第25話 癒やし手

 月影は、目の前にそびえ立つ高い石垣に圧倒されていた。

(ここが大府か・・・)

 その大きさは、かつての白魂以上であった。そしてその鉄壁の守りにも驚かされた。

(正面から入るしかないか)

 門の前には大勢の見張りが立っている。

(入る前に、いろいろと調べられるようだな)

 とにかく行ってみるしかないと、月影は門に近付いていった。

 堀に掛かる橋を渡っていたときである。月影は、身体に抵抗を感じた。前方から何らかの圧力がかかり、後ろへと押し戻される感覚だ。

 やがて、月影はそれ以上進めなくなった。足を踏ん張っていないと、後ろに転がされてしまいそうな気がした。

 見張りが不審そうにこちらを見ているのに気が付いた。

(いったん、戻ったほうがよいな)

 引き返すと、先程まで掛かっていた抵抗感がなくなっていった。

(これはもしかして封術による結界か?)

 月影は妖怪の一人なので、封術は効果がある。つまり、月影は大府には入れないということだ。

(俺が入れないなら、小春も同じだな)

 小春の足取りはここで潰えてしまった。小春が森神村まで引き返すつもりだったのであれば、どこかで鉢合わせするはずだ。おそらく、大府を通り過ぎてさらに遠くへ旅立ったのだろうと月影は考えた。そうなると、もはやどの方角に向かったのかは分からない。

(仕方ない、いったん仙蛇の谷へ戻るか)

 見張りが、月影の方へと近付いてくる。月影は足早にその場を後にした。


 小春と晶紀は、順調に旅をしていた。

 すでに山を後にして、今は広い草原の中を進んでいる。あたりは陽が落ちてだいぶ暗くなったが、生暖かい風が時折吹き付け真夏の太陽の余韻を残していた。

「そろそろどこかで休憩するか」

 小春が晶紀に話し掛けた。

「そうですね。もう、だいぶ暗くなりましたから」

 そんな会話を交わしていたとき、いつの間にか、十字路に差し掛かったことに気が付いた。

「あそこに標識がありますよ」

 晶紀がそう言って標識に駆け寄った。すでに文字は暗くて読めないので、手探りで何が彫ってあるか調べた。

「どうやら、右の方向が大府のようですね」

 晶紀のその言葉を聞いて、小春は右手の方向を見遣った。

「草原がずっと続いているようだな。どこで休憩しても同じだろう」

 小春は周囲を見渡して言葉を続けた。

「どこも草が生い茂っているな」

 そのとき晶紀が、正面の方向への標識を見つけた。

「このまま真っ直ぐ行くと、半里先に村があるようです。水無村というみたい」

 指で触れただけでよく文字が分かるものだと小春は感心しながら

「じゃあ、今夜は村に厄介になるか」

 と晶紀に告げ、二人は水無村へと急いだ。


 森の中で月影は一人、草むらの上に寝転がっていた。

 そして、かつて白魂にいた頃のことを思い出していた。

 小春がいなくなった後、白魂は急激に衰退していった。

 剣生がいた頃から、白魂は他の村と物資を交換する機会などほとんどなかった。しかし、たいていの物資が自給自足できたので、村人は比較的豊かな生活を送っていた。剣生が鬼から守ってくれるという安心感もあり、他の村から流入する者も少なからずいて、人手が減る心配もなかった。

 ところが、剣生が亡くなった途端、白魂に見切りを付け、外に出てしまう者が増えた。働き手が少なくなり、自給自足のバランスが崩れてしまったために、白魂は貧困にあえぐようになった。

 剣生という守護者はいなくなったが、月影はただ一人で懸命に白魂を守っていた。しかし、赤鬼の数は日毎に増え、それとともに村人の数は減っていく。

 白魂の地はもはや滅び去るしかない。誰もがそう思い始めた時、あの女は現れた。

 その女が誰なのか、村の長にどんな要求をしたのか月影は知らない。村の者も、はじめは女の要求を拒んでいたらしい。

 それが、どういう経緯で承諾することになったのか、ある日、女が儀式と呼んだものが執り行われた。

 たった一回の儀式を行っただけで、鬼は忽然と姿を消した。

 それ以来、定期的に儀式を行うことで村人は安全に外を歩けるようになり、周囲からも少しずつ人が集まってくるようになった。

 その女は、白魂の新たな守護者として村人たちに崇められた。

 同時に月影の仕事はなくなり、やがて白魂に別れを告げることになったのだ。

(今の白魂はどうなっているのだろうか・・・)

 白魂の現在が気にはなるが、月影も小春同様に戻るつもりは全くなかった。鬼が出なくなり、月影がもはや不要となってから、村人は妖怪である月影を全く相手にしなくなった。そんな村には未練など残ってはいない。

 木の葉が紺色の空を覆い隠し、あたりは暗闇が支配していた。月影は目を閉じると、すぐに寝息を立て始めた。


 水無村に到着した二人は、村の者に案内されて小さな宿に入った。

「ここの自慢は天然風呂ですよ」

 宿の近くを小川が流れている。その小川のほとりに熱い温泉が湧き出ている場所があり、川の水を混ぜて天然の露天風呂が作られていた。

「へえ、これは珍しい。こういう風呂に入るのは初めてだな」

 小春は、灯籠の明かりにぼんやり照らされた風呂を見て感嘆の声を上げた。周囲を大きな石で囲い、底には丸石が敷き詰められている。二人で入るには十分な広さで、すぐ横を流れる小川のせせらぎが耳に心地いい。

「小春様、いっしょに入りましょう」

 晶紀の言葉通り、二人は早速、露天風呂に入ることにした。夏の暑い時期ということもあって、お湯はぬるめに調整されているようだ。場所によって熱さは異なり、二人はちょうどいい湯加減だと感じる場所を探して、二人並んで湯船に浸かった。

「極楽、極楽」

 小春が思わず声に出す。

「ほんと、今までの苦労を忘れさせてくれますね」

 小春の顔を見て、晶紀が語りかけた。

 しばらくは二人とも口を開かず、ゆっくりと心身の疲れを癒やしていた。見上げれば満天の星が広がり、暗闇の中、小川の水が時々光を反射してきらめく。心地よい時間が流れる中で、ふと小春が晶紀に尋ねた。

「白魂に大きな銭湯があったけど、今でもあるのか?」

「えっと『白滝の湯』のことでしょうか? ありますよ」

「じゃあ、口からお湯を吐く獅子頭の像も残っているのか?」

「ええ、残っています。私、子供の頃はあの像が怖くて、近寄ることができませんでした」

「そうなんだ。私は子供の頃、あの像にまたがってよく遊んでたな。それで、店の人に怒られてしばらく入れなくなってさ。寒い冬の季節なのに、毎日行水しかできなくて、半泣きしていたことがあったよ。それ以来、あの像で遊ぶことはなくなったな」

 晶紀は、小春の話を聞いて笑い出した。

「まあ、小春様はやっぱり、子供の頃はやんちゃばかりでいらしたのですね」

 釣られて小春も笑みを浮かべる。

 それから少し経って、晶紀が

「私、そろそろ上がりますわ。もう、のぼせてしまいそう」

 と言った。

「そうかい。私はもう少し入ってるよ」

「分かりました。それではお先に失礼します」

 晶紀が立ち去った後、小春は誰かに話しかけるように口を開いた。

「隠れているのは分かってるよ」

 しかし、聞こえるのは川の水が流れる音ばかり。返事は何もない。小春はため息をついた後、底にある丸石を一つ拾い上げ、無造作に放り投げた。

「いてっ」

 男の声がした後、川に何かが落ちる音が聞こえた。何人かの人間たちが慌てて立ち去る気配がする。

「全く、男というのは、どうしてあんな風なんだろうね」

 小春は目を閉じたまま、そうつぶやいた。

 温泉から上がり、二人で涼んでいたときである。誰かが戸を叩いた。返事をすると、入ってきたのは中年の太った女性だった。

「二人には迷惑を掛けたね。男衆には厳しく注意しておいたよ。これ、お詫びと言っちゃあなんだけど、よかったら食べておくれ」

 そう言って手渡したのは、白木の重箱だった。蓋を開けると、中には豪華な料理の数々が入っていた。

「まあ、こんなにたくさん。ありがとうございます。でも、お詫びって何のことでしょうか?」

 首をひねる晶紀に小春は

「晶紀さんは知らなくてもいい話だよ。ありがたく頂戴しておこう」

 と言って笑った。


 翌朝、小春と晶紀は水無村を後にした。

 十字路を西へ、もう少しで大府にたどり着く。

「このあたりは、見渡す限り草原が続いているのですね」

「そうだな。遠くまで見渡せるから何かいればすぐに分かるな」

「もう、鬼は現れないですよね」

「それは分からないよ。鬼はまさに神出鬼没だからな」

 取り留めのない会話をしながら、二人は草原の中を進んで行った。

 太陽は朝から強い日差しを浴びせてくる。背後にあった太陽が頭上高く上がった頃、前方に森が見えてきた。

「あの中に入れば少しは涼しくなるだろう」

 二人は足早に森を目指した。

 その時である。森の中から一人、誰かがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。

「珍しいですね、旅人に会うなんて」

 晶紀が小春の顔を見て小声で話し掛ける。

「用心するに越したことはないな。悪党の可能性もある」

 小春が旅人の方を注視しながら応えた。

 その旅人は布らしきものを身体にまとい、腕が完全に隠れていた。中に武器を隠しているかも知れないと考え、小春はすれ違う際にできるだけ距離を空けるよう、道の端を歩いた。

 旅人の方もこちらに気づいているようだ。顔がこちらを向いているのが分かる。

 小春は突然立ち止まった。その旅人が誰か分かったのだ。

「兄者・・・」

 晶紀が小春の様子を見て

「どうされたのですか?」

 と尋ねた。しかし、小春は微動だにしない。じっと旅人の方を眺めていた。

 やがて、旅人は小春から少し離れたところで立ち止まった。

「久しぶりだな、小春」

 赤と青の左右異なる色をした鋭い目を小春に向けたその旅人は、月影だった。

「兄者、どうして白魂を離れたのですか?」

「白魂でする仕事がなくなってな。もう食い扶持も稼げないから出ていったのさ」

 やはり、鬼が出現しなくなったのが、月影が白魂を離れた理由なのだと小春は確信した。

「白魂に鬼が現れなくなったことは聞きました。今は、仙蛇の谷で何をされているのですか?」

「小春よ、お前を探していたのだ」

「私を? 何のためにですか?」

「お前の刀を奪い取るためだ」

 月影はそう言って、真っ黒な左手をすっと掲げた。左の青い目が怪しく輝いた。


 月影の左手付近から、真っ白に輝く三日月のような刃が現れた。

 手に持っているわけではない。手から離れた所に浮かんでいるのだ。

 これが月影の妖術『剣の舞』である。左手を軽く動かすだけで、刃はあらゆる方向へ振るうことができた。幽霊谷で河童があっという間に斬り殺されたのは、この妖術を使ったからだ。刃は月影の周りをくるりと一回転して河童の頭を切断していったのである。

「お前もこれまで修行を重ねてきたのであろう。その修行の成果を見せてみよ」

 笑みを浮かべてそう話し掛ける月影に対して小春は叫んだ。

「なぜ、この刀を奪おうとなさる?」

「それは、もし俺に勝ったら教えてやろう」

 言うが早いか、月影は小春の下へ足早に近づいて来た。

「晶紀、私から離れろ」

 そう叫びながら、小春は素早く刀を手に持ち中段に構えた。

 月影が軽く手を振ると、小春の左腕目掛けて刃が振り下ろされる。小春はそれを刀で受けた。

 間髪入れず、今度は右足の脛を狙って刃が飛んできた。素早く後ろに下がり、刃を避ける。

 月影が左手を振るだけで、あらゆる方向から刃が襲いかかる。刃の動きは素早く、息をつく暇も与えない。小春は、それをかわすだけで精一杯で、どんどんと後ろへ下がっていった。

 小春の腕や足には無数の傷ができたが、月影は攻撃の手を休めない。

 このまま続ければ、小春が疲れ果て敗れるのは目に見えて明らかだった。

 しかし、月影が脛を狙って刃を下げた時である。小春は後ろへ下がるのではなく、上に飛び上がった。

 体を回転させながら月影の頭上を飛び越え、月影の背後に着地する。

 月影は刃を素早く自分の背後に回したが、小春の着地した場所には刃が届かない。月影が体の向きを変える間に、小春が振り向きざま月影の首筋目掛けて刀を打ち払った。

 小春が、首筋に当たる直前のところで刃をピタリと止めた。

「いかがか?」

 小春が笑みを浮かべながら月影に尋ねた。

 月影は立ち尽くしたままだ。小春が首筋から刃を離した。

「見事だ、小春よ。しかし、これならどうかな?」

 月影がもう一度左腕を上げると、今度は六本の刃が放射状に現れた。一本の刃でも防ぐので精一杯だったのだ。一度に六本の刃が襲いかかればひとたまりもないだろう。

 絶体絶命のピンチであるが、小春は平然としていた。刀を右手に持ったまま、構えようとしない。

「闘うのをあきらめたか、小春よ」

 月影は六本の刃を一斉に小春に向けて放った。

 このままでは、小春はその刃でずたずたに切り裂かれてしまう。

 しかし、刃は小春に届かなかった。小春に触れる前に消え去ってしまったのだ。

「結界か・・・」

 小春は結界を張っていたのだ。恐るべき月影の妖術も、小春の結界の前では無力だった。


「兄者、一つ聞かせてくれ」

 不敵な笑みを浮かべている月影に小春が尋ねた。

「何だ?」

「どうして手を抜いたんだ?」

 小春の顔を見つめる月影の表情から笑みが消えた。

「兄者ほどの腕の持ち主なら、私を倒してしまうことなど造作はないはずだ。しかも、私が結界で防御できることを知っているのに、わざわざ妖術を使った。私には、わざと負けたようにしか見えない」

「そんなことはないさ。昔の小春になら勝っていたよ。お前は自分の妖術のことをすぐに忘れていたからな」

「最初から腕や足しか狙わなかったのは何故だ?」

「俺の目的はお前の刀だ。命まで奪おうとは思わんさ」

「刀を奪ってどうする気なのだ?」

 月影は、しばらく小春の顔を見つめたまま口を閉ざした。

「なぜ、お前は刀を引き継いだのだ?」

 月影が、逆に小春に問うた。

「師の遺言だからだ」

「それだけなのか?」

 小春は、少し間をおいた後、話し始めた。

「この刀を鍛えた鍛冶師を見つけ出したいんだ」

 手に持った刀を眺めながら、小春は話を続けた。

「今の私の目的は、その鍛冶師に復讐することだ」

「復讐?」

 月影は驚いた顔で小春に聞き返した。

「そいつが、私と母親の運命を滅茶苦茶にしたのだ」

 月影は、しばらく何も言えず小春の顔を眺めていたが、やがて口を開いた。

「教えてくれ。白魂を出る時、村の者に何を言われたのだ?」


 白魂の地から出ていくように告げられ、小春は白魂の長に懇願した。

「ここは私の故郷なんだ。師匠の・・・父上の眠るこの地で暮らしていたいんだ」

「お前は、剣生様が自分の父親だと思っていたのか?」

 長は冷ややかに笑いながら言葉を返した。

「・・・どういう意味だ?」

「お前は剣生様の娘などではないということだよ」

 小春は、その言葉を理解するのに時間がかかった。

「そんな馬鹿な・・・」

「よく聞け。お前の父親は、そこにある刀を鍛えた妖怪の鍛冶師だ」

 長は壁に立て掛けられた大刀を指差して言った。

「お前の母親は白魂の地で生まれた人間だったが、その鍛冶師が剣生様に刀を納めに来た時に偶然見掛けたらしくてな。あろうことか、鍛冶師はお前の母親を手篭めにした。そして生まれたのがお前だよ」

 小春は、その言葉が信じられず、大声で叫んでいた。

「嘘だ!」

「嘘ではない。お前を生んですぐに母親は死んだ。鍛冶師の行方はわからず、剣生様は、お前を哀れと思って養女として引き取ったのだ」

 小春は何も言えなかった。下を向いて立ち尽くすだけだった。

「剣生様が、母親のことをお前に話したことがあったか? 母親のことは何も知らないんじゃないのか?」

「やめろ!」

 小春が長の顔を睨みつけたのを見て、取り巻きたちが長の前に進み出た。全員、手には武器を携えている。

「いいか、お前のような忌むべき者をこれ以上白魂の地に置くわけにはいかぬ。早々にこの地から出ていけ」

 長たちはそう言い残すと家から出て行った。

 小春は、しばらく下を向いて立ち尽くしたままでいたが、やがて崩れるように座り込むと、大粒の涙を流し、声を上げて泣いた。

 どれだけ泣いていただろうか。家の中はすでに暗くなっていた。

 白魂の地を守る気はもうなかった。人間に対しては憎しみの感情しか沸き起こらなかった。

 そして、自分の母親を死に追いやったその妖怪を許すことができなかった。

 これからの自分の使命は、父親を探し出し復讐することだ。小春はそう決意して荷物をまとめ始めた。

 翌日の朝、小春が旅に出ようとした時、村の者が慌ててやって来た。

「小春、北の森の中で鬼が出たらしい。今は癒やし手も留守だよな。お前、剣生様に剣術を習っていたそうじゃないか。行って退治できないか?」

 そう話し掛ける相手に向かって

「私はもはや白魂の者ではない。自分達で何とかするんだな」

 と吐き捨てるように言うと、呆然とする相手を残して去っていった。


 小春が、妖怪と人間の間に生まれた子であるというのを月影は初めて聞いた。

 しかも、このような立派な刀を鍛えた鍛冶師が、人間を手篭めにするなど、にわかには信じ難い話だ。

「お前はその言葉を信じてるのか?」

 月影の問いに、小春は何も答えなかった。

「お前に一つ真実を教えよう。確かに、お前は師匠の娘ではない。それは私が師匠から直接伺った」

 小春は黙って話を聞いている。

「しかし、お前が誰の子なのか、そこまでは私も聞いていない。そして、村の長がそれを知っていたとは思えないのだ」

「母親は白魂の出身だと聞いた。おそらく、ずっと語り継がれていたのだろう」

「お前が生まれた遠い昔からずっと語り継がれていたのなら、もっと早く告げていたんじゃないか? お前の素性は誰も知らないんだよ。もしかしたら、師匠自身もご存知ではなかったのかも知れない」

 小春は月影の顔をじっと見つめた。

「季節が巡るうちにいつか父親に会えるかもしれない。真実はその時にすべて分かるだろう」

 月影は、小春に優しく微笑んだ。

「兄者・・・」

 小春は何か聞きたそうだ。

「どうした?」

「兄者は私のことを恨んでないのか?」

「なぜ恨む?」

「私のせいで師匠は命を落としたのだ。私が全て悪かったんだ」

 小春のその言葉を聞いて、月影は言った。

「恨んでなどおらぬ」


 小春と剣生は、一体の赤鬼と対峙していた。その時、大刀を構えていたのは小春だった。

 初めての実戦であった。鬼は棍棒を頭上高く掲げ、今まさに振り下ろそうとしている。

 小春は鬼の殺気に圧倒されていた。大刀を持つ手が小刻みに震えている。その様子を、背後から剣生が鋭い眼差しで見つめていた。

 棍棒が振り下ろされると同時に小春は動いた。しかし、鬼の放つ気に恐ろしくなり、前ではなく横に飛び退いてしまった。

 棍棒が地面に打ち付けられたと同時に、凄まじい衝撃が小春を襲った。

 小春の小さな体がまるで木の葉のように吹き飛んでいく。

 地面へと転がり落ちた小春は、痛みと恐ろしさで動くことができなかった。

 鬼が近付いてくる。小春は必死になって大刀を手に立ち上がろうとするが、体が言うことを聞かない。

 鬼が棍棒を持ち上げ、小春に叩きつける寸前で、剣生が素早く小春を抱きかかえて逃げようとした。

 しかし、剣生に気づいた鬼は、棍棒を叩きつけるのではなく、剣生の背中目掛けて水平に打ち込んだ。

 剣生は、棍棒の直撃を受けてしまった。いかに大妖怪の天狗と言えども、鬼の一撃を受けてしまってはひとたまりもない。

 剣生と小春はそのまま遠くまで飛ばされ、地面を転がった。小春は、体中に走る激痛に息をするのも辛かった。

 それでも小春は痛みに耐えながら上半身を起こし、剣生の方を見た。しかし、剣生は全く動く気配がない。

 今まで、剣生が鬼に敗れることなど想像もしたことがなかった。しかし、いつも瞬く間に鬼を斬り伏せていた剣生が、たったの一撃で倒された。

 しかも、自分の至らなさのせいで。

 この時、小春はすでに闘う気力を失くしていた。師匠とともに、ここで一生を終えるのだと悟った。

 小春は苦痛に満ちた顔で鬼の顔を眺めていた。その鬼が小春の目の前に近づいて来た。

 鬼は、棍棒で叩き潰すよりも長く楽しめる方法を思いついたようだ。突然、棍棒を手放すと両手で小春を鷲掴みにした。

 鬼は手に少しずつ力を入れる。だんだん弱っていく小春の姿をゆっくりと味わうつもりなのだろう。

 小春は為す術もないまま死を待つしかなかった。体のきしむ音が聞こえ、やがて骨の至る所が折れたのを感じた。血反吐を吐き、意識が少しずつ遠のいていく。

 薄れゆく意識の中で、鬼の腕が切断される様が目に映った。その後の記憶は何もない。次に気が付いた時には鬼の姿はなく、無残に潰された小春の体は元に戻っていた。

「師匠!」

 剣生が鬼の一撃を受けたのを思い出し、その姿を探すと、月影が剣生の上半身を抱きかかえているのを見つけた。

 慌てて駆けつけようとする小春の方を月影が睨んだ。

「・・・師匠は亡くなった」

 呆然と立ちすくんでいる小春に対して月影は冷たく言い放った。

「お前が半人前の役立たずだからこんなことになったんだ」

「・・・」

「お前一人では鬼を倒すのは無理だ。刀を預かる資格もない」

 小春は月影に何も言い返せなかった。剣生は死んだ、自分のせいで。

 小春の顔からは何の感情も見いだせない。目からは涙も流れない。

 月影は、そんな小春を無視して剣生の亡骸を抱きかかえ、運ぼうとした。

 小春は、剣生が残した大刀を拾い、フラフラと月影の後を付いていった。

 その日、村の者がたくさん集まる中で、剣生の遺体が埋葬された。その時も小春は無表情なまま、ただ静かに立っているだけだった。

 やがて村の者は去っていった。明日からの生活に不安を抱きながら。

 そして、その墓の前に残り、小春は初めて涙を流した。

 月影は小春には声を掛けず、静かに去っていった。


「俺は、どうして師匠が亡くなったのか、その理由は知らぬ」

 月影は、小春が鬼と闘った時の様子を見ていたわけではない。来た時にはすでに剣生は倒れ、小春は鬼に握りつぶされそうな状況だった。

「そして、その理由を聞きたいとも思ってはいない。師匠が亡くなったのがお前のせいだったとしても、お前を恨んで師匠が戻るわけではない」

 少し間をおいて、月影は言葉を続けた。

「俺がその刀を奪おうとした理由、それは、刀を鍛えた鍛冶師に会いたかったからだ」

「鍛冶師に?」

「昔、師匠に聞いたことがあるのだ、その刀を鍛えた鍛冶師のことを。唯一聞くことができたのは、その鍛冶師に会うためには刀が必要になるということだけだった」

 月影は、小春が持っている大刀に目を遣った。

「可能なら、会ってみたい。そして、同じ刀を鍛えてほしい。そう思ったのだ」

 そう言って、月影は今度は小春に笑顔を見せた。

「その役は、お前に譲るよ。もし見つけたら教えてくれ。そして、その時は刀を貸してほしい」

 小春は、月影のその言葉を聞いて、強くうなずいた。

 月影は小春の下へ近づき、肩に右手を置いて言った。

「師匠は、お前が幸せになることを願っていたはずだ。赤ん坊の時から育てていたのだから、師匠にとってお前は実の娘と同じ存在だったに違いない。お前が本当の父親を探したいというのなら、俺は止めはしない。師匠の後を引き継いで鬼を倒し続けるのなら、それも構わない。しかし、師匠のことを思うなら、自分が本当に何をしたいのか、よく考えるんだ。それが師匠への一番の罪滅ぼしになるだろう」

 小春が幸せになってほしいと願う気持ちは月影も同じだろう。月影のその気持ちが伝わったのだろうか。小春は、もう一度強くうなずいて見せた。

「よし、じゃあ、俺は仙蛇の谷に戻るとするよ」

 月影はそのまま立ち去ろうとしたが、ふと気がかりなことを思い出した。

「そういえば小春よ。お前、鬼のように強い人間と闘ったことはあるか?」

 小春は作次郎のことを思い出した。

「森神村というところで闘ったことがある」

 月影は、小春の方を見据えて言った。

「用心しろ。そいつは炎獄童子という鬼に操られた傀儡だ。きっとまた姿を変えて、襲いかかってくるだろう」

 そう言い残し、月影は去っていった。

「小春様、大丈夫ですか?」

 二人のやり取りを呆然と見ていた晶紀が慌てて駆け寄ってきた。

「心配ないよ」

「でも、手と足に傷が・・・」

「直に治るさ。私は傷の治りが早いんだ」

 晶紀と話しながら、小春は月影の姿を追った。月影は振り返りもせず、小春のいる場所から離れていった。

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