第36話 満月の夜
夜、与一は矢の手入れをしていた。
明日は狩りのため森の方へ行くつもりだ。
全ての矢羽を調整し終えたところで、戸を叩く音がした。
「誰だい」
与一が声を掛けると
「旅のものでございます」
と返答があった。女性の声だ。
与一が戸を開けたところ、そこには一人の女性が立っていた。小さい袋を一つだけ携えて、随分と身軽な格好だった。
「ここに、小春様という方はいらっしゃいませんか?」
「小春さんの知り合いかい?」
「以前、小春様にお世話になった者でございます。大府でこの村へと向かわれたと伺いまして」
「小春さんなら、今は白魂へ出掛けているよ」
「白魂へですか?」
「また戻ってくるとは言っていたが、いつになるかはわからないよ」
「そうですか・・・」
女はしばらくの間、考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「小春様が戻るまで、この村に滞在したいのですが」
「ああ、それは構わないけど、えっと・・・」
「私は晶紀と言います」
「晶紀さんだね。じゃあ、宿まで案内するよ」
与一はそう言って表へ出た。なぜ、晶紀が与一の家を訪ねたのか、与一は特に気にならなかったらしい。
「小春さんとはどこで会ったんだい?」
「仙蛇の谷という場所です」
仙蛇の谷のことを与一は知らなかった。
「そこで小春様に助けていただきまして」
晶紀の言葉を聞いて
「よからぬ奴にでも絡まれたのかい?」
と与一が尋ねた。
「私は、品物として人前で見せ物にされていました」
晶紀はそう言いながら懐に手を入れた。
「金貨と引き換えに悪い妖怪の手に渡りそうになったところを、小春様がこれと交換に私を引き取ってくれたのです」
与一の方を向いて晶紀は『鬼の涙』をかざした。
与一は息が止まるのではないかと思うほど驚いた。
森神村から遠くへと離れていったはずの『鬼の涙』が目の前にあるのだ。与一は恐ろしくなった。
「なぜ、それを?」
「偶然、道端に落ちていたのに気づいて拾ったのですわ」
晶紀はそう答え、笑みを浮かべた。
「そんなものは早く捨てた方がいい。その石は災いを呼ぶぞ」
「私は、小春様に返すつもりでおりました」
晶紀は、『鬼の涙』を懐の中にしまった。
『鬼の涙』がまた森神村に戻って来た。これが、新たな災いの始まりとならないことを与一は祈るしかなかった。
月影は、大府の北側、森の中に潜んでいた。
そこは、大府への道を見渡すことができて、逆に道側からはあまり目立たない場所であった。小春が戻ってこないかを監視するためだ。
今のところ、赤鬼が出る気配はない。
暇を持て余し、即席の弓矢を作って狩りを楽しんでいた。そして、昨日は大物を仕留めた。鹿だ。
捌いた鹿肉を焼いて食べようとしていた時である。思いも寄らない訪問客が現れた。
「こんな所におられたとは」
やって来たのは桜雪だった。そして、その横には月影さえもはっと驚くほどの美しい女性が立っていた。
「ここなら小春が通ればすぐに分かると思いまして。もしかして、ここで野宿するのはよくありませんか?」
「いや、問題はありません。ここに留まるおつもりでしたら、もし小春殿を見つけた時は知らせに伺いますよ」
「ありがとうございます。助かります」
「あの、こちらのお方は?」
女性が桜雪に尋ねた。
「こちらは小春殿の兄弟子にあたるお方で月影殿です」
桜雪の言葉に、女性が少し驚いた顔をした。
「それでは、剣生様のお弟子さんですか? 確か『癒やし手』として名高い」
「その名をご存知なのですか?」
月影が女性に尋ねた。
「はい、私は白魂より参りました冬音という者です」
「白魂からですか?」
「冬音殿は、大府にも鬼が現れることを伝えに来られたのです。それだけではなく、鬼を封じる方法も」
桜雪の話を聞いて、月影は目を丸くした。
「それでは、白魂で鬼を封じたのは、あなただったのか」
「そうです。あなたが白魂を立ち去られたと伺った時は、お会いできず残念に思っておりましたのよ。まさか、こんな所でお会いできるなんて驚きですわ」
冬音はそう言って笑みを浮かべた。月影は、その美しい笑顔に吸い寄せられるような感覚を覚えた。
「いや、私もです。あれから鬼が出なくなったのはあなたのお陰だったのですね」
「そうなりますわね」
冬音は、月影の顔をじっと見つめながら話を続けた。
「今でも、鬼を退治して回っていらっしゃるのですか?」
「いや、白魂を出てからは遭遇もしていません」
実際には雷縛童女に遭遇しているが、手を組んだとは言えないので月影はそれには触れないでいた。
「そうですか。それでは、もう鬼退治は止められたのですか?」
「そのつもりでした」
「今は違うと?」
月影は、冬音の顔を見た。怪しく光る目が月影を鋭く凝視している。まるで心の中を覗き込まれているように月影は感じた。
「今も昔も変わりはしません。もし向かってくるのなら、闘うまでです」
そう言って、月影は笑みを浮かべた。
しばし、無言の時間が過ぎた。冬音もうっすらと笑みを浮かべたまま、月影の顔を眺めている。
「変なことを聞いてごめんなさい。ちょっと興味があったもので」
冬音はそう言うと、桜雪に向かい
「そろそろ、大府の方へ戻りませぬか?」
と言った。
「そうですな。それでは月影殿、失礼します」
桜雪と冬音は立ち去っていった。月影は、その後ろ姿を呆然と眺めていた。
満月の夜、与一は夕夏の墓の前に立っていた。
どこからともなく、鈴の鳴るような虫の音が聞こえてくる。昼間はまだまだ暑いが、夜になると、涼しい風が肌に心地よく感じるようになった。
墓標に、花を手向けた。きれいな花を見つけると、与一はいつも花を摘んで、こうやって夕夏の墓前まで持って行くのだ。
しばらく墓を眺めていた与一は、静かにその場を後にした。
晶紀が森神村を訪れてから幾日か経っていた。『鬼の涙』を持っていたのには驚いたが、今のところ村には何も災いは起こっていない。
やはり、気のせいなのだろうかと与一は思った。いや、『思った』というより『願った』という方が正しいかも知れない。
家へ戻る途中で晶紀に出会った。
「こんな夜にどうしたんだい?」
与一が問いかける。
「月がきれいなので、少し散歩していたのです」
晶紀はそう答え、空を見上げた。
確かにきれいな満月であった。闇夜の中に白く丸く浮かんだ月以外、周りには雲一つなかった。
与一は、初めて鬼を見た日も満月の夜だったことを思い出した。
「鬼が現れたのも、こんな月の夜だった」
「そうですか。さぞ、怖い思いをなさったのでしょうね」
「あの夜のことは、忘れたくても無理だろうな」
そう言って、与一は下を向いた。
やがて、与一は晶紀の方を向いて
「晶紀さん、そろそろ宿へ戻った方がいい。通り道だから、一緒に帰ろう」
と促し、晶紀はその言葉に従った。
「そうですね、それでは帰りましょうか」
宿までの帰り道、与一が晶紀に聞いてみた。
「小春さんに会ってどうするんだい?」
晶紀は与一の方を向いて
「小春様は、私の体を望んでおいでです。ですから、この体を差し出すつもりです」
とにこやかに答えた。
与一は、その意味を理解して慌てて前を向き
「そうか」
とだけ言った。
満月の夜、小春は山間の道を歩いていた。
地図には近くに集落があるように書かれていた。今日はその集落まで進むつもりだ。
しかし、集落があるはずの場所は、何もない広い空き地と化していた。
空き地の中を歩いてみたが、廃屋はおろか柱の一本さえも見当たらない。かなり遠い昔に捨てられた集落なのだろう。
地図を見る限り、ここからしばらくは村も集落もない。今夜は適当な場所を探して野宿することに決めた。
あたりを見回してみる。遠くに灯りが見えた。誰かがいるのだろうかと、小春はそちらの方へ近づいていった。
たき火の周りにいくつかの影が見える。大勢の者がたき火を囲んで何かしているようだ。
その者たちは、酒を酌み交わしながら大声で笑い、歌い、踊っていた。そして顔には様々な面を付けていた。
おかめのお面を付けた、痩せて小柄な体の者が、小春を見つけてこう言った。
「ようこそ。どうぞ楽しんでいってくれ」
狸のお面の太った体の持ち主が
「酒はいらんかね」
と言いながら、小春に近づき盃を差し出す。
「酒はいらない。それより、こんな所で何をしているんだ?」
小春の質問には、翁の面を付けた者が踊りながら答えた。
「見て分からんかね。踊っているんだ」
すると、大きな盃で酒を飲んでいた狐の面が
「いや、飲んでいるんだよ」
と言いながら盃を頭上に高く掲げ、次に火男の面が
「何をするのも自由なんだよ」
と叫びながら舞い始めた。
その中で一人、鬼の面を付けた者がいた。何もせず、たき火の前で座っている。
鬼は、小春の方を見て問うた。
「女よ、お前は何をしているのだ?」
声だけでは男性なのか、それとも女性なのか判別ができない。
「旅をしている。今は野宿する場所を探しているところだ」
「どこへ行くのだ?」
「森神村だ」
「それは通過点でしかないだろう」
「その通りだ」
「目的地にたどり着いた時、お前はどうするつもりだ?」
しばしの無言の後、小春は答えた。
「私は、真実を知りたい」
鬼は、小春の方を向いたまま微動だにしない。
「その真実がどんなにつらいものであってもか?」
その問いかけに、小春は
「わからない。聞いてから後悔するかも知れない」
と目を伏せたが、今度は鬼の方を見て
「それでも私は知りたい」
ときっぱり言い放った。
「私も同じ意見だ」
そう言って、鬼の面を外したその顔は小春そのものだった。
目の前にあるものが一瞬にして揺らぎ消え去っていった。後に残ったのはたき火のみ。他には誰もいなくなった。
(何だったんだろうか?)
妖怪の仕業なのか、もっと別の現象なのか、小春には分からない。自分の意志を確かめるために、何者かが現れたのではないかと小春は思ったが、その目的についても知る由はない。
小春は、頭を軽く振ると、たき火を前に静かに座り、燃えさかる火を眺めていた。
満月の夜、白魂へと向かう道、十人ほどの集団が荷車を二つ運んでいた。
白魂へはもう少しで到着する。すでに夜となってはいたが、月のあかりで夜道はさほど暗くはない。このまま、白魂まで休むことなく進むつもりであった。
しばらく進むうちに霧が濃くなってきた。
「霧のせいで視界が悪くなってきたな」
一人が皆に話し掛けた。
「まあ、なんとかなるだろう。このまま進もう」
先頭を歩いていた男が皆に告げた。
しかし、背筋が冷たくなるような妙な感触を覚えるようになり、皆に動揺が走った。
「この感覚・・・」
一人の男が、前を凝視したまま話し始めた。
「あの時と同じだ」
「驚かさないで下さいよ。いったい、何と同じなんですか?」
横にいた若い男が引きつった顔に笑みを浮かべながら尋ねた。
「鬼が出たときだよ」
その問い掛けに男は答えた。
集団の中で、鬼に遭遇したことのある者は他にはいなかった。鬼が出なくなってからかなり季節が巡っていたから、子供の頃に聞いた話くらいしか鬼のことを知らないという者が多かった。
「嫌だなあ、気のせいですよ。もう、鬼は出なくなったんですから大丈夫」
他の誰かがそう叫んだが、それに応じる声はなかった。
だんだんと、上から押さえつけられるかのような圧迫感を感じるようになった。さすがに、これはおかしいと、先頭の男が皆に止まるよう指示した。
「間違いない、鬼が現れる前はこんな感じだった。皆、隠れた方がいい」
鬼に遭ったことのある男は先頭の男にそう進言した。
「わかった。確かにこの雰囲気は普通じゃない。皆、隠れよう」
「荷物はどうする」
「隠す場所はないな。このままにしておこう」
「荷物の近くにいたら危険だな。少し離れたところに隠れるぞ」
皆、荷物から少し離れた道脇の茂みの中に身を潜めた。
どれだけ経っただろうか。背筋を凍らせるかと思うほどの殺気と、海の底にでもいるかのような圧迫感をその身に受けながら、全員が動くこともできずにうずくまっていた。
やがて、足音が聞こえてきた。まるで重い岩が地面に落ちた時のような音がする度に、地面が細かく振動する。皆が通ってきた方角から何者かがやって来たようだ。
足音がピタリと止んだ。少しの間をおいて、鐘をついたような低い音と、木が割れた時の乾いた音が入り混じって聞こえてきた。荷車が破壊されたらしい。
また足音が聞こえてきた。少しずつ、皆の隠れている場所に足音は近づいてくる。誰もが、生きた心地がしなかった。それが鬼であるかどうかは分からない。ただ、見つかれば恐らく命はないだろうと皆が感じていた。
足音が止んだ。ある者は頭を抱え、またある者は震えが止まらず、失禁してしまう者もいた。
足音は聞こえてこない。
しかし、恐ろしいほどの圧力が皆を捕らえて放さない。あまりの恐怖に息をするのも苦しくなってきた。
遂に、一人の男が耐えきれずにその場を離れようと動き出した。
その茂みのわずかな動きを逃さず、強烈な一撃が放たれた。
土に混じって血や肉片があたりに飛び散る。近くにいた者は衝撃で吹き飛ばされた。重い金属音があたりに鳴り響いた。
まるで繋がれた鎖が切れたかのように、残った者は白魂の方へ逃げていった。しかし、赤鬼はそれを追いかけることなく、その場に立ち尽くしている。棍棒からはどす黒い血がポタポタと垂れていた。
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