第34話 帰郷
八角村から札が納品されたのは、儀式が行われてから十日後のことだった。
儀式が終わった直後、大府は八角村に使いの者を送った。八角村は、知らせを受けたその日のうちに札を積んだ荷車を大府に向けて出発させた。
まさに札の在庫が底を突く直前に、その荷車は無事、大府へと到着した。
「いや、一時はどうなるかと思ったが、なんとか間に合った。千代殿に感謝だな」
北側の門番をしていた蒼太が、運ばれてきた札を見て安堵の表情を浮かべた。
そして、札が納品されてからいく日かが過ぎた頃、桜雪は謹慎が解かれ、紫音の下で兵士として復帰した。
「いろいろと迷惑を掛けたな、紫音」
「まあ、いいさ。それより、礼なら冬音殿にするんだな」
「冬音殿に?」
「お前が謹慎処分になってから、何度も年寄衆のところへ行ったみたいだからな」
「そうか・・・」
儀式の後、冬音とはまだ一度も顔を合わせていない。
晶紀を生贄に差し出すことを提案したのは冬音だ。それが苦渋の決断だったとしても、縁もゆかりもない大府のために自分の従者を犠牲にした冬音のことが、桜雪はもはや理解できなかった。
「なぜ、冬音殿は大府のために尽くそうとするのかな?」
桜雪は、紫音に尋ねてみた。
「俺にも分からんよ」
紫音はため息をついた後、そう答えた。
二人は、生贄の儀式を行う山の麓にたどり着いた。
「この上で、何が行われたのだろうか」
桜雪が、頂上の方を見上げてつぶやいた。
「せめて、何も知らないまま最期を迎えたことを祈るよ」
紫音も、そう言って上を見上げる。
そのとき、絹を裂くような声が聞こえた。
「桜雪様!」
桜雪が声のした方へ振り向くと、そこには冬音が呆然と立っていた。
冬音は、桜雪の下へ足早に近づき、胸に顔を埋めた。
「ようやく謹慎が解かれましたのね。私、心配で、心配で・・・」
顔を上げる冬音の顔は悲しみに満ちていた。目からは大粒の涙がこぼれ落ちる。
「冬音殿、ご心配をお掛けしてすまない。年寄衆にも掛け合って頂いたと伺いました。なんとお礼を申し上げてよいか」
「いいえ、私が悪かったのです。大切な晶紀を、大府のため生贄に捧げてしまったのですから」
首を横に振りながら叫んだ後、桜雪の顔をじっと見つめながら
「桜雪様は、私を軽蔑なさっているに違いありません」
と震える声で言ったきり、冬音は下を向いてしまった。
桜雪は困り果てて紫音の方を向いた。紫音は禿げた頭を掻きながら冬音の方を見ている。
「私は冬音殿に対してとやかく申すつもりはありません。むしろ悪いのは大府側の方なのですから」
冬音の両肩をそっと抱いて、桜雪が優しく言葉を掛けると
「本当ですの?」
と冬音は顔を上げた。美しく輝く瞳が桜雪の心を捕らえ、桜色の唇に思わず吸い込まれそうな感覚を覚える。この世のあらゆるものが、冬音の美しさを例えるには役不足であるかのように桜雪は感じた。そして、桜雪はその中に潜む危険な香りを本能的に察知していた。
桜雪は、冬音の呪縛から逃れるように冬音の身体を引き離し
「もちろんです」
と笑みを浮かべながら答えた。
「冬音殿、今日はなぜこちらまでお越しに?」
紫音が冬音に尋ねた。
「山の上が今どんな状態か確認に来ましたの。今から登って、見て参りますわ」
そう言って、冬音は石段の方へと進んだ。
冬音は一人、石段を上っていった。
陽は山の斜面を照らし、石段の上は目が開けられないほどの眩しさだ。
その中を進む冬音は真っ白な衣装を身にまとい、光の中から現れた妖精のように見えた。
やがて頂上にたどり着く。中央には真っ青な色の太った鬼があぐらをかいて眠っていた。言わずと知れた、炎獄童子だ。
そして、その横に青い肌の美女が立っていた。虎柄のさらしと腰巻きを身に付け、手には鞭を持っている。雷縛童女である。
「冬音様、炎坊はどうしたのですか?」
「剣生が使っていた刀が見つかってね。処分しに行ってるよ。それより、白魂の方はどうだい?」
「生贄の人数はきちんと合っておりました」
「そうかい。でも、そろそろ人数を増やしたいねえ。今のうちに獄卒を白魂の付近に出しておくかい」
「今のうちにですか?」
「長い間、獄卒は現れていないんだ。私のいない時にいきなり獄卒が出てくれば白魂の連中も慌てるだろう。私が戻ればすぐにすがりついてくるよ。生贄を増やせと言えば従うはずだ」
「なるほど、分かりました。大府の方は?」
「今は出さない方がいいだろう。生贄が効果ないと思われたらまずいからね。でも、次の新月の夜にちゃんと生贄が用意できなければ、獄卒の数を一気に増やしてみようかね」
「用意されそうですか?」
「あの様子じゃ何とも言えないねえ。とにかく、今は何もしないでおこう」
儀式を行えば、生贄を差し出せば鬼を封じることができるというのは真っ赤な嘘だった。
赤鬼は、冬音が指示をすれば自由に配置することができるらしい。
何のためにこんなことをするのか。生贄をどうするつもりなのか。それはわからない。
しかし、冬音が大府のために来たのでないことは確かだ。
冬音はかつて、鬼が大府を第二の白魂にしようと考えていると説明していた。
それは鬼ではなく冬音のことなのではないか。
このまま、冬音の言いなりになっては危険な気がするが、残念ながら大府の者はこのやり取りは全く知らない。
「じゃあ、白魂の方は引き続き頼んだよ」
冬音は、そう言い残して石段を下りていった。
小春は、遂に白魂へと到着した。
すでに夜となっていたが、まだ多くの人が外を歩いている。
家から漏れる光が、道をかすかに照らし、その道が遙か先まで続いている。
小春のことを知っている人間は恐らくいるだろうが、見つかったとしても旅の途中で寄っただけだと言えばいいと小春は考えていた。目的地は自分が住んでいた場所、剣生の家だけだ。それ以上、長居する気は全くなかった。
大刀を背負う小春の姿を見て、たいていの者は横に避けて通り過ぎる。周囲からの視線を浴びながら、小春は先へと進んだ。
「お前、小春じゃないのか?」
突然、声を掛けられ振り向くと、一人の老人が立っていた。
「戻ってきたのか?」
老人が尋ねるので、小春が
「ちょっと寄ってみただけだ。すぐに出て行くよ」
とだけ返して先に進もうとしたとき、老人が、立ち去ろうとする小春の下へ駆け寄ってきた。
「待ってくれ。話があるんだ」
その言葉に小春は立ち止まり、老人の顔を見た。
「ここではちょっと話しづらい。わしの家に来てくれ。頼む」
自分の住んでいた家がどうなっているのか尋ねることができると考えた小春は
「わかったよ、案内してくれ」
と老人の家に立ち寄ることにした。
家にたどり着くと、老人は小春を部屋に座らせ、台所へと向かった。
「見たことがあるかい?」
と言って老人が差し出したのは、紅色の飲み物が入った湯呑だ。
「きれいな色だな。紅花でも煎じたのかい?」
「いや、紅茶と言ってな。加工した茶葉を湯の中に入れて蒸らすとそんな色になるんだ」
「茶葉は緑じゃないか?」
「加工すると赤くなる。味も随分と変わるよ。飲んでごらん」
小春は一口飲んでみた。渋みは緑茶に近いものの、鼻に抜ける果実のような香りが緑茶にはない独特のものだった。
「おいしい」
「手に入れるのが大変なんだぜ」
茶葉と言えば、煙草と並ぶ嗜好品で高価なものとされている。小春は、今までに緑茶を数えるほどしか飲んだことがなかった。もちろん、紅茶は初めてである。
「これだけの物が手に入るということは、相当贅沢ができるということだよな」
「ああ、昔のことを思えば随分よくなったよ」
「鬼が出なくなったそうじゃないか」
「やはり知っていたんだな。もう長いこと、鬼の姿は見ていない」
「冬音という者が儀式で鬼を封じたのだろう?」
「冬音様のことも知っているのか?」
老人が目を丸くした。
「ああ、白魂から来た晶紀という女性から話は聞いたよ」
「晶紀?」
老人は、晶紀のことは知らないらしい。
「冬音さんの従者と言っていたが」
「そうか・・・」
老人は、しばらく黙ったまま下を向いていたが、すっと顔を上げて口を開いた。
「その冬音様のことだが」
老人がそこでまた言葉を切るので、小春は老人が話を続けるのを待った。
「白魂では毎月、何名かの村人が冬音様の下へと召されるんだ。自分から志願する者も中にはいるが、大半は指名される。そして、一度冬音様の屋敷に入れば、死ぬまで会うことはできなくなる」
「そんなに従者を増やしてどうするんだい?」
「召されるのは年寄りばかりなんだ。若者が指名されることは滅多にない」
老人は下を向いて話を続けた。
「だから、冬音様の下へ召された者は間もなく死ぬのだろうと昔から噂があったよ」
「その冬音さんが、わざわざそういう人を選んでいるということかい?」
「理由はわからないがな」
老人は、小春の顔を見た。
「実は、わしの妻が少し前に指名されてな。今、どうしているのか全く分からないんだ。冬音様のお屋敷へ行っても教えてはもらえない」
「それで、私に調べてほしいと?」
「そういうことだ。お前、昔から人の家に忍び込むのは得意だっただろう?」
小春は小さかった頃、いろいろな悪さを働いていた。作物を勝手に採ったり、屋根伝いに走り回っては家を壊してしまったり、家畜を追い回して逃がしてしまったこともあった。たいていは、剣生や月影が謝りに回る。そして、小春はどこかに隠れて姿を見せなくなる。一度隠れてしまうと、見つけるのは至難の業だった。遠い昔の話なのに、白魂ではそのことが語り継がれ、村人にとって小春と言えば、いたずら好きの妖精のような印象が今でも強かった。
「名前や特徴は?」
「名は絹という。特徴は・・・」
老人はしばらく考え込んでいたが、やがて肩をすくめて口を開いた。
「これといって思い浮かばないな。白髪頭で、左目の下にほくろがあるくらいか」
「まあ、なんとかなるだろう。ところで、報酬の件だが」
「わかっておる。何がほしいんじゃ?」
「いや、物はいらない。私も一つ頼みがあるんだ。実は、白魂に戻ったのは、師匠の家でちょっと調べ物をしたかったんだ」
「何を調べるんだ?」
「私の持っている刀を鍛えた鍛冶師を探しているんだ。その手掛かりがないかと思ってね」
小春が傍らに置いていた大刀を老人はじっと見ていたが
「わかったよ。あの家は剣生様の家としてずっと残してある。管理している者がいるから、明日にでも話をしてみよう」
と小春の頼みを聞いてくれた。
「よし、じゃあ屋敷に案内してくれるか?」
そう言うと、小春は老人に向かってニヤリと笑い、立ち上がった。
冬音の屋敷は白魂の北側、小高い山の近くにあった。その山は昔、小春の遊び場であったが、晶紀の話では現在は立入禁止となっているらしい。
屋敷は、四方が高い塀で囲まれている。門の前には見張りが数人立っていたが、それ以外の場所には誰もいないようだ。
屋敷の東側は雑木林となっていた。小春はその中に入ると木に登り、塀の向こう側を覗いてみた。
大きな屋敷のあちらこちらの部屋にまだ灯りが見える。見たところ、塀の中に見張りは立っていない。庭はきれいに手入れがされ、灯籠の灯りでぼんやりと照らされていた。木々が多く、隠れる場所はいくらでもある。
小春は、木から塀の上に飛び移り、そのまま下へと降り立った。
屋敷の方へと用心しながら近づいていき、一本の木に素早く登って、屋根の上に飛び乗る。
そして、屋根に張られた板の一枚を外し、屋根裏へと潜り込む。昔、悪さをした後に隠れるときの常套手段だ。
階下の部屋から漏れる光のおかげで屋根裏の様子はだいたい把握することができた。
天井板を少しずらし、部屋の中を覗いてみる。灯りの下、一人の男が紙に何かを書いていた。他に人はいない。
小春が天井板を元に戻した時である。ガタリと大きな音を立ててしまった。
「何だ?」
下から男の声がした。小春はじっとしたまま息を潜めた。
(しまった、見つかったか?)
小春には、長い時間が経過したように思えた。
「また鼠か」
どうやら、屋根裏には鼠が潜んでいるようだ。助かったと思いながら、小春は次の部屋へと移った。
今度の部屋は暗くて中がよく見えない。大勢の者が眠っているように見えるが、男女の判別さえできなかった。
(これは困ったな。朝にならないと見つけられないかも知れない)
とりあえず全ての部屋を回ってみたが、白髪頭の女性は見つからなかった。
(このまま、朝までここで過ごすか)
屋根裏で夜を明かすことは子供の頃から慣れている。小春は朝まで待つことにした。
小春はいつの間にか眠っていたようだ。
目を覚ましたときには、昨夜屋根裏へ潜り込んだ場所から陽が差していた。
小春は、また一つずつ部屋を覗いて回った。しかし、白髪頭の女性はいない。それどころか、この屋敷にいるはずの老人が一人もいないのだ。
(この屋敷にやって来るのは老人ばかりだと聞いたのだが)
小春が確認できたのは、壮年の男性が十人程度と、若い女性が数名で、それ以外には誰も見つからない。
(もしかしたら、山の中にいるのだろうか)
屋敷の屋根へと上がった小春は、そこから庭の木の枝に飛び移ると、猿のような身のこなしで枝伝いに塀の上まで進んだ。周囲に人がいないのを確認しつつ、雑木林の中に身を潜めながら、今度は山の方へ向かった。
茂みから、山道の方に目を遣る。そこは、小春がいた頃とほとんど変わらない道であった。見張りはいない。道をたどり、山頂を目指した。
山の頂は木が切り倒され、平らにならされていた。そして、何もなかった。
(どんな儀式をするんだ?)
中央あたりまで進んでみる。
地面に何かが落ちているのを見つけ、小春はそれを拾い上げた。
それは、小さな白い袋だった。そして、明らかに血液だとわかる赤黒い染みが付着していた。
あたりを見回しても、ここで行われていたことを示す手掛かりは何も残っていない。
しかし、小春は儀式の正体がわかった気がした。
老人の家に戻ると、戸の前で老人が立っていた。
「いつまでも戻ってこないから、捕まったのかと思ったぞ」
そう言いながら、老人は小春を家の中へ招き入れた。
「夜では暗くてよくわからないからな。朝まで待ってたんだ」
小春は部屋に座り、時間の掛かった理由を老人に説明した。
「そうか。で、どうだった?」
「それが、屋敷の中には老人が一人もいなかったよ」
「一人も? 確かなのか?」
「間違いない。だから、山の方にも行ってみたよ」
「あの中にも入ったのか?」
「ああ、別に何もなかったが、こんなものが落ちていた」
小春は、山で拾った小さな白い袋を懐から出して、老人に見せた。
「これは、お絹の物だ」
老人が驚いた顔で小春を見つめる。
「もしかして、お絹さんは山で殺されたんじゃないか?」
小春の言葉を聞いて、老人は呆然とその袋を見つめることしかできなかった。
「これは私の推測でしかないが、儀式の中で誰かを犠牲にする必要があるんじゃないか?」
老人はなにも言わない。
「老人ばかりを選ぶのは、寿命で死んだものと思わせるためだ。若者が屋敷に次々と放り込まれていたら流石におかしいと気づかれるからね」
「やめてくれ!」
老人が叫んだ。
「・・・すまない」
小春は話すのをやめた。
沈黙の時間が流れる。話し始めたのは老人の方だ。
「殺されたのなら、遺体はどうしたのだろうか?」
「鬼は、自分が殺した遺体を持ち去ってしまう」
小春の返答に
「まさか、鬼の餌食にされたというのか?」
と老人は声を荒げた。
「冬音が鬼と取引していたとしたら?」
「冬音様が・・・」
老人は、それ以上言葉にすることができない。
「死ぬまで会えないと言っていたが、遺体にも会わせてもらえないのじゃないか?」
「それはわからない。聞いたことがないからな」
老人は、お絹の持っていた小さな袋を眺めながら
「とにかく、約束通り、剣生様の家へ行こう」
と絞り出すような声で言った。
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