第23話 決死の逃亡

 小春と晶紀は、泥の上に尻もちをついていた。

 崖は結構な高さがあったが、地面が泥だったおかげで二人とも怪我をせずに済んだ。しかし、服は泥にまみれ、その異臭に二人とも吐きそうになった。

「なんだ、この臭いは」

 あたりは真っ暗で地面の様子はわからない。崖の近くに荷物と大刀が落ちていた。どちらも、泥だらけにならずに済んだようだ。

「とにかく、川へ行って泥を洗い落とそう」

「少しお待ち下さい。あのかわいそうな狸さんのご遺体がどこかに・・・」

 少し離れた場所に狸の死骸が落ちていたのを晶紀が見つけた。

「川の近くで弔ってあげましょう」

 そう言って、晶紀は哀れな狸の身体をそっと抱きかかえた。

 小春と晶紀は川の方へと向かった。

 途中、村の中を歩かなければならなかった。その異臭は、周囲の者達の注目を集めるには十分だったが、今、村の中はそれどころの騒ぎではない。

 先程、雷縛童女が放った雷撃は村からもはっきりと見えた。何が起こったのか誰にも理解できず、皆、その話題で持ち切りだった。

「雷獣の仕業じゃないのか?」

「そうだとしたらこのあたりも危険だ。逃げた方がいいんじゃないか?」

「逃げるってどこへだよ? そんな所どこにもないだろ?」

 右往左往する人妖の間を縫って、小春と晶紀は川の方へと急いだ。

 川は暗闇の中、水の流れる音だけが聞こえる。松明に火を点けて川を近くで見ると澄んだきれいな水だった。

「このあたりはどうでしょうか」

 晶紀が示した場所は川面より少し高く、草が一面に生い茂っていた。近くにあった石を使って穴を掘り、狸の死骸をその中にそっと横たえた。

「私に関わったばかりにひどい目に遭わせてしまった」

 小春は、狸の死骸にそう言葉を掛けて、そっと土を被せ始めた。

 やがて埋葬が終わると、二人は着物を脱いで身体を洗い流し、続いて着物を洗った。幸い、泥を洗い流すと臭いはすぐに消えた。

 服が乾くまでの間、二人は裸のまま川岸に腰掛けて待つことにした。小春は替えの着物は持っていたが、晶紀には何もない。小春の持っている着物は、晶紀には少し小さすぎる。

 小春は、晶紀の身体をじっと眺めていた。その視線に晶紀が気づき、小春に尋ねた。

「どうかしましたか?」

「いや、きれいな身体だなと思って」

 晶紀は、膝を腕で抱えるようにして座っていた。手足はすらりと長く、体は背中から腰にかけて美しい曲線を描いていた。

「あら、小春様もきれいなお身体をされていますわ」

「いや、晶紀さんに比べれば、私はまだまだ子供だな」

 顔だけ見れば二人は同い年くらいに思えるのだが、体つきは明らかに晶紀の方が年上に見える。

「小春様は私よりお若いのでしょう?」

「私はこう見えても妖怪だ。晶紀さんよりもずっと長い年月を生きてるよ」

「まあ、小春様は妖怪でしたの?」

 晶紀は、なぜ助かったのか理解していなかったらしい。

「ああ、だから大府に入ることはできないんだ。冬音という者もな」

「そうですか・・・」

 晶紀は、思いつめた顔でしばらく黙っていたが、やがて小春に

「お願いします。私をこのまま大府へ行かせて下さい。やはり冬音様のことが心配です。もちろん、受けた御恩は忘れておりません。必ず体でお返しするようにいたします」

 と懇願した。しかし、小春が

「どこに行っても危険だらけ、おまけに無一文の状態で、どうやって大府まで行くつもりだ?」

 と尋ねると、晶紀は何も言えなくなった。

「お供の者がいるのなら、そいつらが何とかしてくれるだろう。まさか、皆が妖怪だというわけではあるまい?」

「はい、冬音様以外は全て人間でございます」

「それなら心配はない」

 小春は、これからの予定を晶紀に聞かせた。

「ここから東の方に森神村という村がある。まずはそこで用事を済ませたい。ここからは十日程度かかるだろうか」

「十日も・・・」

「それから大府へ向かえば、到着するのは二十日後といったところだ。大府にまだ冬音さんが滞在していればそこで会えるだろう。もし、すでに白魂への帰途についているなら、旅の準備をして追いかければいい。但し、このあたりにはすでに鬼が出ているからな。あまりそれは勧めぬが」

「あの・・・小春様は以前、白魂にいらっしゃったのですか?」

「ああ、その通りだ」

「私と白魂に戻られるおつもりはありませんか?」

「あの地に戻るつもりはない」

 もし、冬音たちが白魂への帰途についていたら、自分ひとりで旅をしなければならない。それが晶紀にとっては非常に不安であった。

「まあ、そう思い悩むな。とにかく、どうするかは大府に着いてから決めればいい。そのまま大府に住み着いたっていいじゃないか」

「はい・・・」

 晶紀はうつむいたまま、小さな声で返事をした。


 ようやく乾いた着物をまとい、二人はその場で休むことにした。

 すぐに小春が寝息を立て始めた。結界を張るのはかなりの精神集中が必要となる。久しぶりに術を使い、かなり疲れていたようだ。

 その様子を、晶紀は静かに伺っていたが、やがてゆっくりと立ち上がり、小春に向かって一礼した。

「ごめんなさい。どうしても冬音様のことが心配なのです」

 そう小さな声でつぶやき、しばらく小春の方を見遣った後、闇の中へと消えていった。

 迷路のような道を、晶紀は一人歩きながら、自分が通った場所を懸命に思い出そうとしていた。

 もう、夜も更けたというのに、頭上の提灯は道を照らし、多くの者が道端にたむろしていた。男どもが近寄ってくるのを、急ぎ足で逃げるようにして進み続ける。

 まるで糸にでも繋がれているかのように、何名かの男どもが後を付いてくる。この先は灯りもない暗い道になるはずだ。このまま進めば危険だと感じた晶紀は、さっと家の裏側に身を潜めた。姿勢を低くしたまま、静かに茂みの中を進んでいく。背後で、誰かが茂みの中に入ってくる気配を感じ、動きを止めた。晶紀の方に気づかずに通り過ぎるのを確認して、再びゆっくりと前に進む。

 突然、背後から誰かが抱きついてきた。驚いた晶紀は思わず叫び声を上げてしまった。

「きゃあー!」

 その声に、あたりにいた男たちが群がってくる。晶紀は必死になって振り解こうとするが、相手の力は強く、全く歯が立たない。

「放して下さい!」

 そう叫ぶ晶紀の体を投げ飛ばし、その上に男が覆いかぶさろうとした。

 その時、近くにやって来た他の男がそれを阻止した。さらに別の者も加わり、取っ組み合いの大げんかとなった。

 晶紀はこの機会を逃さず、素早くその場を離れ、茂みの中に身を潜めた。男たちはそれに気づかずにまだ殴り合いをしている。晶紀はゆっくりとその場から遠ざかっていった。

 茂みの草で手足が赤くなり、痛痒くてたまらなかったが、晶紀は茂みから出るようなことはせず、周囲を警戒しながら先へと急いだ。大府までどの程度掛かるか分からない。途中で誰かに襲われたり、そうでなくても力尽きて死んでしまうかも知れない。それでも、晶紀は冬音の下へ戻りたかった。晶紀にとって、自分の居場所は冬音のそば以外に考えられないのだ。

 茂みから道の方を覗くと灯籠が並んでいるのが見えた。その先に階段がある。晶紀が男の手に渡されそうになった場所だ。階段を上り、そのまま進んでいけば大府への道に続いているはずだと晶紀は思い返していた。

 灯籠の灯り以外に光はなく、周囲は闇に包まれていた。階段までは灯りを頼りに進むことができそうだ。晶紀は、その灯りの示す方向へと歩いていった。

 階段を上ると、ところどころに灯りが見えた。道のあることを示す常夜灯らしい。

(あの灯りを頼りに進めるだろうか?)

 一歩ずつ地面を確認するようにして灯りのある方へ進んでみる。灯りの下までたどり着いた。次の灯りを目指す。これを繰り返し、晶紀は前へと進んで行った。

 やがて頼りにしていた灯りもなくなり、道が上り坂へと変わっていった。仙蛇の谷を抜けたようだ。

(今日はこのあたりで休もう)

 晶紀は道から外れ、茂みで影になりそうな場所を見つけて体を横たえた。たちまち、晶紀は深い眠りに就いた。


 朝、小春は川のほとりでまだ眠っていた。

 何者かが小春の近くに忍び寄る。小春のそばにある大刀を気にしながら、ゆっくりと近づき、枕元にあった荷物に手を伸ばした。

 その刹那、小春は瞬時に飛び起きて、刀をその者の首にピタリとあてがった。

「その首を刎ねられたくなければすぐに消えろ」

 小春の恫喝に、動けなくなったのは年老いた女だった。顔はしわで覆われ、しぼんだ花のような口からはうめき声が聞こえた。腰を抜かし、這いつくばったまま慌てて逃げていくのを見て、小春はため息をついた。

「全く、油断も隙もない」

 そう言いながら晶紀の姿を探す。しかし、どこにも見当たらない。川で顔でも洗っているのだろうかと探してみるが、姿は見えない。小春は、晶紀が逃げ出したことに気づいた。

(まさか、一人で大府に向かったのか・・・)

 小春の荷物には手を付けられていない。晶紀は何も持たずに向かったということだ。よほどの幸運に恵まれない限り、途中で力尽きて倒れるだろう。その前に、何者かに襲われて命を奪われるかも知れない。

(もう、二度は助けない)

 最初はそう思ったが、晶紀のことがだんだんと心配になってきた。

「仕方がない、探しに行くか」

 そうつぶやくと、小春は荷物と刀を担いで出発した。


 晶紀が目を覚ました場所は、茂みに囲まれた窪みの中だった。立ち上がりあたりを見回す。木の枝に何かがぶら下がっていた。それが死体であることに気づき、晶紀は慌てて道へと戻った。

「なんて恐ろしい・・・」

 以前、冬音たちと共にここを歩いたときも、たくさんの死体が吊り下げられていたことを思い出した。

 まだ、油断はできない。晶紀は、周りを気にしながらゆっくりと坂を上り始めた。

 しかし、早くもお腹が空いてきた。食料を手に入れたくてもどうしようもない。我慢して歩き続けるしか仕方がなかった。

(やはり、小春様にもう一度お願いした方がよかっただろうか)

 そう思いながら、晶紀は前へと進んだ。

 いたる所に死体が吊り下げられ、白骨化した死体が道端に散乱している。できるだけ見ないよう顔を伏せても、死体の姿は目に飛び込んできた。

 しかし、進むにつれてその数は少なくなっていった。後ろを振り向くと、谷はすでに山肌に隠れて見えなくなっていた。道がだんだんと左に曲がっているようだ。

 山間を遙か先まで道が伸びているのが見える。その遠い道のりに、晶紀はだんだんと心細くなっていく。しかし、戻ったところで小春はもう東へと出発しているだろうと考えていた。黙って逃げてきた自分を追い掛けてくるとは到底思えなかったのだ。もう、どうすることもできない。絶望の中、晶紀はもはや前に進むしかなかった。

 どれだけ歩いただろうか。陽は頭上から強い日差しを浴びせかける。水を飲みたくても、川も湧水も見当たらない。流れ出る汗で着物は濡れて体に貼り付き、裸体が透けて見えていたが、自分がそんな姿になっていることにも全く気が付かない。晶紀は木陰に入ろうと道を外れた。しばらく涼んでいたときである。少し先に赤い布切れが落ちているのを見つけた。

(どこかで見たような・・・)

 近付いてみると、そこには赤い着物にくるまった狐の死骸があった。そして、その赤い着物は、晶紀を捕らえていたあの女のものであることに気づいた。

(もしかして、あの女性は狐の妖怪?)

 なぜ、この妖怪がこんな場所で死んでしまったのか、晶紀には分からなかった。しかし、これがあの女性であれば、小春が渡した石がどこかに落ちているはずだと晶紀は考えた。

(あの石を小春様に返すことができれば・・・)

 晶紀は、赤い着物の中を物色し始めた。狐の死骸はすでに冷たく、固くなっていた。それを気味悪く感じながらも、晶紀は探すのを止めなかった。小春に会えるかどうかはわからない。しかし、いずれ会うことになれば、そのとき宝石を返すことができる。これが自分のできる精一杯の償いだと思い、晶紀は無我夢中で宝石を探した。

 着物の中に巾着袋があった。それを開けてみると、たくさんの宝石が入っていた。しかし、小春が渡した宝石らしきものは見当たらなかった。もしかしたらどこかに転がっていったのかも知れないと思い、今度は周囲を探し始めた。

 どれくらいの間、探し回っただろうか。ついに、晶紀は『鬼の涙』を見つけた。

「あった・・・」

 晶紀はそれを拾って眺めた。石の中央に小さな赤い光が揺らいでいる。その炎に吸い寄せられるような感触を覚え、晶紀は怖くなって視線を外した。

 ふと、その石を自分のものにしたいという衝動に駆られ、無意識のうちに石を懐にしまうと、またフラフラと道に戻り、歩き始めた。


 小春は足早に西へと向かう。

 周囲の者は相変わらず、小春の姿を見ると近寄ろうとするが、背中の大刀に気が付いてすぐに逃げ出してしまう。

 そんな連中のことなどお構いなしに、小春は大股で歩き続けた。

 昨夜訪れた階段を上り、道沿いに進んでいくとやがて上り坂が見えた。

(谷を抜けたようだな)

 谷へやって来た時と同じ様に、あちらこちらに死体が吊り下げられている中を、気にする様子もなく進んでいく。

 晶紀にどの程度の体力があるのかはわからないが、食事を摂らずに丸一日歩けるとはとても思えなかった。夕方頃には疲れ果てて動けなくなるだろう。今日中には見つかるはずだと考えていた。もっとも、晶紀が正しい方角を進んでいると仮定しての話である。小春は、そうであることを願った。

 見つかったらどうするか。自分の命を粗末にしようとしたわけだ。一発張り倒してやりたい気分だった。

 そして行き先はどうするか。西に進んでしまったわけだから、このまま大府へ行くことにしようと決めていた。冬音という者がいれば、そのまま晶紀を返してやればいい。いなくても、当面は大府に滞在させるか、白魂に戻るのなら森神村までは一緒に行くのも一つの手だ。とにかく、それは本人に決めさせようと小春は思った。

 山間を通る道は遙か先まで見通せた。しかし、晶紀らしき者の姿はここからは確認できない。蝉がそこら中でやかましく鳴いている中、小春はさらに歩を進めていった。


 陽は西へ傾き、空がすみれ色になった頃、晶紀はそれ以上進むことができなくなり、道端に座り込んだ。

(今日はここで休むしかない)

 耐え難い空腹と足の痛みに加え、暑い中を水分も摂らず歩き続けたためにひどい頭痛とめまいを感じた。明日の朝、目が覚めてもこれ以上進める気がしない。自分はここで死んでしまうのかと思うと晶紀は怖くなった。

 懐にある石のことを思い出す。もう、石を見ようとは思わなかった。今の状態では、そのまま吸い込まれてしまいそうな気がしたのだ。この石は危険だと心の中で思う。しかし、それを手放す気にはどうしてもなれなかった。もう、小春に渡そうという考えも起こらない。

 晶紀は座り込んだまま、夜が訪れるのを待った。夜の闇が自分を消し去ってしまうような感覚を覚えた。

 いつの間にか、仰向けになって眠っていたようだ。目が覚めた時、藍色の空に白い煙が漂っているように見えた。

 起き上がって周りを見渡すと、濃い霧で覆われていた。少し背筋に寒気を覚える。妙な圧迫感が晶紀の体を取り囲んでいた。

 晶紀は恐怖を感じた。得体の知れない何かが近くにいるような気がして、慌てて茂みの中に身を潜めた。

 どれくらい経っただろうか。霧が晴れる気配はない。それどころか、ますます濃くなっていく。漆黒の闇の中、周囲に見えるものはない。

 体に感じる耐え難い圧力に晶紀は震えが止まらなかった。あたりは静まり返り、自分の心臓の鼓動だけがあたりに響いているように感じる。

 そのうち、足音が遠くから聞こえて来た。熊だろうか。いや、もっと大きな動物だ。晶紀は、足音がする方向を見遣った。しかし、霧のせいで何も見えない。

 足音はこちらに近付いてくる。やがて、黒い影が見えた。それは想像を遥かに超える巨大な生き物だった。晶紀は、今までに見たことはなかったが、すぐにそれが何か気づいた。

 鬼が現れたのだ。

 鬼の体は闇の中でも自ら光を発しているかのようにはっきりと見えた。まるで、真っ赤に焼けた炭で作られたかのようだ。

 晶紀のすぐ近くまで来た鬼は、その場でピタリと歩みを止めた。目の前にいる巨大な鬼のあまりに恐ろしい姿を見て、晶紀はもはや動くことができない。体の震えは止まず、歯がカチカチと音を鳴らす。

 鬼はあたりを見回していた。人間のいる気配を察知したのだろうか。だが、晶紀の身体は暗い茂みの中に隠れ、鬼の方からは見えなかった。このままなら何とかやり過ごせそうだ。

 しかし、晶紀は鬼がその場を動かないことに耐えきれず、思わず声を上げてしまった。

「ひぃっ」

 鬼がその声を聞き逃すはずがなかった。茂みの方に目を遣り、ゆっくりと棍棒を持ち上げる。

 晶紀はその場から逃げようともせず、固く目を閉じたまま頭を抱え込んでしまった。このままでは鬼の餌食になってしまう。

 鬼は思い切り棍棒を振り下ろした。地面がえぐれ、草が土といっしょにあたりに飛び散る。その衝撃は周りの草をもなぎ倒してしまった。

 何という幸運の持ち主だろうか。棍棒が振り下ろされた場所は、晶紀のいる位置から少し離れていた。鬼は、晶紀の位置が正確にわからなかったのだ。おかげで直撃は免れたが、凄まじい衝撃波が襲いかかり、晶紀の身体は茂みの中を転がっていった。

 晶紀の位置を把握した鬼は、狙いを定めてもう一度棍棒を振り上げた。

 晶紀は、すぐに起き上がると、何を思ったのか鬼の方へと走り出した。あまりの恐ろしさに目を閉じたままなので、鬼がどの方向にいるのか分からないのだ。棍棒が振り下ろされた時、晶紀は鬼の股の下にいた。背後で棍棒が地面を打つ音が聞こえる。晶紀は無我夢中で走った。

 鬼は慌てて晶紀の後を追いかけようとする。晶紀は足をもつれさせながらも懸命に鬼から逃げた。

 夜の闇の中でしばらくの間、鬼と晶紀との追い掛けっこが続いた。

 鬼は、晶紀が疲れ果てて動けなくなるのを待っているようだ。付かず離れず、後を追い掛けてくる。晶紀が死に物狂いで走る姿が滑稽なのか、口からよだれを垂らしながらその姿を目で追っていた。

 晶紀の方にあまりにも気を取られ、自分に向かって恐るべき速さで走ってくる者がいることに鬼は全く気づいていなかった。ようやくそれが目に入った時には、すでに手遅れだった。その者は、鬼の股の下をくぐり抜けた時、手にした大刀で鬼の股から胸のあたりまで一気に切り裂いていった。

 鬼がうつ伏せに倒れ込んだところに、今度は頭めがけて刀を振り下ろす。鬼は絶命し、黒い煙となって消えていった。

「間に合ってよかった」

 小春はそう言いながら、地面に座り込んでいる晶紀の下へと近付いていった。晶紀はもう立ち上がることもできないようだ。手で顔を覆って泣いていた。

「大丈夫か?」

 小春が近くまで行ってしゃがみ込むと、晶紀は小春に抱きついた。涙で顔がくしゃくしゃだ。

「ごめんなさい」

 晶紀はそう言うのがやっとだった。小春は晶紀の背中を優しくなでながら

「心配掛けやがって」

 と一言つぶやいた。

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