第21話 封術
桜雪ら五人は平原の中を北へ進んでいた。その後ろを女が静々と付いてくる。
「どちらまで行かれるご予定ですか?」
桜雪は前を向いたまま女に尋ねた。
「はい、大府へと」
その返答に女の方へ振り向き、桜雪はさらに質問した。
「大府へは何用で?」
女は桜雪の顔をじっと見つめた。
「急ぎ、お伝えしなければならない事があります」
「我々は大府から来た兵士です。差し支えなければ、それを教えて下さいませんか?」
女は桜雪の言葉に何か反応したようだ。
「大府から来られたと?」
「はい、我々はある調査のため八角村という所まで出向き、今はその帰りなのです」
「そうでしたか・・・」
女はしばらく思案していたが、やがて口を開いた。
「私は冬音と申します。白魂という地からやって参りました」
「白魂から?」
「はい」
冬音は一呼吸おいて再び話しだした。
「私達は長い間、鬼に苦しめられてきました。しかし、白魂はここから遥か東の地。このあたりは鬼とは無関係だったと思います」
「確かに、つい最近まで鬼などは見たこともありませんでした」
冬音は、そう応える桜雪の顔を見つめながら
「鬼たちは、今度は大府を第二の白魂にしようと考えているのです」
と告げた。
「第二の白魂ですか?」
「そうです。このままでは、大府は白魂の地と同じように衰退してしまうことになるでしょう」
桜雪は、今までに二度、鬼を見てきた。その言葉には信憑性があるように感じた。
「実は、我々も鬼と対峙してきたのです。あなたの言葉を信用します。必ず、上の者に報告いたします」
「話はそれだけではありませぬ」
冬音がそう言った時、桜雪は刺すような殺気と体を締め付ける圧迫感を感じた。慌てて前方を見ると、青みを帯びた灰色の霧が闇の中で漂っていた。
「出たか、鬼め」
桜雪はそう言って刀を抜いた。やがて、霧の中から真っ赤な鬼が現れた。右手に黒光りする棍棒を持ち、桜雪らの方に目を向けている。
しかし、奇妙なことに鬼は立ったままでこちらに近付こうとしない。
桜雪は一歩近づいてみた。すると鬼は一歩引き下がる。まるで、こちらのことを恐れているようだ。先程感じた殺気や圧迫感が消え去っていた。
(どういうことだ?)
桜雪が足早に近づくと、鬼はとうとう後ろを向いて走って逃げてしまった。
何があったのか、桜雪たちには全く検討がつかない。とにかく、鬼はいなくなったため先を進むことにした。
「おそらく、このあたりだったと思います」
冬音が示した場所は、鬼が棍棒で叩いた跡らしい、いくつかのくぼみがある以外、何も見当たらない。
「ここでも死体はなしか・・・」
八角村の商人が襲われたときと同じだ。死体がどこにも見当たらなかった。
なにか痕跡だけでも残っていないか探してみたが、血痕すら見つからない。全員、無事に逃げられたことを桜雪は祈った。
「冬音殿、もしかしたら全員、逃げることができたのかも知れない。一度、水無村へ行ってみましょう」
冬音は、桜雪の言葉に従うことにしたらしく、弱々しく頷くだけだった。
桜雪らが水無村に到着したときには、すでに村人の姿は全くいなかった。しばらく進むと、家の戸の前で千代が待っているのが見えた。
「千代殿、待っていてくれたのですね」
桜雪に話しかけられ、千代は安心した表情で
「皆さん、よくぞご無事で」
と言って笑みを浮かべた。
「鬼には出会ったんだが、どういうわけか逃げてしまった」
「鬼が逃げた?」
「左様、何があったのかよくわからんが」
「とにかく、中にお入り下さい。話は後でゆっくりと」
桜雪達は家の中に入っていった。
使用人たちは皆、早々に休んでいた。やはり、荷車を押しての山越えは大変だったのだろう。
「お連れの方は見つからなかったが、こちらに来てはないですか?」
「はい、今日訪れたのは私達だけのようです」
「そうですか・・・もしかしたら大府の方へ行ったのかも知れません。無事であることを祈りましょう」
冬音は何も言わず、ただ俯くばかりであった。
「大府までは我々が同行しましょう。ですから安心してくだされ」
「ありがとうございます。何とお礼を申し上げればよいか」
桜雪は、冬音が話していたことを思い出して話を続けた。
「冬音殿、先程話はそれだけではないと申されていたと思ったが」
「はい、実は鬼を封じる方法がありまして」
「封じる方法?」
「新月の夜、ある儀式を行うことで、鬼は現れなくなるのです。白魂は鬼のせいで衰退の一途を辿っていましたが、儀式のおかげで犠牲者は減り、今ではかつての賑わいを取り戻しつつあります。これから先、大府でも鬼はどんどんと増えていくでしょう。そうなる前に儀式のことを伝えようと白魂から参ってきたのです」
鬼を封じることができるというのは初耳だった。鬼は封術が通用しない。鬼を封じることはできない。桜雪はそう思っていた。
「どのような儀式なのですか?」
「それは・・・」
冬音は言葉を詰まらせ、目を伏せてしまった。
「どうされました?」
桜雪が尋ねると、冬音は申し訳なさそうに言った。
「すみません、ここで言うことはできません。大府の代表の方に直接お話させて下さい」
「そうですか・・・」
桜雪は、それ以上追求しなかった。
「わかりました。大府に着いたら年寄にお会い下さい。詳しい話は、その時にお願いいたします」
年寄とは大府の統治者にあたり、複数の代表者からなる組織だ。まずは、その年寄に話を聞いてもらおうと桜雪は考えた。
ふと、初めて冬音に会ったときから気になっていたことを思い出し、桜雪は思い切って尋ねてみた。
「変なことをお聞きしますが、冬音殿は人間でいらっしゃいますか?」
「まあ、なぜそのようなことをお聞きになるのですか?」
冬音の質問を予想していた桜雪はそれに答えた。
「大府では封術を使って結界を張っています。妖怪は入ることができないのです」
「そういうことでしたか。大丈夫です、私は人間ですわ」
冬音は桜雪に微笑みながら答えた。
暗闇の中、炎獄童子は一人座って目を閉じていた。
与一の矢が目を射抜いたときの、小春の刀が作次郎の胸を貫いたときの痛みを思い出していた。
二人をこのまま許すつもりはなかった。いずれ、機会があれば始末しようと炎獄童子は考えていた。
そして炎獄童子にはもう一つ目的があった。小春の刀を奪い、破壊してしまうことだ。
小春の持つ大刀が尋常でない力を持つことは、硬い鬼の体を容易く切り裂いてしまうことから明らかだ。
そして、そのような刀を作ることができる者に一人だけ心当たりがあった。
顔を合わせたことは一度もない。今ではどこにいるのか見当さえつかない。可能なら、会って尋ねたかった。刀を鍛えた目的を。
炎獄童子はゆっくりと単眼を開けた。何者かが近づく気配があった。
炎獄童子のいる場所は闇に包まれていたが、所々に赤く燃える炎が見える。岩に鎖で括り付けられた人間が蝋燭の芯のように燃えることで発せられた炎だ。人間は鎖のせいで身動きが取れず、ただ苦悶の表情を浮かべることしかできない。炭になることもなく、永遠に業火に包まれて、この責苦がいつか潰えることを祈っている。その無数の炎が、遥か遠くまで続いていた。その炎の間をすり抜けて、一人の女が近づいて来た。
「相変わらず、趣味が悪いねえ、炎坊」
炎獄童子の前に現れたのは、仙蛇の谷で小春の前に姿を現した雷縛童女だった。
「どうした、風華」
「お前に教えてもらった場所に行ったけど、癒やし手はいなかったよ」
「ならば、もう出発したのだろう」
「どこへだい?」
「森神村という場所だ」
「何のために?」
「女に会うためさ」
「ふん」
雷縛童女は苛立った様子で炎獄童子から目をそらした。
「お前は何のために癒やし手に会うつもりだ?」
炎獄童子の問いかけに雷縛童女はむっとした表情で
「炎坊には関係ないことさ」
と答えた。
炎獄童子はちょっと間をおいてから再び話し始めた。
「癒やし手に御執心なのはいいが、奴をあまり信用するものではないぞ」
「なんだい、焼いてるのかい?」
「ふざけるのも大概にしろ。一体どれだけの獄卒が奴に倒されたと思っているのだ」
獄卒とは赤い鬼のことらしい。
「今では仲間になっただろう」
「一時的に休戦しているだけだ」
「癒やし手は人間に恨みがある。裏切ることはないさ」
「鬼に恨みがないとは言い切れるか?」
炎獄童子の言葉に、雷縛童女はしばらく考え込んでいた。
「彼の過去は謎だからね。しかし、恨みがあるのなら仲間にはならないだろう?」
「だから、奴の考えていることが分からんのだ」
炎獄童子は吐き捨てるように言い放った。
桜雪たち一行は早朝に水無村を出発した。
何もなければ一日で大府に着くはずだが、それは夜遅くになるだろう。無理をせず、必要なら途中で野宿することも考えていた。
運悪く、予想外のことが起こった。出発した時は雲一つなかったのに、やがて空一面が灰色の厚い雲で覆われ、あたりがだんだんと薄暗くなった。
「これは雨が降りそうだな。前みたいに豪雨にならなければよいが」
桜雪はうんざりだという表情でつぶやいた。
「なんとか今日中に着けばいいですが」
千代の言葉に
「いや、無理はしない方がいいでしょう。ここまで来たのだから、慌てずに行きましょう」
と桜雪は笑みを浮かべながら応えた。
「私、大府は初めてです。何だか、胸が高鳴りますわ」
冬音が胸に手を当てながら言うので
「白魂とどちらの方が大きいのでしょうかね。私も機会があれば白魂へ行ってみたいものです」
と正宗が応えた。すると冬音が
「それでは、私が戻る時になったら一緒にいかがですか?」
と申し出た。
「もし許可が頂ければ、そのときはよろしくお願いします」
正宗はそう言って、冬音に向かって笑みを浮かべた。
一面は草が生い茂るばかりで、風が吹く度に一斉に波打ち、まるで暗い海の上を歩いているような錯覚さえ覚える。
冷たい風が時折、真正面から吹き付けてきた。湿った土の匂いが感じられる。遠くで雨が降っているようだ。
右手には遠く山々が連なる。山頂は雲に覆われて見えない。そして左手は見渡す限り平原が広がっていた。
道は徐々に左手に曲がっているようだ。周囲には何もなく、単調な一本道を一行はひたすら歩き続けた。
ふと、桜雪は誰もが疑問に思っていたことを冬音に尋ねた。
「ところで、なぜ大府や八角村に鬼が現れると分かるのですか?」
冬音が桜雪へ目を向けて答えた。
「啓示があるのです。夢の中に現れ、教示されるのです」
「何が現れるのですか?」
「まばゆい光。それでいて暖かく、まるで包み込むような。なんと表現したらいいか分かりませんわ」
「その何かが教えてくれるのですか」
「そうです。かつて白魂にいたとき、やがて西の大府という所が鬼に悩まされることになるだろうと教えられました」
「八角村についても同じですか?」
「近くまで来た時に、同じように教えられましたわ」
信じられない話だった。人知を超えた何かが危機を知らせてくれたというのだろうか。しかし、今や妖怪や鬼が現れる世の中だ。何が起こっても不思議ではなかった。
「しかし、わざわざ冬音殿自ら起こし下さらなくとも、使いの者を寄越して頂ければ済む話ではありませんか?」
「いいえ、そういう訳には参りませぬ。この私に啓示があるのなら、きっと自ら行動しなさいということなのでしょう。他の方にお任せすることはできませんわ」
冬音は桜雪の目をじっと見つめてそう応えた。桜雪は、心の中を見透かされているような気がして視線を外した。
「それにしても、不思議な事があるものですな」
桜雪は、そう返すのがやっとだった。
太陽は相変わらず雲に隠されたまま、あたりは薄暗く、何となく寂しさを感じる風景の中、一行は進み続けた。
その最中、恐れていた雨が降り始めた。あまりに強い雨が降れば札が濡れてしまう。水に濡れた札は効果が半減してしまうため、それだけはどうしても避けたい。
「もう少し進めば森の中に入る。そこまで急ぐことにしよう」
一行は先を急いだ。桜雪の言葉通り、目の前に森が見えてきた。
「あと一息だ。森の中に入ったら、一度休憩しよう」
雨はだんだんと激しさを増す。一行はできる限りの速さで森を目指した。
ようやく森の中に入り、幾重も折り重なった木の葉のおかげでなんとか雨露をしのぐことができた。
雨粒のほとんど落ちてこない場所を見つけ、そこで一行は食事をとることにした。はっきりとした時間はわからないが、もう昼を過ぎているはずだった。
「大府までは森が続くことになる。雨の方はたぶん心配いらないだろう」
しばしの休憩の後、一行は再び歩き出した。
雨粒が木の葉に当たる音が断続的に聞こえる以外、静かで穏やかな森の中だった。この時期は蝉の声がやかましいはずだが、雨のせいで鳴くのを控えているのだろうか。湿っぽい涼やかな風が、木の香りを運んでくる。時折、冷たい雨のしずくが肌に当たる。
やがて、雷鳴が聞こえて来た。かなり遠くで雷が落ちたようだ。
「いやですわ、また雷」
千代が不安そうにつぶやいた。
「まだ遠くですよ。このあたりは大丈夫でしょう」
正宗が、千代を安心させようと、明るい声でそう言った。
しかし、進むに連れて雷の音はだんだんと大きくなる。雷の鳴る方へ近付いているようだ。
どれくらい歩いただろうか。雨は止む気配がないまま、あたりがだんだんと暗くなっていった。もう、陽が暮れようとしている。
桜雪は、このまま大府まで進んでしまうか、雷雨を避けて野宿するか、判断に迷った。
「このまま進めば雷の近くを通ることになりそうだな。やり過ごした方が安全だろうか」
いったん休憩にして、相談することに決めた。
「雷のそばを通るのは危険だ。少なくとも、天気が回復するまでは進むのを止めた方がよかろう」
「そうなると、今晩はこのあたりで野宿することになるだろうか」
「うむ、森のおかげで雨露はなんとか凌げる。待つ方が安全だろう」
誰もがこの場で野宿することに賛成し、各々で夕食をとることにした。しかし、この判断は失敗だったようだ。雷がだんだんと近くなっている。
「まさか、こちらに向かってきているのか?」
龍之介の言葉に桜雪は
「そうかも知れない。万が一のために各自準備は怠るなよ」
と指示をした。
桜雪には一つ気がかりな事があった。最近は滅多に見ることはないが、あの妖怪が近付いているのかも知れない。
あたりが一瞬明るくなったかと思うと、突然大地を揺るがすような轟音が鳴り響いた。近くに雷が落ちたようだ。
「皆さんはできるだけ姿勢を低くしていて下さい。木の近くにいると危険ですから、少し離れるようにして下さい」
桜雪はそう言った後、四人に声を掛けて周りを見張り始めた。
また、近い場所で雷が落ちた。千代は体を震わせながら目を閉じ、耳を押さえている。しかし対照的に、冬音は恐れる様子はなかった。雷の落ちた方をじっと見つめている。
木々の間の暗い場所に、大きな黒い影が見える。二つの鋭い目が光り、こちらを睨んでいるのが分かる。
やがて、その影は桜雪ら五人のいる場所にゆっくりと近づいてきた。体全体を覆う藍色の毛は無数の火花によって金属のように輝き、足には鋼のような鋭い爪が見える。顔はまるで犬のようで、大きく裂けた口には無数の牙が並んでいた。
雷獣は雷とともに現れる妖怪だ。性格は獰猛で力は強く、まともに闘えば苦戦を強いられることになるだろう。油断のできない相手だ。
「おそらく稲妻を使うはずだ。気をつけろ」
雷獣が前足を伏せて、尾を上向きにピンと立てた。それと同時に無数の稲妻が雷獣の体から放たれる。
「防の陣!」
桜雪が叫ぶと同時に、五人は札を手に印を結んだ。
雷獣の放った稲妻が五人の前で消え去っていく。稲妻が止んだのを見て、桜雪は続けて叫んだ。
「封の陣!」
再び印を結んだ瞬間、雷獣が何かに押さえ込まれたかのように体を伏せてしまった。その状態から何とか脱しようとするが、雷獣は身動きが取れない。
五人はゆっくりと雷獣に近づいていった。
雷獣の目の前まで来た桜雪は、雷獣に話し掛けた。
「雷獣よ、聞こえるか。おまえをこの場で退治することは簡単だが、私とて無益な殺生はしたくない。元の姿に戻り、決して悪事を働かないと誓うことができるのなら、おまえを解放しよう」
雷獣はしばらく桜雪の方を睨んでいたが、やがてその姿が消え去っていった。残ったのは小さなモモンガ一匹だけだ。
五人が術を解くと、そのモモンガはしばらくの間その場に留まり、やがて森の奥へと消えていった。
「お優しいのですね」
冬音が、戻って来た桜雪に話し掛けた。
「私は妖怪を憎んでいるわけではないのです。無闇に殺してしまいたくはありません」
「言い聞かせるだけで悪事を働かないようになるとお考えですか?」
「簡単に封じられてしまうことがわかった訳です。分別のある妖怪なら、二度と人間を襲うことはないでしょう」
「でも、それは運が悪かっただけだと思うかも知れない。皆が封術を使えるわけではないのでしょう?」
「確かにその通りです。でも、わざわざ封じられるかも知れない危険を冒して人を襲うでしょうか?」
「道理の分からない者であれば、そうするかも知れませんわ」
「あの雷獣は私の言葉を理解した。きっと大丈夫でしょう」
桜雪はさっきまで雷獣がいた方を向きながらそう言った。冬音はしばらく黙っていたが、やがてこう尋ねた。
「鬼に対してもあのように接するのですか?」
桜雪は冬音の方を見た。冬音は訴えかけるような目で桜雪を凝視していた。
「可能ならそうしたいですな」
桜雪はそう言った後、視線を地面の方に向けた。そして、もう一度冬音の方へ視線を戻して話を続けた。
「しかし、今は鬼に情けをかける余裕などありません」
朝になった。雨は止んだものの、あたりは暗く、まだ陽は雲に隠れているようだ。
一行は、最後の行程を進み始めた。大府へはもう目と鼻の先である。
道はやがて真っ直ぐに伸びた上り坂になり、木々もまばらになっていった。
「報告が終わったら、酒場にでも行くか」
蒼太が誰とはなしにつぶやいたので、紫音が
「蒼太よ、大府に着いたらすぐに仕事があるだろう。そんな暇はないぞ」
と蒼太に釘を刺した。
「鬼を相手にしなくちゃならなかったんだから、少しくらい休みがあるでしょう」
正宗の言葉に、今度は龍之介が
「ここは人使いが荒いからな。休みがあるなんて期待しない方がいいぞ」
と反論する。
「安心しろ、一日は休みがもらえるように頼んである」
桜雪が皆にそう告げるが
「ありがたいですねえ。一日も休みがもらえるなんて」
と正宗は嫌味を言った。
大府での兵士の仕事は大変らしい。普段は周囲の警備や結界の維持が昼夜を問わず必要となる。時には妖怪退治に出掛けたり、要人を護衛する任務もあるだろう。兵士になるには、剣術や封術はもちろんのこと、類まれな体力と精神力も必須となるようだ。そんな選りすぐりの中でも、桜雪をはじめとするこの五人は特に名の知れた逸材であった。今回、この五人が鬼の噂を調査するという任務に就いたのも、万が一のことを考えた結果だろう。そして、五人は見事にその任務を全うした。
「そう愚痴をこぼすな。その分、見返りはいいんだから。よし、蒼太の提案通り、今夜は飲み明かすか」
桜雪の言葉に、他の四人は口を揃えて賛同した。
「他の方々も、もしよろしければ一緒にいかがですか?」
使用人たちは間髪入れず、一斉に快諾した。しかし千代は
「なんだか楽しそう。でも、私はお酒が全く駄目なんです」
と遠慮がちに言った。それを聞いて
「あら、お食事するだけでもいいじゃないですか。一緒に参加いたしましょう」
と話し掛けたのは冬音だ。結局、全員が参加するということになり、以降はどの店にするかの話題で持ち切りとなった。
大府まで残りわずかの道程を、楽しげに会話を交わしながら、一行は先へと急ぐのであった。
仙蛇の谷から西へ、『鬼の涙』を手に、赤毛の女は足早に道を進む。
ひと目見た時から虜となった。まるで、吸い込まれるような心地がした。
手にしっかりと握りしめたまま、女は自分の根城へと急いだ。
ふと、あの石を見たくなった。手をそっと開き、眺めてみる。
中心に、小さな赤い炎が揺らいでいるように見える。かつて、これほどまでに美しい宝石を見たことがなかった。
それが今、自分の手にある。女はそれが嬉しくてたまらなかった。
炎は自分を引き込むように怪しく光る。だんだんと、その炎が大きくなるように感じた。
周りの景色が霞んでいく。石がだんだんと大きく、近付いていくように見える。
実際に石へと引き込まれている感覚を覚え、女はこのまま石を眺めているのが怖くなった。しかし、もはや目を逸らすことはできない。まぶたを閉じることすら、もはや不可能になっていた。
だんだんと意識が遠のいていく。深く、暗い穴の中に入り込むような感覚を覚える。
女は、崩れるように倒れてしまった。やがて、その体は消え、一匹の狐の死骸が赤い着物と一緒に残った。
『鬼の涙』は、地面を転がり茂みの中へと消えていった。
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