第35話 新たな目的
「太助さんはいるかい?」
老人が家の前で声を掛ける。
「誰だい?」
「喜平だよ。ちょっと頼みがあってね」
戸を開けて現れたのは、目がくぼみ、頬のこけた色黒の男だった。見た目だけでは年齢が判別できない。
老人の名は喜平というらしい。そう言えば、そんな者がいたなと小春は今更になって思い出した。喜平は太助に、剣生の家に入りたいと申し出た。
「別にいいが、どうして急に?」
そう尋ねた太助が、喜平の後ろに立っていた小春に気づいた。
「あんた・・・小春さんか?」
どうやら太助は小春のことを知っていたようだ。
「師匠の家で、ちょっと調べたいことがあってね」
小春の言葉を聞いて我に返った太助は
「ああ、そういうことかい。調べるのはいいが、ちゃんと元に戻しておいてくれよ」
と話した後
「それにしても、あんたはちっとも変わらないな。前に会った時は、俺はまだガキだったよ」
と付け加えた。
「そうか、時の経つのは早いもんだな。私がここを去ったのが、ついこの間のように感じるよ」
「それにしても、どうして急に白魂を去ったんだい?」
太助は、小春が白魂を追い出されたことは知らないらしい。
「まあ、いろいろとあってな。じゃあ、少し見させてもらうよ」
小春はそう言い残し、剣生の家へ向かった。
久しぶりに戻ってきた昔の我が家は、小春が去った頃と少しも変わらなかった。
戸を開けると、土の香りが漂ってくる。部屋の中央に囲炉裏があり、その向こう、壁の前に置かれた飾り棚も昔のままの状態だった。
食事時、奥の部屋にいた剣生が、囲炉裏の前に座り、黙ったまま目の前の食べ物を口の中へと流し込む。そんな情景を小春は思い出した。
小春は、その奥の部屋へと進んだ。
しばらくの間、小春はその場で立ち尽くしていた。
机が一つ、窓の下に置かれている。両側の棚には様々な書物が並べられ、机の上にも乱雑に積み上げられていた。
剣生が生きていた頃は、この部屋には入ることができなかった。剣生が亡くなった後も、入ろうとは思わなかった。
だから、信じられないことだが、これだけ長く生きているにも関わらず、この部屋に入るのは初めてのことだ。
定期的に掃除をしているのだろう。床も机の上も埃はほとんどない。試しに書物を一冊手に取ってみた。たちまち、埃が舞い上がる。小春は思わず咳き込んだ。
手にした書物は剣術の指南書で、小春も過去に剣生に命じられて読んだ記憶があるものの、その内容は、ほとんど忘れてしまった。
他の書物をざっと眺めてみるが、手掛かりになりそうなものは見当たらない。
(きっと、目に触れることのない場所に保管されているはずだ)
そう当たりをつけて、机の引き出しをそっと開けてみた。
木彫りの人形を見つけた。小春が子供の頃、気まぐれで作って剣生に渡したものだ。まさか、まだこんな所にあったとは小春も思っていなかった。
他に目を引くものは何もなく、次の引き出しを開ける。そこにも特筆すべきものはない。
最後の引き出しを開けると、その中にも書物が入っていた。
一冊ずつ取り出しては内容を確認する。剣術関連だけではなく、様々な妖術に関する書物、医学に関する書物、草花の絵が描かれた図鑑まであった。
その中に、一枚の折りたたまれた紙を見つけた。古くて端はボロボロになり、茶色く変色している。ゆっくりと広げてみたところ、どうやら地図のようだ。
その地図の横に、いくつかの名前が書き込まれていた。『青葉』『桜』『花梨』そして『小春』。
小春の本当の名前は、小春しか知らない。そして、それを明かしてはならないことは小春が物心ついた頃から何故かすでに知っていた。
『小春』という名は、剣生が代わりに付けてくれた。以来、名前を聞かれたときはこの呼び名を使っている。
その名前がこの地図に書き込まれている。他の名前は候補だったものだろうか。地図に書かれた目的地は自分に関係する場所なのだろうと小春は考えた。
(もしかして、私の出生場所は白魂ではないのか?)
この地図が、自分の出生場所を表しているのならば、母親が白魂で小春を生んだというのは嘘になる。もしかしたら、父も母もこの地図に記された場所にいるのかも知れない。
いずれにしても、そこに何らかの手掛かりが隠されているに違いないと小春は確信した。
この地図をそのまま持っていくことはできない。使っているうちに崩れてしまいそうだ。新しい紙に書き写すことを思いつき、喜平に紙と筆を借りるために小春は剣生の家を飛び出した。
喜平の家にたどり着き、戸を叩くと、中から
「誰だい」
という声がした。
「私だ、小春だ」
「いいぞ、入ってきなさい」
戸を開けると、中に見慣れない男が立っていた。まだ若いようだが、その顔は、小春を白魂から追い出した代表を思い起こさせた。
「小春、あんた戻ってきてたのかい?」
男が叫んだ。
「戻ったわけじゃない。ちょっと立ち寄っただけだ」
小春の言葉に
「あんた、俺の親父に追い出されたんだろう? あまり白魂の中をうろつくんじゃないよ」
と男は返した。どうやらあの代表の息子らしい。どうりで似ているわけだと小春は思った。男の方は小春の事を知っているようだが、小春は全く記憶にない。
「言われなくても、こんな所に長居するつもりはないよ」
小春が真顔で言い返すのを男は鼻先であしらい、喜平に向かって
「じゃあ、今から行ってみるかい?」
と問いかけた。
「いや、その前に小春さん、何か用かね?」
喜平が尋ねるのを聞いて、小春は思い出したように
「書くものを借りられないかと思ってね」
とお願いした。
喜平に紙と筆、それに墨や硯を借りた小春が
「ところで、どこへ行くんだい?」
と喜平に尋ねた。
「お絹のお墓だよ」
「えっ?」
驚く小春を尻目に
「喜平さん、さあ、早く行くよ」
と男が促した。
男が喜平を連れて歩く後ろ姿を、小春は見送ることしかできなかった。
紙に地図を写しながら、小春は書かれている場所を確認していった。
主要な場所には、その地名が書かれていたから、場所はかなり正確に把握することができた。ただ、目的地点らしき箇所には地名がない。
森神村の名前もあった。天狗が作った村だから、かなり古くからあったのだろう。
目的地点は、森神村よりも西の位置だ。見たところ、大虫村の南側にあたる。
(仙蛇の谷の南?)
仙蛇の谷に向かう途中、道に迷ったことがあった。その時、沼からさらに南の方へと進む険しい道があった。
あの場所なのだろうかと小春は考えた。
地図を写し終えた後も、他に手掛かりがないか、さらに書物を一つずつ確認していった。
ほぼ全ての書物を確認し終えた頃には、もう陽が傾いて外が少し暗くなり始めていた。他に手掛かりになるようなものは見つからず、小春は、部屋を後にすることにした。
調べた書物はできる限り元の状態にしたつもりだった。小春は、確認のため部屋の中を見渡してみた。薄暗い部屋の中、剣生が一人、机の前で座っている姿を思い浮かべると、自然と涙が込み上げてくる。
囲炉裏の前に座り、しばらくの間、部屋の中で佇む。今にも、剣生や月影の声が聞こえるような、そんな気がした。遠い昔の記憶がいろいろと蘇っては消えていった。
小春が子供の頃、剣生が大事にしていた皿を誤って割ってしまったことがあった。有名な陶芸家の手によるもので、非常に高価な品物だ。村で悪さをした時はいつもどこかに隠れてしまう小春が、このときは皿を割ってしまったことを剣生に打ち明け、素直に謝った。
すると剣生は顔を真っ赤にして怒り、月影が慌てて剣生の気を鎮めようとした。
「師匠、小春はわざと割ったわけではないのです。どうか許してやって下さい」
「月影、お前は黙ってろ。小春、お前はどうしていつもそうやって悪さばかりするんだ」
剣生がそう言った瞬間、いつもなら怒られても不満そうな顔で黙っている小春が、大声を上げて泣き始めた。
いつもと違う反応をした小春を見て剣生が唖然としている間に、小春は家を飛び出してしまった。
「こら、待て。どこに行く、小春」
剣生は怒りがすっかり消えてしまったようだ。小春の後を追い、外に飛び出す剣生を見て、月影も小春を追うために家を出た。
すでに日が暮れてあたりは暗く、小春の姿はどこにも見当たらない。月影は、裏山を探してみることにした。
月影の勘は的中し、程なくして小春の泣き声が聞こえてきた。それを頼りに暗がりの中を探してみると、しゃがんで泣きじゃくる小春を見つけた。
「ここにいたのか、小春」
月影の声を聞いても、小春は逃げようとしない。その場で泣くばかりだ。
「いつもなら決して泣かないお前が、どうしてそんなに泣くのだ? 師匠もびっくりしていたぞ」
「だって・・・悪さしていないのに・・・怒るんだもん」
しゃくり上げながら、小春は言葉を返した。皿を割ったのはわざとではない。悪いことなどしていない。だから小春は正直に話したのだろう。なのに剣生に怒られたから、理不尽に感じて泣いたのだ。
「大事なものを壊されたから、頭に血が上ってしまったんだよ。もう落ち着いた頃だろう。さあ、家に戻ろう」
「父上は、私よりお皿の方が大事なのか?」
「そんなことはないさ。お前が家を飛び出すのを見て慌てていたよ。いつもは冷静なのに、あんなにうろたえる師匠は見たことがないな。それだけ、お前のことが大切なのだろう」
月影に連れられて小春は家に戻ったが、剣生はまだ小春を探しているようだった。
「師匠を探してくるから、お前はここで待っているんだ」
そう言い残して月影が家を出てから、どれだけ経っただろうか。剣生と月影が戻って来た時には、小春は寝息を立てていた。
「全く、心配を掛けおって」
剣生は、小春をそっと抱きかかえ、寝室へと運んだ。
「本人は悪さしたと思ってないから、師匠に怒られて驚いたみたいですね」
「・・・少々、大人気なかったか。しかし、悪さしていないから素直に謝るというのは頂けないな。普段からそうあってほしいものだが」
剣生は苦笑いした。
剣生がどれだけ小春のことを大事にしていたか、剣生が亡くなるまで小春が気づくことはなかった。そのことを痛感したのは、剣生が鬼に殺された時だ。
いつもの冷静な剣生であれば、鬼に倒されることなど絶対にありえない。しかし、小春が鬼の一撃を受けそうになった時、剣生は気が動転したのだろう。その結果、あるはずのないことが起こってしまった。
生前、小春が剣生に感謝の言葉を伝えたことなど一度もなかった。自分のせいで命を落としたことに対して謝罪することもできない。もし、望みが叶うのなら、小春は剣生に会うことを願うだろう。
主のいない家の中、すでに闇に包まれた部屋の中で、小春は一人、声を殺して泣き続けた。
小春が家を出た頃には、もう周りは暗くなり、満天の星が頭上に輝いていた。後ろ手に戸を閉め、小春は振り向くことなく前へと歩き出した。
喜平の家には灯りが点いていた。戸を叩くと、喜平の声が聞こえる。
「小春さんかい?」
「そうだ」
「いいよ、入んな」
喜平は部屋の中で座ってお茶を飲んでいた。おそらく、例の紅茶だろう。
「これ、貸してくれてありがとう」
そう言いながら、小春は喜平から借りたものを返した。
「ああ、探しものは見つかったのかい?」
「一つだけ見つけたよ」
「そうかい、それはよかったな。しかし、鍛冶師など探してどうするんだい?」
「自分の出生について知りたいんだ。もしかしたら、その鍛冶師が私の父親かも知れない」
「お前さん、剣生様の娘じゃないのか?」
喜平をはじめ、白魂の住人は小春を剣生の娘だと思っていたらしい。剣生が父親ではないことを告げた白魂の代表が、どういう経緯でそのことを耳に入れたのか、小春には知る由もなかった。
「師匠の娘でないことは確かだ」
小春はそう言いながら、昼間のことを思い出し
「そういえば、昼間に来ていたあの男、お絹さんが亡くなったことを知らせに来たのかい?」
と喜平に尋ねてみた。
「ああ、菊介さんのことだな。彼は今の白魂の代表だよ。お絹は昨夜亡くなったと聞かされた」
「私が調べたときには、そんな様子はなかったがな」
「それなんだが、わしが行った時にはすでにお絹は墓に埋められていてな。死に顔を見ることもできなかった」
「じゃあ、本当に遺体が埋められているかどうかも分からないということだな」
「そういうことになる。どうして墓に埋める前にひと目会わせてくれなかったのかと言ったんだが、冬音様に一度仕えた者とは、死んでからも顔を合わせることはできない、と返されたよ」
「墓を掘り起こしてみたらどうだ?」
「えっ?」
「本当に死体が埋められているかどうか、はっきりするだろう」
「しかし、それは・・・」
喜平はそのまま口を閉じてしまった。
どちらも何も言わぬまま時間が経過し、再び口を開いたのは喜平の方だった。
「死体があろうがなかろうが、お絹が死んだことに変わりはない。それにな」
喜平は小春の顔を見て話を続けた。
「お絹がいなくなったから、今度はわしが冬音様に仕えるようにと、菊介さんから今日話があったんだ」
その言葉を聞いて、小春は
「悪いことは言わない。すぐに白魂から逃げた方がいい」
と助言した。
その日は、喜平の家で寝泊まりさせてもらえることになった。
一宿の恩にと、夕食は小春が料理した。喜平は、お絹がいなくなってから、ろくな料理を食べていなかったらしい。目の前に差し出された料理の数々に目を丸くしながら
「すごいな、小春さん。こんなに料理が上手だとは思わなかった」
と思わず口にした。
「師匠といる時はいつも私が料理を作っていたんだ。これくらいのことはできるさ。口に合うかどうか分からないが、まあ、食べてみてくれ」
小春に勧められ、さっそく喜平は料理を食べ始めた。
「うん、うまいよ。剣生様は毎日こんな美味しい料理を食べていたんだな。羨ましいよ」
小春の料理を褒める喜平に
「師匠は料理に対しては何も言わなかったな。食べてる時はいつも黙っていた」
と小春は昔のことを話した。
「剣生様が亡くなった後、お前さんが突然いなくなった時は大騒ぎになったぞ。しかし、まさか先代に追い出されていたとはな」
「誰も知らなかったのか?」
「わしは何も聞かされておらんかった。ほとんどの者はおそらく今でも知らないだろうな」
「そうか」
「お前さんがよければ、また白魂に戻ることもできるのではないか? 先代はもう亡くなった。誰も文句を言う者はいないだろう」
「少なくとも、目的を達成するまではここに留まる気はないよ」
「鍛冶師が見つかった後はどうするんだい?」
「まだ、何も考えていない」
「じゃあ、ここに戻ることを検討してもいいじゃないか」
「そうだな」
小春は、白魂に戻ることはできないだろうと考えていたが、どうやらそれは誤りだったようだ。もし、鍛冶師に会うことができたら、その後は白魂に住み続けるのも悪くはないと思った。
「私は、明日には出発するつもりだ」
小春は喜平にそう告げた。
「そうか」
「あんたはどうするんだ? この村を出るのなら、いっしょに行かないか?」
喜平はしばらく考え込んでいたが、やがて首を横に振りながら口を開いた。
「わしは残るよ」
「なぜだい? 森神村というところに知り合いがいるから、頼めばそこで暮らすこともできると思うぞ」
「ここはわしの故郷だからな。そう簡単には離れられんよ。それに、私はまだ冬音様のことを信じているからね」
「そうか」
小春は、それ以上は何も言わなかった。
翌朝のことである。
「いろいろと世話になったな」
小春の感謝の言葉に喜平は
「いや、無理なお願いをしたのはわしの方だからな。ありがとう」
と返事した。
「それじゃあ、達者でな」
小春はそう言って、笑みを浮かべながら喜平の顔を見た。喜平も小春に笑顔を向ける。喜平の家を後にする小春が、やがて人混みの中に埋もれて見えなくなるまで、喜平はその姿を見送っていた。
小春には、白魂の地を去る前にもう一つ寄りたい場所があった。剣生の墓である。
村外れにある墓地にたどり着いた。剣生の墓には、他よりも大きな石の墓標が立てられ、今でもたくさんの花が手向けられている。
剣生が亡くなってから、白魂を追い出されるまでは毎日ここに来て泣いていた。これからどうしたらいいのか、不安でたまらなかった。
白魂を去ってから、一度もここには訪れていない。久しぶりに墓を前にして、小春は、追い出される前の頃に時間が巻き戻された気がした。
悲嘆に暮れる小春に声をかける村人は誰もいなかった。その時は、自分が疎外されているのだと感じていたが、今になって思えば、声をかけることができなかったのだろう。
子供の頃はいたずらばかりで、村人からは疎まれていた。やがて成長してからも、自分から村人のことを避けていた。それでも喜平のように、小春に好意的な者はいる。与一や桜雪、そして晶紀もそうだった。小春の中で、人間に対する気持ちが少し変わってきた。
「また、いつか戻ってくるよ」
小春は、墓標に向かって小さな声で話しかけた。それだけ言い残して、その場を後にした。
白魂から南へと下る道が、地図には記されていた。小春は、その地図の示す通りに歩いてみることにした。まず、目指すは森神村だ。
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