第19話 二人の女性

 夜の道を、桜雪と千代を先頭に、一行は歩き続けた。

 暗い灰色の霧の中を、曲がりくねった木の幹が不気味に白く浮かび上がる。

 桜雪が掲げた松明の赤以外は、全てが色を失っていた。その赤い光も、あたりの霧に吸収され遠くまで見通せない。

「どこかで休憩したいところだが・・・」

 桜雪はあたりを見回しながらつぶやき

「ちょっとばかり、ここでは危険そうですな、千代殿」

 と、不安そうにしている千代に笑顔を見せた。

「なあに、もし鬼が現れたら、この桜雪、命を懸けて千代殿を守りますぞ」

 桜雪が千代を元気づけようと笑みを浮かべたまま話し掛けた。

「桜雪殿だけではないぞ。我々に任せてくだされ」

 蒼太も、やけに明るい声で千代に言葉を掛けた。氷のように冷たい殺気の中で、八角村から来た使用人は全員、怯えて声も出せないというのに、さすがは兵士と言うべきか。

「しかし、霧が現れてからだいぶ経つな。現れるのならさっさと出てきてほしいものだ。いい加減、こちらも疲れてきたぞ」

 隻眼の龍之介が一つの目で周囲を見渡しながらぼやいた。

 商人たちの荷車を見つけてから程なく、この霧は現れた。それと同時に奇妙な圧迫感と刺すような殺気を全員が感じた。

 鬼が近付いているのだと誰もが確信した。

 千代は一言も口にせず、ただ下を向いて歩くばかりだった。あまりの恐ろしさに周りを気にする余裕もなかった。その様子を見ていた桜雪が皆に命じた。

「止まれ。いったん休憩しよう」

 誰もが驚いて桜雪の方を向いた。

「正気ですか桜雪さん。ここで立ち止まるのは危険ですよ」

 正宗が桜雪の言葉に異を唱えた。

「いくら進んでも霧は晴れぬ。彼奴ら、こちらが消耗するのを待っているんだ」

「しかし、進まなければ逃げることもできません」

「いや、このまま進んでも逃げることは叶わぬだろう。ならば討ち取るまで」

 桜雪の自信に満ち溢れた言葉を聞いて、皆かえって肝が据わったようだ。

「じたばたしても始まらない。俺は桜雪さんの言葉に従うよ」

 使用人の一人がそう言うと、その場に座り込んだ。他の者もそれに従った。

「千代殿、あなたは必ず無事に八角村に帰します。男に二言はありませぬ」

 千代はその言葉を聞いて安心したのか、桜雪に笑みを返した。


 荷車の周りで銘々は食事をとり終えて休んでいた。霧は相変わらずあたりを覆い隠している。そろそろ幽霊谷を抜けて上り坂になるはずだ。六道村からここまで、休憩は全くしていなかった。その上、今のような異様な気配の中で山を登るのはかなりの負担になる。桜雪は、それを考慮して休憩をとることにしたのだ。体力を回復させ、山に入ったら一気に登ってしまうつもりだ。それで逃げられれば最善であるが、そんなに甘くはないだろうと桜雪は予感していた。

 桜雪は他の四人を呼んだ。鬼が現れた時に備えて作戦を練るためだ。桜雪の提案に皆はじめは驚いたが、最終的には桜雪に従うことにした。

「皆、交代で仮眠をとろう。十分に疲れが癒えたら、あとは一気に進むぞ」

 長い時間、一行はその場に留まった。もうすぐ夜が明ける頃だ。しかし、鬼が現れる様子はない。

「千代殿、大丈夫かい?」

 桜雪が千代に声を掛けた。

「はい、少しだけですが眠ることができました。まだまだ歩けますわ」

「よし、ではそろそろ出発しようか」

 全員が立ち上がり、再び歩き出す。相変わらず霧は晴れず、息苦しくなるような圧迫感も、肌を貫く殺気も衰えなかったが、皆はそれをある程度は克服し、自らの意志で進み続けた。以前のように、追い立てられ無理やり歩かされるのではない。同じ歩くという動作であるが、もはや彼らは鬼の操る糸から解き放たれたのだ。

 相手がその変化に気づいたのかどうかは定かでないが、上り坂に差し掛かろうというところで遂に鬼は姿を現した。目の前に伸びる真っすぐな坂の上、薄汚れた灰が舞っているかのような濃い霧の中に黒い影が見える。一行は立ち止まった。

「ようやく姿を表したか、鬼め」

 桜雪が一歩前に踏み出した。真っ赤な肌を持つ大柄な鬼が音もなく近付いてくる。やがて、ズシン、ズシンと足音が鳴り響き出した。

 桜雪は刀を抜き、臆することなく鬼に近寄っていった。他の四人が素早く茂みの中に身を潜める。なんと、桜雪が一人でこの鬼に対峙するつもりだ。

 猛烈な殺気の圧力を体に感じながらも、桜雪は歩みを止めない。千代が耐えきれず倒れそうになるのを、使用人の一人が慌てて肩に手を遣って支えた。その使用人たちも、足が震えて動けないようだ。

 鬼は相手が自分の間合いに入るや否や、持っていた棍棒を振り上げた。桜雪は立ち止まると刀を中段に構えたまま頭上の棍棒を見据えた。

「桜雪、参る」

 鬼が棍棒を振り下ろすその瞬間に、桜雪は背を低くし、思い切って前に踏み込んだ。背後で重く腹に響くような轟音が鳴った。直ぐさま桜雪は鬼の右足に対して刀を横に薙いだ。刀は足の中央を少し越えたあたりまで食い込んで止まった。

(刀が抜けない・・・)

 刀を手から離すと今度は脇差を抜いて、両腕で左足を左袈裟に斬り込んだ。やはり真ん中あたりで刀は止まってしまい抜けなくなる。

 桜雪はそのまま鬼の背後へと飛び退いた。足を斬られた鬼がうつ伏せに倒れたところを、周囲に隠れていた四人が一斉に駆け寄って、蒼太と正宗が両腕を斬り、紫音と龍之介が頭を輪切りにした。

 鬼は五人の手によって、あっという間に斬り倒され、黒い煙となって消えてしまった。

「成功だ。鬼を倒したぞ」

 紫音が思わず叫んだ。

「作戦通りだったな」

 龍之介が紫音の方を見て口を開く。

「さすがは桜雪さん、見事な一撃でした」

 正宗が桜雪に話し掛け

「これなら何体出ようが負けることはないな」

 蒼太が胸を叩きながら大声で言った。

 他の四人が喜びの言葉を口にする中、桜雪だけは不服そうな顔をしていた。鬼が消え去った後に残った自分の刀を拾い上げ、その刃の状態を調べる。見ると、無数の刃こぼれが生じていた。

 小春が鬼の足を完全に切り裂いていたのを思い出した。今、同じように斬ってみたが、まるで硬い鋼の鎧に刃を当てたような衝撃があった。手がまだしびれて震えが止まらない。

(いったい、彼女は何者なんだ・・・)

 小春が強いことは河童や鬼との闘いを見て分かっていた。しかし、その次元が桁違いであることを、実際に鬼と対峙して初めて桜雪は理解した。

「皆、刀はまだ使えそうか?」

 桜雪の言葉に四人が刀を見ると、腕を斬った二人の刀は刃こぼれが目立った。

「これは参ったな。あまり多くの鬼を相手にすることはできそうもないぞ。先を急ごう」

 五人は千代の下まで戻り、千代たちと少し会話をした後に慌てて出発した。先程まであたりを覆っていた霧がだんだんと薄らいでいった。


 小春は村の中に戻り、あたりを見回しながら歩いていた。頭上にはいたるところに赤い提灯が列をなして吊り下げられている。道沿いに並ぶ家々には戸がなく、中で人妖問わず何やら騒いでいるのが見える。戸の付いた家の前に女性が一人立っていた。顔に白粉を塗り、口には紅をさして、色目を使いながら近づく男に声を掛けている。小春が近くを通ると

「商売の邪魔だよ。あっちへ行きな」

 と手を振り払いながら怒鳴った。

 道は右に左に折れ曲がり、あちこちに分かれ道も見える。やたらと入り組んだ道を歩いているうちに、自分の居場所がどの辺りなのか分からなくなった。

(これは参ったな・・・)

 道の横に座り込んでいる男どもが、小春を見掛けるとふらふらと近付いてくる。しかし、背中の大刀を見るや慌てて踵を返して逃げていった。道端にいる者のほとんどは男ばかりだが、中には女もいた。彼女たちは小春を見るとたいていそっぽを向くか、嫌悪の目を向けるかのいずれかであった。男と同様に近付いてくる者もいたが、やはり途中で逃げていく。人間よりも妖怪の方が数は多いようだ。いや、人間に見えても本当は妖怪なのかもしれない。一つ目入道やのっぺら坊が道端で寝そべっていたり、提灯だと思っていたら顔のついた提灯お化けだったり、人間の姿をしているがしっぽが生えていたり、さながらお化け屋敷の中を彷徨っているように感じる。

 いったい、ここの住人はどうやって生計を立てているのか小春には分からなかった。近くには田畑も見当たらない。狩りをして生活しているような様子もない。ただ毎日を自由気ままに生きているように見える。その様子を眺めているうちに、もし、ここでのんびりと暮らせるならばどんなにいいだろうかと小春は思うようになった。嫌な思いもせず、死への恐怖に怯えることもなく、毎日を何もせずに過ごす。でも、それはつまらない生活になるだろうと小春は考え直した。今は目的を持って旅をしている。その目的を果たした後、気の遠くなるような長い年月をどう暮せばいいのだろうか。他の目的を持つことができるのだろうか。小春は答えを見出すことができなかった。

 だんだんと灯りの少ない場所に迷い込んでいった。提灯の代わりに苔むした石の灯籠がほのかに炎を灯していた。灯籠は真っすぐな道沿いに整然と並び、その先に階段があった。

(上に登れば村が見渡せるかもしれないな)

 小春は階段を上がってみることにした。

 灯籠は階段の両端にも並んで立っている。蝋燭の炎だと思っていた灯りは鬼火だった。赤だけでなく、青白いものや、黄色いものもあり、ゆらゆらと灯籠の中で揺らめいていた。だんだんと頂上が見えてくる。その先は闇に包まれていた。

 一番上までたどり着き、そこから村の方を見下ろしてみた。提灯の灯りが道のある場所を示している。それを辿って、だいたいの道順を把握することができた。

 遥か遠く、星空の下に山々が影となって見えた。灯籠がまるで山の方まで伸びているようで、このまま山の頂まで飛んでいけるような錯覚さえ感じる。

 景色をぼんやりと眺めていたとき、背後から声が聞こえて来た。振り返って声の方を見てみると、明かりの下に人だかりができている。何かを売っているような雰囲気だ。小春は、興味本位で見に行くことにした。

 肩越しに覗いてみると、二人の女性がこちら向きに立っている。一人は彩りも鮮やかな赤い着物に身を包み、胸元がはだけて大きな胸の谷間が顕になっていた。周りの者に対して指をさしながらしきりに何か喋っている。もう一人は後ろ手に縛られているらしい。白い着物で、小春と同じく袖と裾は短い。胸は完全に露出して二つの乳房が皆の前に晒されていた。下を向いて恥ずかしそうに目を閉じている。

「これだけの上物だ。もっと高価なものじゃないと渡せないよ」

 赤い着物の女性が大声で叫んだ。女性の顔は顎が細く、目は細くて吊り上がっていた。髪は銅のように赤く、巻き毛が首のあたりを覆っている。

「わかった、金貨を十枚出そう。それでどうだ」

 色黒の背の高い男が叫んだ。手には金製らしき硬貨を持ち女の方に見せていた。あれも大府の硬貨なのだろうかと小春は思った。

「それ以上出す奴はいないのかい?」

 女の言葉に応える者はいなかった。男は白い着物の女性に近付き、いきなり左の胸を鷲掴みにした。

「痛い・・・やめて下さい」

 小さな声で懇願するが、男はその手を緩めない。

「いい声で鳴くな。これは楽しめそうだ」

 おそらく男は妖怪の類だろう。手に入れた女をどうするか、だいたい想像はつく。その仕打ちを考えると怒りが込み上げ、小春は我知らず叫んでいた。

「待て」

 小春は、巾着の中から『鬼の涙』を取り出し、赤い着物の女に差し出した。

「これでその女と交換しよう」

 女は『鬼の涙』を無意識に受け取った。目がその宝石に吸い寄せられている。しばらくの間、何も言わずに石を眺めていたが、やがて独り言のように小さな声で言った。

「わかった、あんたにあげるよ」

 小春は返答を聞くや否や、まだ胸をつかんでいた男の手を払うと、手の縄をほどいて着物の襟を整え、手を引いて連れて行こうとした。

「待て、その女は俺が手に入れたんだ」

 男が小春に言い放ったが、同時に背中の大刀に気づいて後ずさった。

 小春は、女を嬲り殺しにしようとしたその男を睨みつけた。その気迫に押され、男はそれ以上なにも言うことができない。可能なら、この場で男を斬り殺してやりたいと小春は思ったが、カッとなった頭をすぐに冷やした。

(あまり事を荒立てないほうがいい)

 小春はそのまま立ち去った。女性は安心したのか、涙を拭いながら小春に付いていった。


 階段を下りて村の中に戻る。男たちが舐め回すような視線を投げかける中を二人は連れ立って歩いた。

「あの・・・」

 女が小春に話しかける。

「どうした?」

「助けて下さいまして、ありがとうございます」

 小春は女の顔をじっと見た。少し幼い顔立ちで、大きな目が印象的だ。きれいな小豆色の髪が肩のあたりまで伸びて、歩く度にゆらゆらと揺れている。育ちのいいお嬢様といった雰囲気で、美しいというより可愛らしいと言った方が合うような女性だ。

 小春は少し意地悪をしたくなった。

「助けたわけじゃない。私はお前を買ったのだぞ」

 少しにやけた顔をして小春は言った。

「はい、一生かけても償うようにします」

「いや、私は体で払ってもらえればそれでいいよ」

「体ですか?」

 相手に意味が通じていないようだ。

「私はあまり体を使って働いたことはありませんが、精一杯ご期待に添えるようがんばります」

「そういう意味じゃないんだが・・・」

 小春はそれ以上説明するのはやめた。本当のお嬢様育ちのようだ。

 小春は話題を変えた。

「私のことは小春と呼んでくれ。名前は何て言うんだ?」

「はい、晶紀と申します」

「どうして、あんな奴に捕らえられていたんだ?」

「それが、宝石と引き換えにあの方のものにされてしまいました」

「それはひどい話だな。家はどこにあるんだい?」

「はい、白魂というところです」

 小春は耳を疑った。

「白魂からここまで連れられて来たというのか?」

「話せば長くなるのですが・・・」

「わかった。目的地まではもう少しだ。そこで詳しく聞かせてくれないか?」

 小春は、白魂の者にここで会えるとは全く思っていなかった。今の白魂の状態を聞くことができるのを期待して、小春は月影の根城へと急いだ。


 桜雪らが峠までたどり着いたのは、もう陽がだいぶ昇ってからだった。一行はそこで休憩をとることにした。

 霧はもう完全に晴れ、あの圧迫感も殺気も消え失せていた。昨夜、常に気を張っていたために皆は疲れ果てていたが、鬼を倒したことで気分は高揚しているようだ。

「さすがは大府の兵士殿だな。見事な手さばきだった」

「鬼も今度は簡単に手出しできないだろう」

 使用人がそう称える中で、桜雪だけは相変わらず浮かない顔をしていた。

「桜雪様、どうなされましたか?」

 千代が心配そうに問いかけるので、桜雪は苦笑して正直に答えた。

「いやあ、小春殿が鬼を倒した時、それは見事な剣さばきでな。自分も真似してみたのだが、実は思うように斬れなんだ」

「小春様がですか?」

「うむ、鬼の両足をたやすく切り裂いておったのだが、俺は脇差まで使って何とか倒せたといったところだ。おそらく小春殿の刀、何か特別な力を持っておるのだろう。それを使いこなす小春殿もまた只者ではないということだ」

 千代は、小春の姿を思い出すかのように上を向いて話し始めた。

「私には小春様がそんな風には見えませんわ。すごく可愛らしいお人でしたもの」

「まだ幼いのは確かだろうな。しかし、妖怪の寿命は非常に長い。いろいろな経験を積んでいるのも間違いない。彼女は我々が思っているより強いんだろうな。力だけではない。心もだ」

 千代は桜雪へ視線を戻した。

「心を強くすることは、そんなに簡単ではありませんわ。きっと、小春様は長い時を経てもまだ思い悩んでいらっしゃることがたくさんあるのではないかしら」

「そうかな? 心が強くなくては鬼と対峙し続けることはできんと思うが」

「あんな怖い鬼と闘って恐れを抱かないとは思えません。今でもその恐怖と闘いながら鬼に挑んでいるのですわ。何か理由があって」

「鬼に挑む理由か・・・」

 今、桜雪は、千代をはじめとする八角村の皆を守るという使命のために鬼と闘っている。しかし、小春の目的は父親を探すことであり、鬼を倒す理由などないはずだ。

(商売のためだけに、鬼退治などしようと思うだろうか?)

 どうして小春は危険な鬼退治を引き受けるのか桜雪には分からない。

(千代殿の言う通り、他に理由があるのだろうか)

 機会があれば、一度問うてみたいと桜雪は思った。

「もう、小春殿は仙蛇の谷に着いているだろうか・・・」

 桜雪は誰に言うとでもなくつぶやいた。


 その後の桜雪ら一行の旅路には何の障害もなかった。

 しかし、今進んでいる場所は起伏が激しく、荷車を引いての移動はかなり大変だった。

「この峠を越えればしばらくは平地になる。あと少しだ」

 途中、何度も休憩をはさみながら、この難所を越えた頃には、陽がすっかり傾いてあたりは暗くなり始めていた。

 あたりに生えていた木々がまばらになり、やがて、足が隠れるくらいまで伸びた草が一面に生い茂る草原が広がった。

 草は風に揺れて、黄金の海原のように波打っている。山々が遠くに見え、その際のあたりに赤い太陽が沈もうとしていた。

「もう少し進むと分かれ道が見えるはずだ」

 桜雪の言葉通り、十字路が見えてきた。石の標識には、西に『大府』、北に『大虫村』、そして南に『水無村』と刻まれている。

「水無村まではすぐだ。今日はそこに泊まることにしよう」

 一行は、南に歩を進めた。

「その昔、このあたりは巨大な湖だったという伝説があります」

 桜雪が千代にそう話しかけた。

「私も聞いたことがありますわ。湖の主を誤って殺めてしまい、一日で干上がってしまったというお話ですよね」

「ええ、本当のところはわかりませぬが」

 水無村の名は、水の無くなった湖の伝説から名付けられた。村の近くには小さな沼があり、そこから常に水が湧き出ている。それはかつての湖の源泉であったと言い伝えられているが、真偽の程は定かではない。

「湖の主とはいったい何者だったんでしょうかね?」

 桜雪はふと疑問に思った。

「さあ、私もそこまでは存じ上げませんわ。蛇や鯰の類だと思いますが」

「鯰であれば、主と気づかずに食べてしまったのかも知れませんな」

 千代は少し驚いた顔をした後、口に手を当てておかしそうに笑った。

 道沿いに木々が密集している場所へ来た。ちょっとした林になっているようだ。もうあたりはすっかり暗くなり、桜雪は松明を片手に先頭を歩いていた。

 前方に目を凝らしていると、少し先に立つ木の影にぼんやりと白く浮かんでいるものがある。近づくに連れ、それは人のように見えた。

「こんな暗い中、一人で何をしているのだろうか」

 桜雪がそうつぶやいた時、その何者かがこちらに走って近付いてくるのが見えた。どうやら女性のようだ。

 はじめ、桜雪はそれが幽霊ではないかと思った。他の者もその気配に気が付き、進むのを止めた。

 顔は何かに怯えているような表情をしている。そして誰もが息を呑むほどに美しい女性であることが暗がりの中でもはっきりとわかった。長く伸びた髪は藍染の絹のようで、前髪は眉のあたりできれいに切りそろえられている。身に付けた着物は雪のように白く、その下にある肌が透けているかのようだ。袖と裾は短く、露出した腕や足がほのかに光を帯びているように見えた。

 その女性は桜雪にすがりつくと、蚊の鳴くような声を出した。

「お助けくださいまし」

「どうなさいましたか?」

 桜雪が片手で女性の肩にそっと手をやり、優しく話し掛けた。

 その女性は桜雪の顔をじっと見た。恐れにわななく唇は松明の炎に照らされて赤く色付き、潤んだ瞳が桜雪の視線を釘付けにする。間近で見るその美しさに、さすがの桜雪もしばらく言葉を失い、ただ見惚れるばかりであった。

 女性はなおも桜雪にすがってくる。襟元は少しはだけて豊満な胸の谷間が露わになっている。桜雪の首筋に女性の息が掛かり、熟れた果実のような芳香が匂ってきた。まるで雄を誘うフェロモンのように。

(この女、まさか妖怪か?)

 桜雪がそう思った瞬間、女は桜雪のそばから少し離れ、慌てて取り繕いながら

「取り乱してしまい、すみませぬ。実は、鬼に襲われたのです」

 と答えた。


 女性が落ち着いたところで、桜雪は穏やかに尋ねた。

「どのあたりで鬼に襲われたのですか?」

「私達は、仙蛇の谷からここまでやって来たのですが、平原に入って間もなく鬼が現れて・・・」

「私達、ということは、他にも連れの方が?」

「はい、お供の者が数人おりましたが、私一人に逃げろと言って・・・」

「その方たちは、ここにたどり着いてはいないのですか?」

「わかりませぬ。怖くて怖くて、ずっと木の影に隠れておりました」

 女性は首を横に振って答える。

「襲われたのはいつ頃ですか?」

「夕方頃だったと思います」

 桜雪は少し考えた後、四人の兵士に声を掛けた。

「我々だけで様子を見に行こう。もし鬼がいれば、この間と同じやり方で始末する。すまぬが、刀を取り替えてもらえぬか」

 桜雪の刀はどちらもなまくらになっていた。まだ斬ることのできる刀に交換した後、桜雪は話を続けた。

「以前より斬れ味が落ちているから、無理に腕を狙わず、頭を中心に狙おう。そこは弱点のようだから」

 それだけ四人に告げると、今度は千代の方を向いて

「すみませんが、先に水無村で宿を確保していただけますか? 様子が確認でき次第、すぐ戻ります」

 と依頼をした。

「気を付けて下さい、桜雪様」

 千代が心配そうに声を掛けた後、女が

「私も連れて行ってくださいまし。連れの者が気になりますゆえ」

 と桜雪に懇願した。

「いや、それは危険です。我々にお任せ下さい」

「お願いいたします。決してお邪魔にはならないようにします。皆がどうなったか、心配でなりませぬ」

 桜雪は少し困った表情をしたが、襲われた場所などを聞く必要もあると考え決心した。

「わかりました。但し、鬼が現れたらすぐにどこかへ隠れて下さい」

 女は笑みを浮かべ、小さく頷いた。


 夜の闇の中、月影は幽霊谷にいた。

 月影はこの道を何度か通ったことがあるが、いつ来てもここには慣れることがなかった。

(相変わらず不気味なところだ)

 小春もここを通ったのだろうと思い、月影は何か痕跡がないかあたりを伺った。

 与一は月影に、小春が父親を探すために旅をしていると言った。その言葉が意味することを月影は理解していた。

 村の者が、小春の出生の秘密を明かしたに違いない。

 しかし、剣生が他の誰かに秘密を打ち明けるとは思えなかった。いったい、何を小春に告げたのか、月影は気になっていた。

(父親に会ってどうするつもりか・・・)

 小春は、剣生が父親であることを誇りに思っていた。おそらく、小春が信用できる唯一の存在が剣生だったのだろう。

 自分がその剣生の娘ではないと知った時、どれほど悲嘆にくれただろうか。

 いったい、人間というものはどれほど残酷になれるのか、月影には想像できなかった。

 遠くから水の流れ落ちる音が聞こえて来た。滝の近くまでやって来たようだ。

(女の幽霊が出るそうだが・・・)

 月影は、この滝にまつわる怪談話を知っていた。もし出るのなら会ってみたいものだと月影は思った。

(鬼に比べれば可愛いものだろう)

 そんな事を考えていると、周りに何者かの気配を感じた。

(隠れているつもりか・・・)

 歩くのを止めた。滝の音だけが途切れることなく聞こえてくる。

 相手は姿を現さない。五人、いや、六人いる。月影は無視して歩き出した。

 突然、六人が一斉に月影を取り囲んだ。

「女の幽霊ではなく河童が出て来たか」

「荷物を全部置いていけ」

 手に持った棍棒をかざして目の前の河童が凄んだ。

 今まで、月影が幽霊谷で野盗に襲われたことは一度もなかった。つまり、この哀れな河童たちは『癒やし手』を知らなかったということだ。

「一度だけ言う。今すぐこの場から立ち去れば命だけは助けよう」

「ふざけるな」

 そう叫ぶが早いか、河童たちは一斉に棍棒を振り上げた。

 月影は黒い左手を顔の前に掲げると手首を軽く振った。

 そのとき、信じられないことが起こった。河童たち全員の頭がまるですいかを輪切りにしたように上半分だけ斬り離された。振り上げた腕も同じ高さで綺麗に切断されている。河童たちは何が起こったのか分からないままその場に崩れ落ちた。

「忠告はした。自業自得だ」

 そう言い残して、月影は先を急いだ。

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