第17話 それぞれの旅路
桜雪と千代の一行は香仙村に到着した。
空には暗雲が立ち込め、今にも雨が降り出しそうだ。
「また豪雨になりそうだな。この間の雨で道がかなり悪くなっていたが、もっとひどくなるかもしれないな」
このまま進むべきか、雨が去るのを待つべきか決める必要があった。激しい雨の中、あの悪路を歩くのは危険だ。しかし、豪雨のせいでますます道が悪くなることは十分に考えられる。
桜雪は、大きな荷車に目を遣った。防水対策はしているものの、雨がひどくなれば防ぎ切れるものではない。
「雨がひどくなれば荷が濡れることになる。それだけは避けなければならない。まだ昼前だが、今日はここに泊まることにしよう」
その提案に反対するものはなく、さっそく宿を借りるため村の長に交渉に行った。
「土砂崩れのあった場所があっただろう。どうなっているか聞いてみたら、我々が通った後は誰も見ていないそうだ。おそらく前と同じ状態であろう。荷車が通れるように勘考せねばならぬ」
桜雪は皆にそう伝えた。これからまた豪雨となれば、状況はさらに悪化するかもしれない。誰もがそれを心配していた。
皆が昼食を食べ終え、くつろいでいたときである。まるで夜のように暗かった外が突然光り、やがて地を裂くような轟音が聞こえてきた。雷だ。
千代は体をビクッとさせると、慌てて下を向いて目を閉じ、耳を塞いだ。
「近くに落ちたようだが、大丈夫でしょうか」
正宗がそうつぶやいた。
「いやですわ、雷なんて・・・」
千代が落ち着かない様子でそう言ったとき、また外が光り、次いで響き渡る轟音にまた体が反応した。
やがて、滝の下にでもいるかのような激しい雨音が鳴り始めた。
「とうとう、降ってきたか・・・」
もはや、この雨が止むのを待つしかない。
「千代殿、そろそろ家に戻って休まれるといい。送っていきましょう」
桜雪が千代にそう促すが、千代は小さな声で
「あの・・・もう少しここにいてもよろしいですか?」
と尋ねた。どうやら、この豪雨と雷の中を一人で過ごすのが心細いらしい。それを察した桜雪は
「わかりました。それでは、雨が止むまで待ちましょう」
と答えて、千代に優しく微笑みかけた。
結局、雨は夜になっても止まず、千代は同じ家で寝ることになった。人数が多かったので広い空き家を借りたわけだが、千代に雑魚寝をさせるわけにもいかないと、一部屋を丸々あてがい、他の九人がもう一つの部屋を使うことになった。
「私も皆さんといっしょで大丈夫です」
千代の言葉に
「いけません、そんなことをすれば大叔父様に怒られてしまいます」
「男ばかりの中にいては気になって眠ることなどできないでしょう」
と皆、頑なに拒否する。
「皆さん、窮屈ではありませぬか?」
千代の言う通り、九人分の布団はなんとか敷くことができたが、もう足の踏み場がない。
「いえ、大丈夫です。あとは寝るだけですから、お気になさらないで下さい」
と、蒼太が身体を縮ませながら応えた。
結局、千代は広い部屋の中、一人で寝ることになった。まるでお姫様のような扱いであるが、それは先代の孫だからという理由だけではない。むしろ、先代の孫というだけで村の代表を継いだことを、村の者は快く思っていなかった。
先代の頃は、職人たちのノルマが厳しく、毎日休みなく働かなければならなかった。しかし報酬が多かった分、職人たちは恵まれていた。先代は村のためにお金を使おうとはしなかった。そのため、村が裕福なのにもかかわらず村人は貧しい生活を続けていた。
それに不満を持っていた千代が村の代表になったとき、まず最初に実行したのが職人の生活の改善だった。ノルマを減らすことで、職人たちはゆとりある生活ができるようになった。それは同時に、札の生産量も利益も落ちてしまうことを意味した。札の不足分は、他の村に職人を派遣して新たな働き手を育成することで補えるようにした。もちろん、そんなことをすれば、自分の村の取り分は減っていくことになる。それが、今まで先代とともに財を築いてきた一部の者達には不満なのだろう。しかし、以前ほどではなくても、なんとか損失を出さずにやりくりができていた。そして、その利益はできるだけ村の発展のために使い、おかげで村人たちの生活も豊かになった。そんな千代の村人たちへの思いやりが、信頼を勝ち得た理由であろう。
時折、雷の音が鳴り響く中、千代は昔のことを思い出していた。
それは、まだ自分が子供だった頃のことである。当時は、村を守るために用心棒を雇っていた。その中に一人、千代がよく遊んでもらっていた男がいた。名前は知らない。髪がきれいな赤銅色なので、『赤毛のおじさん』と呼んでいた。
ある日の夜のことである。そのときも遠くから雷鳴が聞こえていた。突然、妖怪たちの襲撃に遭った。しかも、用心棒の大半が寝返ったのである。村は大混乱になった。多くの村人が犠牲になり、千代の両親もそのとき命を失った。
千代は何が起こったのか分からぬまま、台所まで一人で逃げていた。そのとき、誰かが台所に近づいてきた。入ってきたのはあの赤毛のおじさんだった。
「赤毛のおじさん!」
「まだ逃げてなかったのか?」
男は、駆け寄ってくる千代の姿を見つけて思わず叫んだ。千代は今まで怖かったのか、男の足にしがみついて泣き出した。
男はしばらくの間、目を閉じていた。やがて、決心したように目を開けると、その場にしゃがみこんで千代の顔を見つめ、口を開いた。
「いいか、ここに隠れているんだ。何があっても、絶対に外へ出てはならぬ」
千代が涙を拭い、コクリとうなずくのを見ながら
「おじさんが、必ず千代ちゃんを守ってあげる。これが終わったら、また一緒に遊ぼうな」
と言って笑みを浮かべた。千代はそのときの男の笑顔が今でも忘れられない。それは、何かを覚悟したかのような悲しげな表情だった。
襲撃は明け方まで続き、人数に勝る村人が、寝返らなかった少数の用心棒たちの助けもあって、なんとか妖怪たちを退けることができた。
千代は村人に発見されるまで、赤毛のおじさんの言うとおりに台所の隅で座ったままじっと隠れていた。千代の両親を含め、屋敷にいた者は全て殺され、千代は唯一の生存者だった。
赤毛のおじさんは、屋敷の中で息絶えていた。体には無数の斬り傷が残っていた。千代は遺体に近付こうとしたが、村人たちに止められてしまった。その姿は人間ではなく狐だったのである。赤毛のおじさんは、妖狐と呼ばれる妖怪の仲間だった。
結局、寝返った用心棒はすべて妖怪であることを、生け捕りにした連中が白状した。この襲撃のために、妖怪であることを隠して用心棒として入り込んでいたのである。
娘夫婦を失い、激怒した先代は、大府から封術を扱うことのできる人間を雇い入れて村に結界を張らせた。妖怪が村に入り込むことが完全にできないようにするためだ。
千代は、あの赤毛のおじさんが自分を助けてくれたのだとずっと信じている。もちろん、自分の両親の命を奪った妖怪を憎んだ時期もあったが、今では全ての妖怪が悪者というわけではないと考えている。襲撃のあったときから、村は全ての妖怪を拒絶し続けてきた。いつの日か、結界を張らなくても済むような社会になることを千代は望んでいた。
突然、何かが衝突するような凄まじい音が鳴り響いた。また、雷が近くに落ちたようだ。
千代はその音に驚き、それ以上考えるのを止めて早く寝ようと努めた。
朝になった。昨日の雨が嘘であるかのように晴れ渡った青い空だった。一行は香仙村に別れを告げた。
道は予想通りひどい状態だ。いたる所でぬかるみに車輪がはまり、思うように進むことができない。
「さて、一番の難所だな」
大きな土砂崩れのあった場所に着いた。土砂はうずたかく積もり、荷車が登るのは不可能だ。土砂の低い部分は崖が近く、昨日の雨で川は濁流と化していた。
「崖の近くを通るしかないな。用心しながら少しずつ進もう」
車輪の通るところを、持ってきた鍬や鋤で掘り返しながら、少しずつ荷車を進めてゆく。陽の光が容赦なく照りつけ、皆、汗だくになって作業した。どれくらい時間が経っただろうか。ようやく渡り終えた頃には、誰もがフラフラになっていた。
「ここで昼食といくか」
荷車を木陰のある場所まで移動させたところで、一行は昼食をとった。
「あとは問題のある場所はないと思うが、昨日の雨で何が起こっているかはわからんからな。覚悟して行こう」
桜雪らは行進を再開した。相変わらずぬかるみが行く手を阻み、皆の体力を奪っていく。空気は蒸し暑く、燃えさかる太陽の熱を浴びて歩くだけでめまいを感じるほどだ。それでも一行は進み続けた。陽が傾き、夜になっても村には到着しなかった。
「まいったな。これほど時間がかかるとはな」
松明を掲げながら桜雪はぼやいた。幸い、あの土砂崩れ以外に難所はなさそうだ。もう少しで六道村に到着するはずである。
「みんな、あと少しだ。がんばろう」
自らに言い聞かせるかのように桜雪は声を張り上げた。
「千代さん、大丈夫ですか?」
正宗が千代に声を掛けた。
「私は大丈夫です。あまり仕事してませんから。すみません」
「いえ、千代さんは大府に着いてからが大変ですから、ここは我々に任せておいて下さい」
荷車を押していた使用人の一人が、千代に言葉を掛けた。
夜になって暑さは多少和らいだものの、まとわりつくような湿気は相変わらずであった。荷車の軋む音があたりに響く以外、聞こえるものは何もない。
「遠い昔には、油で勝手に動く荷車があったそうだ。それがあれば運ぶのも楽になるんだがな」
「油を燃やしただけでどうやって動かすんだろうな。不思議な話だ」
「重い物も運べて、しかも速く移動できたと聞く」
「そんなものがたくさん走っていたなんて、想像もできないな」
「まあ、無い物ねだりをしても仕方あるまい。もう少しで着くだろう。あと一息だ」
夜遅く、一行は六道村に到着した。宿に入って間に合わせの食事をとると、皆はそのまま眠ってしまった。
八角村を出発してから間もなく、小春はつづら折りの山道に入っていた。
道中、考えることは兄弟子の月影のことばかりだ。
月影が弟子入りしたのは、小春がまだ幼い頃のことだった。剣生の名はすでに広く知られていたので、弟子入りを志願する者も多かったが、それが認められたのは月影だけだった。なぜ、月影が弟子入りを認められたのか小春は知らない。おそらく、月影の持つ妖術のためだろうと小春は考えている。
月影は、その当時すでに『癒やし手』の名で有名だったらしい。右手をかざせば、どんなにひどい傷でも、どれだけ時間が経過した傷でもたちまち元の状態に戻してしまう。しかし、真に恐るべきは左手の方だった。その能力ゆえに、月影は鬼の討伐を一人で任されていた。また、村人の護衛の任務には必ず月影が同行した。村人が怪我を負った時に、すぐに治療ができるからだ。
小春が大きくなり、剣術の修行を始めることになった時、月影はそれを反対した。危険すぎるというのがその理由だった。剣生が小春を弟子入りさせた理由はわからなかったが、月影が心配する気持ちはよく理解していた。だから、小春は最初から修行に乗り気ではなかった。剣生の修行は厳しく、小春はいつもいたるところに怪我を負った。その度に月影が右手で傷を癒やしてくれた。小春にとって、月影はやさしい兄のような存在であった。
剣生の使っていた大刀を小春に継がせると剣生が宣言した時も月影は反対した。刀を継ぐということは、鬼を倒す使命を継ぐということに等しい。それは自分が負うべきだと月影は主張した。しかし、剣生が意見を曲げることはなかった。鬼を倒す使命は小春が継がなければならない。月影はその助けとなってほしいというのが剣生の願いだった。
剣生亡き後、月影が小春を助けることはなかった。小春を疎んじ、鬼の討伐には月影が一人で向かった。半人前がいては自分が命を落としかねないと言われた。そんなことが何度か続いた後、小春は村を追い出されたのだ。
「今まで剣生様のご恩情でお前をここにおいてきたが、それも今日までだ。荷物をまとめて明日までに出て行け」
「せめて、兄者が戻るまで待ってくれ」
「ならぬ。明日までに自分で出て行かなければ、無理にでも追い出すまでだ」
何でもするから、ここにおいてほしいと懇願する小春に、村の長は小春の出生の秘密を明かした。それまで、小春は自分を剣生の実の娘だと思っていた。それは間違いだった。その明かされた真実は、小春に例えようのない心の傷を残した。
次の日、小春は荷物をまとめて白魂の地を去った。父親に復讐するために。
山の中を随分と歩いてきたが、分かれ道にはまだたどり着かない。もう、陽はかなり傾き、あたりは暗くなり始めていた。
完全に暗くなる前に野宿する場所を決めようとあたりを見渡してみる。森の中は暗く、木の幹だけが闇の中で柱のように直立しているのが見える。苔むした岩が濃緑色の団子のように地面を覆い、平らな場所が見当たらない。小春は、もうしばらく進んでみることにした。
やがて、右側が高く切り立った崖になっている場所にたどり着いた。さらにしばらく進むと、大きな洞穴があった。中は真っ暗だ。持ってきた松明に火を点けて中を覗いてみる。奥はそれほど深くはないようだ。入ってみると、奥の方にたき火の跡が見つかった。おそらく、旅の者が休憩する場所としてよく使われているのだろう。さっそく、枯れ木を集めてたき火を焚いた。
洞穴は自然にできたものだろうか。蒸し暑い外とは異なり、中はひんやりと涼しかった。洞穴の奥には小さな穴がいくつもあって、その中には石棺が収められていた。どうやら、ここは墓場らしい。しかも、かなり古いもののようだ。
洞穴の入り口からは、闇夜の中で木々が青白く光っているように見える。枯れ木がパチパチと焼ける音以外は何も聞こえない。小春は、袋から葉包みを取り出すとそれを広げ、中の握り飯を頬張った。八角村で、千代からもらった弁当だ。
(千代さん達は今頃どのあたりだろうか)
小春は最初、一度は大府を見てみたいと考えていた。月影の件がなければ、桜雪らに同行していただろう。
(大府は大きい村だと聞いたが、かつての白魂とどちらの方が大きいのだろうか)
小春は白魂の地を思い出していた。幼い頃、よく一緒に遊んでいたある女の子がいた。いつも『さきちゃん』と呼んでいたが、本名は知らない。
村の子供達と遊ぶことはほとんどなかった小春だが、なぜかさきちゃんとは馬が合い、仲よくなれた。
二人とも、女の子とは思えないほどわんぱくで、よその家の木に登っては怒られたり、蜂の巣をつついてしまい大騒ぎになったりして、周りからは問題児扱いされていた。
冬になると白魂の地は深い雪に覆われる。家の屋根から飛び降りて雪に跡を付けて遊んでいた時、屋根から落ちてきた雪にさきちゃんが埋まってしまった。しばらくの間、さきちゃんには会わせてもらえず心配でたまらなかった。元気になった姿を見たときは、さきちゃんの前で大泣きしながら謝るしかなかった。
その時から、さきちゃんは外で駆け回って遊ぶことはしなくなった。でも、小春とは相変わらず仲よしで、家の中で折り紙を折ったり、人形遊びをして過ごしていた。
季節が巡り、さきちゃんは大きくなっていった。しかし、小春は子供のままだ。やがて、ある男の伴侶となり、それから一緒に遊ぶこともしなくなった。
さらに時が過ぎて、さきちゃんは年老いた。でも、小春はほんの少し大きくなったくらいだ。そして、さきちゃんは亡くなった。小春はその亡骸の前で泣くことしかできなかった。
人間と妖怪では寿命が全く異なる。人間は妖怪のように長く生きることはできない。そのことを理解したのは、この出来事がきっかけだ。以来、仲のいい友達を作ることを極力避けようとした。同じ悲しみをまた経験したくなかったのだ。
そのような生き方をしたのは失敗だったかも知れない。小春はだんだんと人から疎んじられるようになった。
小春はもう白魂に戻る気はなかった。もっとも、戻ろうとしても追い返されるのは分かっている。
(今は白魂はどうなっているのだろうか)
そんなことを考えているうちに小春は眠くなってきた。握り飯を食べ終わると、そのままごろんと横になって寝てしまった。
小春が目覚めたとき、まだ陽は上ったばかりだった。外は木々が陽の光を浴びて明るく輝いていた。たき火は消え、少し肌寒いくらいだ。大きく伸びをしながらあたりを見回す。陽の光は中まで届かず、奥の方は闇が広がっていた。
暗い洞穴の中で簡単な朝食をとり、小春は仙蛇の谷を目指して洞穴を後にした。
歩きだしてからそれほど経たないうちに、分かれ道にたどり着いた。丁字路になっていて、左に行けば仙蛇の谷へ続いているようだ。まっすぐ伸びる上り坂の道は幅が広く、周りの草木もきれいに刈られ整備されていたが、左の道は荷車が一台通るのがやっとというくらいの幅で、茂みに覆われて先が見通せないほどだった。
(こんなところを通るのか・・・)
小春はあきらめ顔で左の道へ進んだ。
道はずっと下り坂のようだ。轍がかすかに残っているので道がわからなくなることもなさそうだった。周りの草が、むき出しの腕や足に当たり、かゆくなる。朝からすでに蒸し暑い状態ではあったが、裾や袖の長い服を着ておけばよかったと小春は後悔した。
どれだけ進んだであろうか、また分かれ道に出た。まっすぐ進む道は大きく右の方へ曲がっている。左手にも道があり、南の向きにまっすぐ進んでいるようだ。
(ここは、直進でいいのか?)
標識などはどこにもない。小春はしばらくの間、思案していたが、やがて意を決して直進することにした。
道は右に大きく曲がった後、まっすぐに伸びていた。
(北の方へ進んでいるように思うのだが・・・)
少々不安になり、小春は足早に進み始めた。
道は上り坂になっていった。だんだんと茂みが深くなり、轍はもう見えない。気がつけば道は完全に消えていた。目の前は木の生えていない空き地が広がり、自分の背丈ほどもある草が一面を覆い尽くしていた。
(道を誤った・・・)
慌てて引き返し、今度は南向きの道を進む。しばらく歩くと、目の前に大きな沼が現れた。水は緑色に濁り、深さを測ることはできない。ひどい臭気に、小春は思わず顔をしかめた。
道は沼に沿って東西へ伸びているようだ。右手の方、西へ歩を進めた。
沼に住む妖怪と言えば大蛇が有名だろう。美女に化けて男を惑わす悪い大蛇が多いが、恵みの雨を降らせる水神様として人間に祀られているものも数は少ないが存在した。この沼にはかつて大蛇が住んでいたそうだ。沼の近くを通る旅人を襲い喰らっていたが、その噂を聞きつけた一人の若者に退治された。ところが、その大蛇はこの沼の主であった。主を失った沼にはたちまち生き物が住めなくなり、今では死の沼と化していた。この沼には、妖怪はおろか、虫の一匹たりとも住んではいない。当然、小春はそんな事は知らない。何者かが潜んでいないか、警戒しながら進んでいった。
さらに西へ進む道がないか探してみたが見当たらない。沼の反対側へぐるりと回ったところに、南に進む細い道があった。
(この道でいいのだろうか)
念のため沼を一周して、もと来た道に戻ってみたが、他には先程の南へ進む道しか見当たらない。
ここにいても仕方がないと考え、南に進むことにした。
道は急な下り坂になっていた。途中、岩場を下りなければならない場所にたどり着いたところで、小春は疑問を感じた。
(こんなところを荷車が通れるはずがない)
ここに来て、桜雪の言葉を思い出し、自分が見当違いの道を進んでいたのではないかと気づいた。
(確か、峠を西に、と言っていたな)
北へ伸びた道はまだ上り坂であった。峠には到達していなかったということだ。
(とにかく、いったん戻らねば)
小春は慌てて来た道を引き返した。陽は西の方へ傾いている。もうすぐ夕暮れとなるだろう。夜になればこのあたりは真っ暗になる。途中で野宿できるような場所はどこにもなかった。急いで戻らなければならない。
しかし、今度は上り坂が続くことになる。朝に軽く食べた後は何も口にせず、休憩もとらずに今まで歩いてきたので、疲労がかなり溜まり足がなかなか進まない。沼に着いた頃には空が茜色に染まっていた。水面は波ひとつ立たず、不気味に静まり返っている。沼の臭気に耐えながらここで一夜を過ごすか、夜の危険を覚悟で来た道を戻るか、小春は決断しなければならなかった。
(仕方がない。ここで野宿するか)
小春は腹をくくり、できるだけ臭いのしない場所を探すことにした。
森神村を出てから数日が経った。月影は、山間の道を一人で歩いていた。
月影は、小春と闘うつもりでいた。闘いに勝ち、小春の持つ刀を奪うことが目的だった。
(まさか、炎坊に打ち勝つとはな)
炎獄童子の強さは月影もよく知っていた。それを打ち破ったのである。油断できないと月影は思った。
(旅をする中でよほど修行したと見える)
月影は笑みを浮かべた。
月影が剣生に初めて弟子入りを志願した時は間髪入れずに断られた。何度行ってみても同じ扱いをされたが、月影はあきらめなかった。
通い始めてから何回めだっただろうか。初めて小春の姿を見た。それまで子供がいるなどとは思ってもいなかったが、後で聞いた話では、いつもは一人で野山を駆け回っていたらしい。汚れた服を着て、長い髪は後ろで束ねてしっぽのように垂らしている。琥珀のような瞳で、こちらをじっと見据えていた。
「剣生殿はご在宅かな?」
小春の目線に合わせて腰をかがめ、尋ねてみた。
しかし、小春はそっぽを向いて家の中に入ってしまった。
(人見知りかな?)
そう思っていると、剣生の手を引いて小春が戻ってきた。
「この人が剣生だよ」
無表情のまま小春はそう言った。
「ありがとう、わざわざ呼んできてくれたんだね」
月影にそう話しかけられ、小春は下を向いたまま、家の中に戻っていった。
「ふふ、あの子に気に入られたようだな」
剣生が月影に話し掛けた。
「そうでしょうか?」
月影が、とても気に入られているとは思えないと言いたげな顔で尋ねる。
「いつもなら、人が来れば奥に引きこもってしまうからな。まさか、私を連れて出ようとするとは驚いたな」
剣生は、家の方に目を遣って何か思案していたが、やがて月影に告げた。
「これから、あの子の面倒を見てやってくれないか。私もほとほと手を焼いていたところだ。もし、そうしてくれるなら私も助かる。それを条件に弟子入りを許可しようじゃないか」
思えば、小春のおかげで弟子入りができたことになる。
しかし、それからの小春の世話は想像以上に大変だった。
とにかく、じっとすることができない子だった。家にいるのはご飯を食べるときと寝るときくらいで、あとは白魂の中を所狭しと暴れまわっていた。鬼のせいで遊ぶ場所が制限されることで、余計に鬱憤が溜まるのだろう。他人の家の屋根に勝手に登って走り回ったり、収穫する前の木の実を勝手に食べてしまったり、他の子供たちを相手に派手な喧嘩をしたこともあった。その度に月影は頭を下げに家々を回ったのだ。
しかし、月影は小春を叱らなかった。叱るのは剣生の役目だった。その間、いつも小春は下を向いて黙っている。その顔は不満げで、悲しそうにも見えた。
何度も季節が巡って、小春はだいぶ月影に心を開くようになった。
ある日、小春は一枚の櫛を月影に見せてくれた。
「これは私の母さんの形見なんだ」
「そうか。小春のお母さんはどんな人だったんだい?」
そう尋ねると、小春は下を向いてしまった。
「わからない。ずっと昔に死んじゃったから」
物心がついた頃には、母親はこの世を去っていたらしい。小春の母親ということは剣生の伴侶だったことになる。月影はそれが誰か気になった。
「この間、小春に母親の形見の櫛を見せてもらいました」
ある日、月影が剣生にそう話してみたが、剣生は
「そうか」
と返事をしただけだった。
「小春の母親はどんな方だったのですか?」
剣生は月影の顔をじっと見て答えた。
「分からない」
月影には剣生の言葉が理解できなかった。月影の顔を見て察したのか、剣生は言葉を続けた。
「これは小春には内緒にしてほしいのだが・・・」
「わかりました」
「小春は私の子ではないんだよ」
月影は驚いた顔で剣生を見つめた。
「遠い昔、赤ん坊の小春を養女として引き取ったんだ。母親はそのときすでにいなかった」
「そうでしたか・・・」
それ以上、小春の生い立ちについて聞くことはできなかった。
今、小春は剣生の言い付けに従って大刀を持ち、鬼を退治して回っている。小春の出生に刀が関係しているのかどうか、月影は分からなかった。
しかし、そんな事はどうでもよかった。小春の手から刀を奪うことさえできれば、月影の目的は達成される。そのためには手段を選ぶつもりはなかった。
月影が考えごとをやめた時、いつの間にかあたりが暗くなっていることに気づいた。
(そろそろ野宿する場所を探すか)
月影は周囲を見回しながら歩を進めた。
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