第20話 小春の妖術
小春と晶紀の二人は、山裾にある月影の根城にたどり着いた。
薪を拾い集めて火を焚べた後、小春は荷物の中から食料を取り出して晶紀に渡した。
「ありがとうございます。ほとんど何も食べてなかったんです」
「余程ひどい目にあったようだな。まあ、大したものはないが、早く食べな」
竹の器に水を注いで晶紀に手渡すと、自分も食料を出して食べ始めた。
「この食べ物は何ですか? すごくおいしいです」
「小麦粉を油で練って焼いただけのものだが、隠し味に蜂蜜が入っているんだ」
森神村に滞在していた時、煮物に隠し味として蜂蜜を使っていると夕夏に教えてもらったことを小春は思い出した。
「蜂蜜ですか、珍しいですね」
「確かに、普通ではめったに手に入らないな」
森神村や森陰村は、森の中に蜜蜂用の巣箱をたくさん持っていることを与一が教えてくれた。全て村の中だけで消費しているらしい。巣箱の数を増やすつもりもないそうだ。全て自然に任せていると与一は言っていた。このことは内緒にしてほしいと頼まれていたので、小春はそれ以上は語らなかった。
食事を終え、小春は晶紀に尋ねた。
「胸は大丈夫か?」
晶紀は胸をはだけて確認してみた。掴まれたところが赤くなっているが、傷付いてはいないようだ。
「大丈夫そうです」
そう言いながら、晶紀は襟を正した。
「白魂で何があったんだい?」
小春の問いに、晶紀は順を追って説明し始めた。
「私は、白魂で冬音様にお仕えしていた者です」
「冬音?」
「はい、白魂を鬼の手から救ってくださった御方です」
「まさか、鬼を全部退治したというのかい?」
「いいえ、そうではありません。鬼が出現しなくなる方法を教えてくださったのです」
「出現しなくなる方法?」
「そうです。私もその方法までは知らないのですが、何かの儀式をするみたいです」
「その儀式をすれば鬼が出なくなるのか?」
「はい。ですから、鬼に襲われたという話を私は一度も聞いたことがありません」
全く予想できない話だった。鬼が出なくなるための儀式が存在する。その儀式をどうして冬音という者は知っているのだろうか。
「冬音という者はいつから白魂にいるんだ?」
「私も存じ上げません。私が生まれる前からすでに白魂にいらっしゃいましたので」
小春は冬音という者は知らない。少なくとも、小春が白魂を去った後にやって来たのだろう。
(兄者が白魂を去ったのはそのためだろうか?)
鬼が出なくなれば、月影が白魂にいる必要はなくなる。自分から出て行ったか、小春同様に追い出されたのかも知れない。
小春は、過去に鬼に遭遇し、闘った時のことを思い出そうとした。白魂から追い出され、一人で宛もなく放浪していた時のことである。まだ白魂からそう離れてない場所で鬼に遭遇した。
小春だけで鬼に立ち向かうのは初めてだった。
本当は逃げたかった。鬼が立ち去るまで、どこかに隠れていたかった。しかし、小春の持つ大刀が足枷となった。刀を持つ以上は、鬼と戦わねばならない。
鬼は一つの目で小春をじっと見つめている。鬼の放つ強大な闘気によって周囲から体を押さえつけられ、小春は立っているのがやっとの状態だ。
死への恐怖が頭をよぎる。体が思うように動かない。大刀を持つ手が小刻みに震え、心臓は痛くなるくらい激しく脈打った。
やがて、鬼が棍棒をゆっくりと持ち上げた。あの棍棒が振り下ろされた時、自分の命は終わる。そう小春は覚悟した。
(いや、こんなところでは死ねない)
生への執着が小春の体を突き動かした。棍棒が振り下ろされた瞬間、小春の体はバネで弾かれたように前に進み出た。そのまま鬼の股の下を抜けると、振り向きざま空高く飛び跳ね、鬼の頭めがけて刀を思い切り振り下ろした。
小春は、その時の記憶がほとんどなかった。気がつけば、鬼の体は頭から胸のあたりまで切り裂かれ、うつ伏せに倒れていた。そのまま黒い煙と化す鬼の姿を、小春は息を切らしながら、ただ呆然と眺めることしかできなかった。
その後、ある時は人に頼まれ、ある時は偶然に、何体かの鬼と遭遇し、それらを倒しながら、小春は白魂から離れていった。複数の鬼を相手に闘ったこともあった。しかし、初めて一人で鬼と対峙したときに比べれば、さほどの恐怖ではなかった。
そう、鬼と対峙している時は、最初ほどの恐怖は感じなくなっていた。
しかし、ふとその時のことを思い出した時、もし自分がしくじっていたら間違いなく殺されていただろうと考えると、突然恐怖が蘇ることがあった。
だから、今では過去の闘いのことはできるだけ考えないようにしていた。こうして、過去の事を振り返ったのは久しぶりのことだ。そして、また恐怖が自分を支配していく。
「どうされましたか、小春様」
小春は我に返った。
「いや、考えごとをしていた。すまない」
「あの・・・少し顔色が悪いようですが」
「大丈夫だ、心配ないよ」
結局、白魂から離れたからなのか、冬音の行う儀式のせいなのかは分からないが、森神村で鬼に遭遇するまで長い間、鬼を見かけなかったことは確かだ。
「白魂の様子はわかったよ。それで、冬音という者に仕えていたのに、なぜこんな所に?」
「それが、ある日突然、冬音様が大府までお出かけになると言われまして」
「なぜだい?」
「これから先、大府の周辺に鬼が現れるということをお伝えになるためです」
「すると、八角村に鬼が現れると触れ回っていたのはお前たちということか?」
「はい、それも冬音様が予言されたことです」
「なぜ、直接八角村に伝えに行かなかったんだ?」
「それは、八角村に近寄るのが危険だからとのことで・・・」
(なるほど、自分達が被害を受けるのは避けたいということか)
「それで、この場所からさらに西に進んでいたのですが、途中であの女性・・・私を捕らえていた人にばったりお会いしまして」
「そこで宝石と交換されたということか?」
「なんでも、その宝石が儀式に必要になるということで、冬音様は涙ながらに私をあの女性へ差し出されました」
「すると、今はその冬音という者が一人で旅を続けているのか?」
「いいえ、兵士が五人ほど付いております」
「その五人と晶紀さんが白魂から付いてきたわけか」
晶紀の顔が曇った。
「最初に出発した時は十人いました。ですが、兵士が三名と付き人が一人、途中で命を失いました」
鬼か、盗賊の類にでも襲われたのだろうか。
「これからどうするんだい?」
下を向いたままの晶紀に尋ねた。
「もし叶うのなら、大府まで参りたいです。冬音様のことが心配で・・・」
自分を捨てた主人のことを心配するとはお人よしにも程があると小春は思った。
「あんたは捨てられたんだぜ。そんな主人に尽くす必要はないだろう」
「しかし、身寄りのない私をここまで育ててくれた御恩があります」
「両親はどうしたんだい?」
「私が赤ん坊の時にこの世を去ったそうです。なので、冬音様の付き人に育てられ、後を継ぐ形で私が付き人になったのです」
自分とよく似た境遇のようだと小春は感じた。
「白魂に戻るつもりはないのかい?」
「私は今まで冬音様のおそばにずっと仕えてまいりました。冬音様が白魂に戻られぬ限り、私も帰るつもりはありません」
「その冬音というお人は、大府にずっと滞在する気なのかい?」
「そこまでは伺っておりませんでした」
大府へ行っても小春は入ることができないが、一度見てみたいことは確かだ。しかし、それよりも先に行きたい場所があった。今は、森神村へと戻りたかった。
「先に寄りたいところがあるから、大府は後回しだ。いずれ連れて行ってあげるから、それまでは辛抱しな」
晶紀は少しためらっていたものの、一人ではどうしようもないことを悟ると小さく頷いた。
ふと、小春は気になって尋ねた。
「ところで、冬音というのは人間なのかい?」
それに晶紀は答えた。
「いえ、妖怪の仲間だと伺っております」
晶紀のその言葉を聞いて、小春は
「それなら、冬音さんは大府には入れないよ。あの場所は封術で結界が張られている。妖怪は侵入することができないんだ」
と言うが早いか、何かの気配に感づいて刀を持ち素早く立ち上がった。
(しまった、周りを囲まれている)
話に夢中になって、周囲の警戒を疎かにしていたようだ。誰かが小春たちの周りを取り囲んでいるらしい。
一人の男が目の前に現れた。先程、晶紀を手に入れようとしていた奴だ。
「見つけたぞ、女」
手に何かをぶら下げている。月影の根城まで案内してくれたあの一つ目の妖怪だ。
「ふふ、こいつがまさかあんたの居場所を知っていたとはな。ちょっと痛めつけてやったら素直に吐いてくれたよ」
男はまるでゴミでも放るように、手に持った妖怪の身体を小春に向かって投げた。一つ目は無残に潰され、手足があらぬ方向へ曲がっている。もう、すでに虫の息だ。
「おい、しっかりしろ!」
小春が話しかけると
「逃げろ・・・」
と言い残して事切れた。姿がだんだん薄れていき、年老いた狸に戻ってしまったのを見て、小春は男を睨みつけた。
周囲にはこの男の仲間がだんだんと集まってくる。逃げ場をなくすつもりだろう。
「こんな上玉二人を俺が逃がすわけがなかろう。安心しな、手荒な真似はしねえ。後でじっくりとかわいがってやる」
男は両手を小春の方へかざした。驚いたことに、掌から無数の糸が放たれ、小春と晶紀の方へ飛んできた。
「晶紀、私から離れるな」
狸の死骸をそっと抱きかかえた晶紀に対して小春は叫んだ。
男は蜘蛛が変化した妖怪だった。無数の糸で二人を絡め取り、動けなくしようと考えているのだろう。糸は瞬く間に小春と晶紀の周辺に巻き付いていく。
やがて、大きな球体の形に糸が巻き付けられてしまった。しかし、男はその形を不思議に思った。
(二人の体に巻き付けたつもりだったが・・・)
すると、驚くべきことが起こった。巻き付けた糸がまるで飴のように溶け去っていく。二人には糸の一本も触れることができなかった。
これぞ、小春のとっておきの妖術だ。小春は、相手を攻撃するための妖術を持っていない代わりに、どんな妖術も無効にしてしまう強力な結界を周囲に張ることができた。但し、その結界を持続させるためにはかなりの集中力を要する。剣生は、剣術だけではなくこの妖術についても修行を命じていたが、小春はあまり真面目に取り組んでいなかった。
(もっと真剣に修行すべきだったな)
後悔しても後の祭りであるが、少なくとも目の前の危険は回避することができた。
しかし、まだ周囲には男の仲間がいる。どんな妖術を使うかわからないため、小春は結界を持続させるべく集中を切らさなかった。
「こうなったら力ずくでものにするまでよ」
男の叫びに応じて、円陣の輪がだんだんと小さくなる。どこか一箇所だけに集中して討ち取り、そこを突破するしかない。小春は晶紀に向かって叫んだ。
「強行突破するぞ。付いてこい」
今まさに、小春が討って出ようとした瞬間である。突然、恐ろしいまでの殺気が背後に迫った。小春の周りを取り囲んでいた者たちもその気配に気づいたようだ。この殺気は間違いなく鬼のものだった。
いつの間にか現れていた白い霧。その中から現れたのは、小柄な女性だった。その顔はこの世にあるものとは思えないほどに美しかった。男たちは皆、その身から放たれる強烈な殺気のことを忘れ、ただ見惚れるばかりだ。女性は笑っていた。口からは二本の牙が際立って見える。そして両目の上、眉間のあたりに、もう一つ目があった。サファイアのようにきらめく青い髪は肩から巻き毛になり、胸のあたりまで伸びている。手に持っているのは、先端に錨のような刃が付いた鞭だ。胸に虎の皮でできたさらしを巻き、同じく虎柄の腰巻きを身に着けている以外、他は裸同然であった。そして、その肌の色は、瑠璃のように鮮やかな青色だった。
「なんだい、癒やし手がいると聞いて来たのに、下衆な奴しかいないじゃないか」
そう言いながら、女性はこちらに近づいて来た。
男たちは、突然現れた女の方を呆然と見ている。その隙を小春は見逃さなかった。
「晶紀、行くぞ」
小声でそう伝えるや、いきなり蜘蛛男に向かい大刀を逆袈裟に斬り上げた。
「ぐわっ」
小春は荷物をすばやく手に取って、為す術もなく斬り倒された蜘蛛男の横を晶紀と一緒に駆け抜けた。
「誰も逃さないよ」
女はそう言うと、手を横に伸ばし、体で十字架の形を作った。
突然、無数の稲妻が嵐のように周囲を埋め尽くした。男たちはその稲妻に抵抗することができなかった。体が硬直し、口からは泡を吹く。目玉が飛び出し、肉が焼け、髪は燃えて灰になった。
小春は、その凄まじい攻撃に驚いて立ち止まったが、幸い結界のおかげで無傷で済んだ。晶紀も結界の中にいたため無事だ。しかし、その稲妻の力は結界を破ろうとしていた。あとどれくらい耐えられるか、小春にも分からない。
「晶紀、走れるか?」
「はい、なんとか」
「よし、逃げるぞ」
小春と晶紀は懸命に走った。結界が少しずつ小さくなってゆく。小春の集中力が限界に近いのだ。稲妻が結界を破壊しようとする。発生してからかなり経つが、未だに稲妻が止む気配はない。
「なんとか持ってくれ」
祈るような気持ちで小春と晶紀は走った。稲妻の光のせいで前は見えない。しかし、早く脱出しなければ稲妻の餌食になる。闇雲に走っているうち、足元の地面が急になくなった。
(しまった!)
気がついた時にはすでに手遅れだった。小春と晶紀は、一緒に崖から下へ落ちていった。
その後しばらくして、ようやく稲妻が消え去った。
「ふん、逃げたか。やるじゃないか、この雷縛童女様の雷撃に耐えるとは」
そう言いながら、雷縛童女と名乗ったこの女は円の形に並んだ黒焦げの死体を見遣った。
「くそっ、全部妖怪じゃないか」
女はあたりを見回した。近くにあった木は枝や幹が裂けて赤黒く燃えていた。肉の焼けた臭気が漂い、その様はまるで地獄絵図のようだ。
「仕方ないね、出直すか」
そう言い残して、雷縛童女は闇の中に消えていった。
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