第18話 仙蛇の谷
桜雪たち一行が六道村を出発したのは昼過ぎになってからのことだった。
峠を右に曲がり、やがて幽霊谷に入る。
「ここはいつ来ても不気味ですわ」
千代が不安そうにつぶやく。
「あまりいい噂は聞きませんからね、ここに関して言えば」
蒼太があたりを見回しながらそれに応えた。
「あの滝の近くには野宿したくないですね。早いとこ通り過ぎましょう、こんなところ」
正宗が後ろ向きに歩きながら、背後にいた蒼太の方に向かって話し掛けた。
幽霊谷にまつわる怪談話は広く知られているらしい。噂だけではなく、このあたりでは死人もよく見つかっているようだ。幽霊が本当にいるのかどうかはともかく、危険なことは確かだ。
静まり返った森の中を一行は進んでゆく。異様な形の木々を、ともすれば幽霊と見間違えることもあった。恐る恐る進む使用人たちを尻目に、桜雪ら五人の兵士はあたりをくまなく見渡しながら歩いた。未だに行方のわからない商人たちの足取りが残っていないかを探っているのである。
やがて、水が流れ落ちる音が聞こえてきた。滝の近くまでやってきたのだ。桜雪達は、川沿いに進んでいたときに小春が襲撃されていたのを発見した。
「今度は川沿いではなく、この道に沿って進んでみよう。もしかしたら、商人たちの通った痕跡が見つかるかもしれん」
桜雪の勘は的中した。道の横に一枚の紙切れが落ちていた。それは、明らかに封術用の札であった。周囲を見渡すと、他にも何枚か札が落ちている。
桜雪は、森の奥をじっと見遣った。森の奥は暗く、見通すことはできない。
「ここで待っていてくれませんか。少し奥の方を見に行ってきます」
「気を付けて下さい、桜雪さん」
千代の言葉に軽くうなずき、正宗と紫音の二名に声を掛けて、三人で森の奥へ入っていった。
不気味にねじ曲がる木々の間をすり抜け、三人はあたりを見渡しながら歩を進めた。
「こんな狭い間を縫って荷車を通すのは大変だろう。なぜ、こんなところに入り込んだのだろうか?」
桜雪が不思議そうにつぶやいた。
「これだ!」
紫音が荷車の轍らしき跡を見つけた。轍はさらに森の奥へ続いている。三人は、その跡を辿っていった。
「あれを見て下さい。荷車がある!」
暗がりの中、正宗が荷車を見つけた。三人が驚いたことに、荷車の近くの木が何かで殴られたかのように裂けていた。
「いったい、何があったんだ・・・」
荷車も破壊され、札があたりに飛び散っていた。裂けた木の位置から見て、何者かは荷車の前方からやって来たようだ。地面を見ると足跡も残っていた。八角村付近で見た足跡にそっくりだ。
「この足跡はおそらく鬼のものだ」
死体はどこにも見当たらない。棍棒で地面を叩きつけた跡もいくつか残っていた。
「無事な者がいればいいのだが・・・」
札の入った袋で被害を受けていないものがいくつかあった。それらを担いで千代の下へと戻った。
「荷車はあったが、破壊されていた。商人たちも見つからない。どうやら、鬼に襲われたようだ」
千代がその言葉に驚いた。
「この近くに鬼が・・・」
「ふむ、先を急いだほうがいい」
持ってきた袋を荷車に積み込むと、一行は急いで出発した。
朝の日差しの中、小春は沼からできるだけ離れた場所にいた。
沼の臭気が体に染み付きそうで、すぐにでも出発したかった。空腹ではあったが食事をとる気にもならず、小春は立ち上がり、刀と荷物を背負った。
昨日通ってきた道をたどり丁字路に着くと、洞穴のあるところまでいったん戻った。そこで軽く食事をとり、再び仙蛇の谷を目指し歩き出した。
今度は丁字路は無視して真っすぐ坂を上っていく。坂はだんだんと緩やかになり、やがて平らになった。この日も空は晴れて日差しが強く、蒸し暑かった。汗が吹き出し、体からポタポタと雫となって落ちる。どれだけ歩いただろうか。ようやく目の前に十字路が現れた。
今度は左右の道も十分な広さがあった。しかし、左手の道の入口にある苔むした石に彫られた文字を見ると、仙蛇の谷ではなく『大虫村』と書かれていた。
(他の村が間にあるのだろうか?)
今度は間違いのないように進みたいと思った小春は、そのまま真っすぐ行ってみることにした。しかし、しばらくして下り坂になったので、先程の十字路が峠にあたるのは間違いないようだ。もう一度十字路まで引き返し、覚悟を決めて西に歩を進めた。
しばらくは平らな道が続いた。進むに連れて木々がだんだんとまばらになり、とうとう周りは草が生い茂るだけの開けた場所になった。太陽が正面から眩しい光を投げかける。空は青く、白い筋雲が棚引いていた。さらに進むと眼下に谷が広がった。谷に沿って川が流れ、その横に家らしき建物が無数に見える。道は山に沿って時計回りにぐるりと回りながら下っていて、谷底の集落へとつながっているようだ。
(日が落ちるまでには到着できそうだな)
小春は再び歩き出した。
道は右手に村を望み、左側はだんだんと木々が増えてきた。木は道の上の方まで枝葉を伸ばし、おかげで陽の光を直接浴びなくて済んだ。道は下り坂で、谷側から暖かい風が吹き付けてくる。目的地が見えてきたこともあり、小春はすっかり安心し、足取りも軽くなった。
しかし、それも長くは続かなかった。目の前に、木の枝から何かが吊り下げられているのが見えた。近づくに連れて、それは人の姿をしていることがわかった。死体が、首に縄を掛けられて垂れ下がっている。すでに干からびて、腕や足はほぼ白骨化していた。一つだけではない。まだ縄に掛けられて間もないもの、半ば腐りかけているもの、すでに白骨化して地面に落ちてしまったものなど、無残にも晒し者にされた死体がいたるところで見つかった。
(これは、考えていた以上に危険だな)
さすがの小春も、この光景には肝をつぶした。
道沿いに地蔵が安置されている場所があった。どの地蔵にも色とりどりの服が着せられ、手ぬぐいが頭に巻かれていた。小春は、特に気にも留めず素通りしようとしたが、妙な視線を感じて地蔵の方をちらりと見た。
地蔵は五体あった。皆、目を閉じているが、中央の一体は目が開いていた。紅の艶やかな衣装を身にまとい、頭には手ぬぐいが巻かれているのではなく、黒髪が生えている。そして、顔は猫そのものであった。明らかに地蔵ではないし、石像の類でもない。妖怪の仲間だろう。
「私に気づいたようね」
妖怪が口を開いた。小春は無視して進もうとしたが
「あなたはこの死体が気にならないの?」
と尋ねられ、立ち止まって妖怪の方へ顔を向けた。
「何か理由があるのか?」
小春が問い返す。
「あの村には墓はないの。死んだ者は全て、こうやって野ざらしにするのよ」
「お前はこんな所で何をしているんだ?」
「悪行を重ねた者は、死んだら地獄へ送られる。私の仕事は、死体を選別して地獄へ運ぶこと」
死体を地獄へ運ぶ妖怪の話は小春も知っていた。しかし、実際には地獄へ運ぶのではなく、死肉を食べることが目的であるらしい。この妖怪もおそらく、捨てられた死体を食べるため、ここにいるのだろう。どちらにしても、捨てるばかりでは、いずれこの辺りが死体で埋め尽くされてしまう。それを防ぐ役には立っているとも言える。
「あなた最近、親しい人を亡くしているわね」
不意に、妖怪がそんなことを口にした。小春は黙って妖怪の顔を見つめている。
「あなたから死の匂いが漂っている。そうとう辛い思いもしていたようね。でも、安心して。いずれまた、その人に会うことができるわ。あの世でね」
妖怪は、すっと手を伸ばし、小春を指差した。妖怪の手は、顔とは違って人間と変わりなかった。
「あなたは、近いうちに定命が尽きるみたい。せいぜい、用心した方がいいわ」
そう言って不気味な笑みを浮かべる妖怪の顔を見ながら、小春は背筋に冷たいものを感じた。
夕焼けであたりが橙色に染まり始めた頃、村の入口に近付いてきた。道の両端に何者かがたむろしている。人間か、それとも妖怪かは、はっきりわからない。皆、汚い身なりで、肌が黒いのは元からなのか、汚れのためなのか判別できなかった。小春が近づくと、一斉に視線を向ける。小春は少し離れたところで歩くのを止めた。
(ここで事を荒立てると碌なことがなさそうだ)
小春は彼らを無視してそのまま進むことにした。視線を合わさないよう、真っすぐ前を見て歩く。
目の前を歩いて行く小春の姿を見て、ある者は悪態をつき、またある者は猥雑な言葉を投げかけた。しかし、背中の大刀に気が付くと、ほとんどは目をそらし、言葉を掛けるのを止めた。その中で一人だけ、小春に近づく男がいた。
「お嬢ちゃん、俺が道案内をしてあげようか?」
その男は小春より背が低く、樽のような体をしていた。顔は角張って平たい餅のようで、体に対して異常に大きい。鼻はなく、小さな二つの穴だけが顔の中央あたりに空いている。そして一番の特徴は、黒い瞳の大きな目が一つ、顔の半分くらいを占めているところだ。一つ目小僧の仲間だろうか。しかし、小僧と言うには年老いているように見える。
小春は無視して歩みを止めなかったが、それでもその妖怪はしつこく小春の周りをつきまとう。
「一人で歩くにはここは危険すぎる。俺ならこの村のことは何でも知ってるよ」
その言葉を聞いて、小春は立ち止まった。
「本当になんでも知っているのか?」
相手の大きな目を見て小春は問いかける。
「俺はここに来て長いからね。もちろん、ただで提供することはできないがね」
「もし、私の質問に答えられたら報酬をあげるよ」
そう言って、小春は桜雪からもらった銀貨を一枚、男に見せた。
男の表情が緩んだ。
「いいよ、何だって聞いてくれ」
「ここは仙蛇の谷で間違いないか?」
「ああ、そうだよ」
「道標には大虫村と書いてあったが」
「かなり昔には大虫村という人間の村があったが、今はもうないよ」
「なぜだい?」
「よくは知らないが、大蛇のたたりで滅んだらしい」
小春が迷い込んだあの沼に住んでいた大蛇が退治された後、この村で疫病が流行り、多くの村人が犠牲になった。残った村人は大蛇のたたりだと恐れて村を捨てた。その後、どういうわけか、ならず者がこの地に多く集まるようになり、今の状態となったのである。
「では、ここに月影という者がいると聞いたのだが知っているか?」
「月影・・・そんな名前の奴はいたかな?」
「またの名を『癒やし手』ともいう」
男の表情が険しくなった。
男は、あたりを見回しながら小声で小春に囁いた。
「こっちに来な」
男が道を外れて茂みの方へ進むので、小春は後を追い掛けた。
やがて、人気のない場所までたどり着くと、男は小春に訴えた。
「まったく、人がいるところでその名前を出すなんてどうかしてるよ。下手したら殺されちまう」
「どうしてだ?」
「癒やし手を嫌っている連中は多い。仲間だと思われたら襲われる」
「では、ここにいるのだな」
「ああ、この界隈では有名さ」
やはり、月影は白魂の地を去っていた。鬼を倒せる者がいない今、白魂がどうなっているのか小春は気になった。
「ここでいったい何をしているんだ?」
「さあな、そこまではわからない。ただ・・・」
「どうした?」
「変な噂を聞いたことがある。癒やし手が、見知らぬ青い鬼と一緒にいたとか・・・」
「鬼と?」
「最近、このあたりに鬼が出るようになったんだ。だから、癒やし手が手引きしているんじゃないかって言われてる」
鬼を討伐していた者が鬼と手を組むなどとは考えられない。小春は、それは単なる噂話だと思って聞き流した。
「どこにいるかわかるかい?」
「いつもいる場所がある。案内してもいいが、その前に教えてくれ」
「なんだ?」
「お前は癒やし手の何だ?」
「妹弟子にあたる」
「武芸でもやっていたのか?」
「まあ、そんなところだ」
男は、小春の顔をじっと見ていたが、やがて一つ目を閉じると
「会ってどうするつもりなんだ?」
と問いかけた。
小春は長い間考え込んでいたが
「わからない」
と一言答えただけだった。
男は、村から外れた山裾の方へ小春を案内した。もう、すっかり日が暮れてしまった。斜面から村の方を見下ろすと、ところどころに灯りが見える。その向こう側には川が黒く浮かび上がっていた。
「いつもはここにいるのだが・・・」
平らになった砂地にはたき火の跡が残っている。確かに、誰かがここを根城にしていたようだ。
「今はどこかに行っているようだな」
男が、たき火の跡を見つめながらつぶやいた。小春はあたりを見回してみたが、たき火の跡以外には何の痕跡も残ってなさそうだった。
「わかったよ。しばらく、ここで待ってみることにするよ」
小春は、背負っていた大刀を手にとった。男が慌てて後ろに飛び退く。
「おい、勘弁してくれよ」
男の様子を見て
「いや、すまない。別に脅すつもりじゃなかった」
と小春は謝った。
「もう一つ教えてほしいんだ。この刀を鍛えた鍛冶師を探しているんだが、何か知らないか?」
「鍛冶師・・・」
男は警戒しながらもゆっくりと近付き、刀を眺めた。
「俺は刀のことは全く知らないが、それでもこれが見事なものだということがわかるよ」
「私の師の形見なのだが、誰の作なのかは教えてもらえなかったんだ。銘もどこにもない」
男はしばらくの間、目を閉じて考え込んでいたが、やがて小春の顔を見ると静かに言った。
「残念ながら、俺は何も知らないな」
「そうか・・・」
小春は刀を背中に戻した。
「あんたの師ということは、癒やし手の師でもあるということだよな。いったい何者なんだ?」
「天狗だ」
「なら、同じ天狗の仲間なら何か知ってるんじゃないか?」
なるほど、と小春は思った。天狗のいる場所なら一箇所だけ心当たりがある。危険だが、行ってみる価値はあるかもしれない。
「ありがとう、参考になったよ」
そう言って小春は銀貨を一枚、男に差し出した。
「へへ、まいどあり」
男は受け取った銀貨を懐に収めながら
「ここでずっと待ってるのかい?」
と小春に尋ねた。
「いや、少し村の中を散策してみようかと思っているが」
「そうかい。ここは道が入り組んでいるからな。迷って変な場所に入り込まないようにな」
「ああ、気を付けるよ」
男は、片手を挙げて小春の方を見ると、くるりと向きを変えて立ち去った。
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