しみが込められているように見えた。
「後方は封術を頼む」
桜雪が素早く指示を出し、刀を抜いて構えた。
雷縛童女の手には鋭い爪が伸びている。三つの目に宿る鋭い眼光が兵士たちを萎縮させた。
ふと、雷縛童女が驚いた表情をした。月影の姿を見つけたのである。
「月影、あんた、裏切るつもりかい?」
雷縛童女が月影に向かって叫んだ。
「休戦協定は終わりだ。俺は、師の教えに従い鬼を倒す」
その言葉を聞いて、雷縛童女は呆然としていた。だが、その表情はやがて消え、代わりに現れたのは怒りの形相だ。
「ならば、ここで他の者とともに死ぬがいい」
そう言うが早いか、雷縛童女の姿がすっと消えた。
「右だ!」
月影が叫んだ時には、雷縛童女が右側にいた正宗に鉤爪を振り下ろしていた。
しかし、正宗の反応は早かった。かろうじて雷縛童女の鉤爪を刀で受け止めた。
金属どうしがぶつかったような甲高い音が響いた。恐ろしく硬い鉤爪だ。刀でも斬ることはできない。
正宗は刀を両手で持っていたが、腕が折れるかと思うほどの衝撃を受けていた。それほど、雷縛童女の一撃は重かった。
また、雷縛童女がその場から素早く動いた。月影は後方へと走った。
後方にいた兵士を狙った鉤爪の攻撃を、月影が白い刃で防いだ。
残り五枚の刃が雷縛童女を襲った。しかし、すでに雷縛童女の姿はなかった。
「恐ろしい速さだ」
桜雪が、雷縛童女の姿を見失い、思わず叫んだ。
少し離れた位置に、雷縛童女が姿を現した。
「月影、やはりあんたから始末しなきゃならないみたいだね」
その言葉を聞いて、月影は兵士たちより一歩前に踏み出した。
「いいだろう。受けて立つよ」
月影は笑みを浮かべた。
月影は、雷縛童女の動きを見て不思議に思った。
以前、雷縛童女と闘った時は、鞭の攻撃もさることながら、その俊敏な動きに翻弄されていた。
今の雷縛童女の動きは、その時よりも遅く感じる。月影には相手の動きをある程度は見切ることができたのだ。
右足に巻いた布切れは、傷を負ったためであろうと月影は考えた。
(まさか、小春と闘ったのか?)
月影は、小春のことが心配になった。
「万全ではないようだな。武器はなく、傷も負っているようだが」
「余計なお世話だよ」
「相手に負けた腹いせでやって来たのか?」
月影が相手を挑発した。
「負けたわけじゃないよ。次こそは決着をつけてやる」
相手も倒れたわけではなさそうだ。
「その前に、あんたを倒してやる」
雷縛童女はそう言って、真正面に突っ込んできた。
月影が素早く横に避けると、また雷縛童女の姿が消えた。
しかし、月影には背後へと移動する相手の姿が見えていた。振り向きざま、六枚の刃を一斉に放った。
雷縛童女は後ろへと飛び退いた。そしてまた、姿を消した。
他の兵士たちには、雷縛童女が不意に現れては月影を攻撃し、月影がそれに反撃をしているように見えていた。
どちらもお互いに傷を負わせることができないまま、闘いが続いた。
月影は刃を自分の周囲に並べた。どの方向から攻撃されても瞬時に対応できるようにするためだ。
雷縛童女が月影の真正面に現れた。月影は自分の目の前にある刃を放った。
突然、雷縛童女はその場にしゃがみこんだ。月影は対処する間もなく、雷縛童女に足を払われた。
仰向けに倒れた月影の上に雷縛童女が覆いかぶさる。
「覚悟するんだね、月影」
雷縛童女は、月影の顔めがけて鉤爪を突こうとしたが、不意にまた姿を消した。
正宗が、雷縛童女を刀で突こうとしたのだ。
「邪魔するんじゃないよ」
正宗の背後に雷縛童女が現れた。
「正宗、危ない!」
桜雪が叫んだが間に合わなかった。雷縛童女の鉤爪が、正宗の背中に食い込み腹を突き破るのが桜雪の目に映った。
桜雪は、雷縛童女に突進して上段から刀を振り下ろした。
雷縛童女はまた姿を消した。
桜雪はすぐに前へと転がり、起き上がってあたりの様子を見た。
自分のいた場所に雷縛童女が立っている。
「あんたも邪魔するのかい」
雷縛童女が初めて笑みを見せた。青く美しい顔に、白い牙のある歯がはっきりと見える。青い髪は陽の光に輝き、まるで銀の糸のように見えた。
その姿を前にして、放胆にも桜雪は目を閉じた。
雷縛童女は、桜雪の奇妙な行動を見て不思議そうな顔をしたが
「気配だけで動きを見切るつもりかい」
と嘲りの表情を浮かべた。
雷縛童女の姿が消えた。
桜雪は、目を閉じたまま振り向いて刀を振り下ろした。
雷縛童女が驚いた顔で後ろへと飛び去った。
また、雷縛童女が姿を消した。
桜雪は、今度は左へ向いて刀を横に薙いだ。
鋭い金属音があたりに響いた。雷縛童女の鉤爪と刀の刃がぶつかったのだ。
敵を前にして目を閉じるなど、無謀ともいえる行為だが、そのことではっきりと相手の気配を掴むことができるようになった。
雷縛童女は素早く桜雪から離れて背後へと回るが、桜雪も振り返り刀を構える。
それでも構わず、雷縛童女は桜雪に突っ込んできた。桜雪は刀を振り下ろすが、雷縛童女は姿勢を低くしてそのまま体当たりをした。
桜雪を抱えたまま、雷縛童女は走るのを止めない。やがて、一本の木に激しく激突した。
「ぐっ・・・」
桜雪は、その衝撃にたまらずうめき声を上げた。
雷縛童女が、桜雪の顔に爪を突き立てようとしたその時である。
何か大きな黒い影が、猛烈な速さで雷縛童女に突進してきた。
「今日あたり、桜雪殿たちが戻ってくると思うのだが」
大府の北門で見張りをしていた兵士の一人が、門から続く道のほうを眺めながら口を開いた。
「青鬼に襲われてなければよいが」
すぐ横にいた別の兵士が言葉を返す。
「桜雪殿なら、もしかしたら・・・」
「さすがに無理だろう。この前、鬼と闘ってあっけなく負けていたからな」
そう言って頭に手をやり、うつむいた時、遠くから雷の音が響いてきた。
「雷か?」
周囲はきれいな青空の中、いつの間にか、遠くに黒い雲が現れていた。
「なんとも禍々しい雲だな」
「何かの前兆だろうか? 不吉だな」
二人は遠くの雲に気を取られ、足下に迫っていた霧に気づかなかった。やがて、背筋を冷たいものが走り、頭から押さえつけられるような圧迫感を感じるようになった。
「まさか、鬼か?」
「気をつけろ、あの女かも知れぬ」
しかし、堀の向こう側、黒い影から現れたのは赤鬼だ。右手には棍棒を持ち、一つの目で兵士たちを睨みつけた。
「赤鬼だな。俺が足を斬るから、お前たちでとどめを刺してくれ」
「いや、待て。様子がおかしい」
斬り込み隊の一人が進み出ようとするのを他の兵士が制止した。黒い影が至るところに出現し始めたのだ。
やがて姿を表した赤鬼の数は二、三体どころではない。見渡しただけで十体以上はいるだろう。剣生や月影くらいしか鬼を退治できる者のいなかった白魂とは異なり、大府では兵士の力で赤鬼を駆逐することができた。そこで、数で相手を圧倒しようと考えたのだろうか。しかも、出現したのは大府の門の前である。
「まさか、鬼が街を襲うつもりなのか!?」
今まで、鬼が村や集落を襲うことはなかった。だが、どう見てもこの鬼の大群は街を滅ぼすために現れたとしか思えない。
「この数が相手では、我々だけで対処するのは無理だ。すぐに応援を呼んでくれ。それから民たちに家の中に隠れるように伝えるんだ」
その言葉に、一人が急いで街の中へ走ってゆく。それと同時に赤鬼たちが橋を渡り始めた。橋は頑丈で、鬼たちが渡ってもびくともしない。その丈夫さを、兵士たちは恨めしく思った。橋が落ちれば街への侵入を防ぐことができるからだ。
先頭の鬼が橋の中央を過ぎたところで、櫓から無数の矢が鬼たちの目を狙って放たれた。しかし、鬼たちは棍棒で目を守りながら突進を続ける。たくさんの矢をその身に受けて、それでも前へ進む赤鬼たちを見て、門の前の兵士たちは狼狽した。
門の前にたどり着いた鬼が、すかさず棍棒を地面に叩きつけた。しかし、一人が足下へ入り込み、鬼の足を斬りつける。足を斬られた鬼はその場に倒れ込んだ。だが、その横に別の鬼が現れ、同じく棍棒で兵士たちに殴りかかる。
地の底が震えているような轟音が響き、土と血が舞い上がるその背後で、門扉が少しずつ閉じ始めた。
「全員、門の内側に撤退するんだ」
号令とともに兵士たちは門の内側へ退却を始めた。弓矢による攻撃は一層激しさを増し、頭が針山のようになった鬼もいた。しかし、鬼たちはひるまない。門扉が完全に閉まると、今度はその門扉を棍棒で叩き始めた。
門扉は、巨木を横に並べ、その周囲を厚い鉄の板で覆って作られていた。鬼の攻撃でも、簡単に破ることはできない。それでも鬼はあきらめず、何度でも棍棒で殴り続ける。鉄の板はへこみ、中の木には亀裂が走る。このまま攻撃を続ければ、やがて門も破られてしまうだろう。
兵士たちも負けてはいない。櫓からは火の矢を放ち、大きな岩や煮えたぎる油を落として応戦した。炎に包まれ、目を潰され、戦線離脱する鬼たちもいたが、その後ろから新しい鬼たちがやってくる。
「いったい、どれだけいるんだ?」
これほど大規模な鬼の襲撃は、白魂でもなかったであろう。しかも、これは北門だけの出来事ではない。東西南北すべての門の前で、鬼と兵士の激闘が繰り広げられていた。
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