第12話 それぞれの別れ
小春が目を覚ましたのは、もう昼過ぎになった頃だ。
裸のまま眠ってしまっていたことに気づき、慌てて替えの着物を羽織った。
昨夜の蜘蛛の巣を見ると、あの哀れな蛾は干からびた姿になっていた。蜘蛛に養分を吸いつくされたようだ。
すぐそばで、蜘蛛がじっと次の獲物を待っている。
小春は急に空腹を覚えた。すぐに調理を始めて食事をとってから、夕夏の容体を見に外へ出かけた。
灰色の空から霧雨が降っている。遠くの山々は白く霞んで、その頂上は雲に覆われていた。
雨のせいか、外には人がほとんどいない。もう埋葬されたのだろうか、広場にあった遺体はすでになかった。
与一の家に入る。与一はまだ夕夏のそばを離れていなかった。
そばに二人の男女が座り、夕夏の様子を見ていた。小春に気づくと少し驚いた顔をしたが、軽く会釈をしてから、二人とも再び夕夏に視線を移した。夕夏の両親だろう。沈痛な面持ちで夕夏の顔を眺めている。
「与一さん、もしかして休んでないのかい?」
与一は返事をしない。
「少し休んだ方がいい。私が交代するから」
「大丈夫だ。心配要らないよ」
「無理したら自分も倒れてしまうよ」
与一は動こうとしなかった。
小春はそれ以上は何も言わず、夕夏の近くに座った。
夕夏の顔は青白く、痛みがあるのかときどき表情をゆがめる。
「小春さんは怪我はなかったのかい?」
与一が口を開いた。
「ああ、大丈夫だ」
「そうか」
しばらくして
「『鬼の涙』はまだ持っているのかい?」
と与一は問いかけてきた。
「持っているよ」
「悪いことは言わねえ。できるだけ早く手放した方がいい」
「この石が災いを招いたと思っているのか?」
「今は信じてるよ。あれのせいで村は盗賊に狙われた。作次郎は罪を背負い、最後には気が狂ってしまった。もしかしたら、鬼が出たのもあれのせいかも知れない」
「それは考え過ぎだろう」
「あの石を拾わなければ、こんな悲しい目には遭わなくて済んだのに」
「もし、あれがあんたに拾うよう仕向けたんだったら、逃れようはなかったのさ。あんたが悪いんじゃない、あの石が悪いんだ」
与一は黙っていた。
小春は諭すように言った。
「与一さん、今のあんたには睡眠が必要だ。少し寝て頭を冷やしたらどうだい」
与一は小春の顔をじっと見つめた。目が赤いのは、ずっと寝ていないからか。もしかしたら、泣いていたからなのかも知れない。
「わかった、少し眠ることにするよ。小春さん、しばらく頼む」
夕夏の両親にも一言断ると、与一は少し離れた場所でごろりと横になった。
夕夏の容体は悪化する一方だった。高熱が出てうなされる毎日が続き、食事もろくに取ることができない。体は衰弱し、顔が目に見えてやつれてしまった。
与一や小春、夕夏の両親、時には勝爺も加わり、懸命な看病が続いた。
しかし、その甲斐もなく、回復する兆しは全く見られなかった。
そんなある日のことである。
その日は与一が一人で夕夏の看病をしていた。相変わらず熱は下がらず、夕夏は苦しそうな表情で目を閉じていた。
与一が様子を見ていると、夕夏はゆっくりと目を開けて与一の方を向いた。
「水をくれないか」
与一が水を入れた器を夕夏の口元に近づけ少しずつ水を流し込む。
「どうだ、少しは楽になったか」
「ああ、そうだな」
夕夏は与一に顔を向けたまま
「すまないね」
と小さな声でつぶやいた。
「謝るのは俺の方だろ。お前のおかげで俺は命拾いしたんだ」
夕夏はその言葉を聞いて微笑んだ。
その顔をじっと眺めていた与一は、何かを決断したような顔で
「なあ、夕夏」
と呼びかけた。
「お前が傷を負った時、俺はひどく取り乱してしまった。最初はなぜだか分からなかったんだが、今になってようやく理解できたんだ。ずっといっしょにいて、それが当たり前の様になっていたから、今まで気づかなかったんだが」
いったん話をやめて、夕夏の目をじっと見つめる。
「俺はお前のことが好きだ。俺の伴侶になってくれないか」
夕夏の目が少し見開き、視線が泳いだ。目を閉じて真正面を向いたまま返事をしない。
「こんな時に言うことではないな。ごめんな」
「別に謝らなくてもいいよ」
「まあ、気にしないでくれ。まずは体を治さないとな」
そう言いながら、与一は手に持った器を床に置いた。
「小春ちゃんのことはもういいのかい?」
「振られたって言っただろ」
「じゃあ、私はその代わりかい?」
夕夏は不服そうに尋ねたが、顔には笑みを浮かべていた。
「いや、それは違う」
「何が違うのさ」
「前にも言っただろ。小春さんに抱いてたのは恋心じゃなかったって」
「それも恋だったんだよ」
「そうかな?」
「そうだよ」
しばらく二人とも黙っていた。
気が付くと、外から雨の降る音が聞こえる。
「何か食べた方がいいぞ」
与一が口を開いた。
「そうだね」
「よし、お粥を炊くから少し待ってくれ」
与一が台所に入り調理をしている間、夕夏は一人、目を閉じて涙を流していた。
与一がお粥を運んできた。匙に掬い、息を吹きかけ冷ましては夕夏の口に運ぶ。
しかし、夕夏はほんの少しお粥を口にすると
「もう満足だ」
と言って、それ以上は食べようとしなかった。
「できるだけたくさん食べるようにした方がいい。治るものも治らなくなる」
与一が嗜めるが、夕夏は微笑みながら
「これでも無理して食べてるんだよ」
と応えた。
「そうか。じゃあ、また食べたくなったら声を掛けるといい」
与一はそう言って、手拭いで夕夏の口の周りを拭ってあげた。
夕夏は目を閉じていたが、ふと目を開けて与一を見つめると
「ねえ、さっきの話だけどさ」
と話を始めた。与一も夕夏の顔を見つめる。
「私なんかで本当にいいのかい?」
と尋ねる夕夏に与一は
「お前こそ、俺から告白されても嬉しくないんじゃないか?」
と聞き返した。夕夏は与一の顔をじっと見つめたまま笑みを浮かべて言った。
「馬鹿だねえ。嬉しいに決まってるじゃないか」
しばらくの間、二人は見つめ合っていたが、やがて与一が夕夏の方へ顔を近づけていった。そして二人は初めての口づけを交わした。
それから数日後、夕夏は静かに息を引き取った。
そのときも、与一が傍らにいて様子を見ていた。もはや食事は一切受け付けなくなっていた。目を開けることもほとんどない。
しかし、ふと目を覚ますと、与一の方へ顔を向けた。
「与一、お願いがあるんだ」
もう視線も定まらない。布団から差し出す手を、与一は両手で握りしめた。
「どうした、水か?」
「いや、そうじゃないんだ」
「なんでも用意するから言ってごらん」
「・・・私が死んだら・・・妹の・・・小春の隣に埋めておくれ」
与一は、その言葉を聞いて怖くなった。夕夏がいなくなってしまうことに対する恐怖だった。
「馬鹿なことを言うな。そんな弱音を吐くなんて、お前らしくないぞ」
「いや、自分の体のことだ。自分が一番よくわかるよ。私はもう長くはない」
与一は、どうしていいか分からず、ただ夕夏の顔を見つめるだけだった。
「なあ、与一。私のことは気にしなくていい。誰か他のいい人を見つけておくれ」
「いやだ。俺にはお前だけだ」
夕夏は目をゆっくりと閉じた。与一の手を夕夏の手が強く握りしめる。
「・・・ありがとう。私は幸せだよ」
小さな声でそうつぶやいた瞬間、握りしめていた夕夏の手が急に力を失った。
与一はしばらく動くことができなかった。やがて、大粒の涙を落としながら、自分の口元に夕夏の手を引き寄せた。
夕夏の遺体は、その日のうちに墓に埋められた。その場所は夕夏の願い通り、妹の墓の隣だった。
「夕夏には妹がいたんだ。小さい頃に病気で亡くなったが、その子の名前も小春だった」
与一が、夕夏の墓標をじっと見つめる小春にそう告げた。
「同じ名前の小春さんを見て、本当に妹が帰ってきたように感じていたんだろうな」
与一の言葉を聞いて
「今頃は、本当の妹さんに会えているかも知れないな」
と小春が小さな声で言った。
穏やかな風が通り過ぎる中、二人は長い間、夕夏の墓の前に立ち尽くしていた。やがて小春は与一の方を見て
「そろそろこの村を離れようと思う」
と告げた。
夕夏が怪我を負ってから、小春は夕夏の家を一人で利用していた。
与一をはじめ、隣人たちからもいろいろな差し入れがあり、暮らしていくことに不自由はなかった。
しかし、そろそろ旅を再開しなければならないと小春は考えていた。
それができない理由は二つあった。一つは夕夏のこと、もう一つは桃香のことだった。
あの事件の後、小春は何度か桃香の家に足を運んだ。
しかし、桃香は家に籠ったまま、外に出ようとしないらしい。
夕夏が亡くなった日の翌日のことである。小春は桃香の家に出向き、両親に伝えた。
「ももちゃんに伝えてほしい。『私は明日、村を出ることにした。さようなら』と」
その日の夜、袋の中に必要なものをまとめていると、戸を叩く者がいた。
「どうぞ」
戸を開けたのは与一だった。
「旅の準備かい?」
「ああ、明日は早めに出発するつもりだからな」
「報酬の件だが、本当に要らないのか?」
「差し入れだけで報酬分はもらったからね。これ以上荷物は持てないよ」
そう言いながら、小春は手際よく袋に物を詰め込んでゆく。
「小春さんがいなくなると、なんだか寂しくなるな」
「でも、村は平和になったんだ。元通りの生活ができるじゃないか」
「しかし、あまりにも犠牲が多すぎた。元通りという訳にはいかないよ」
小春の手が止まった。
「そうだな。すまない」
「いや、気にしないでくれ」
与一は話題を変えた。
「ももちゃんには会えたのかい?」
「いや、だめだったよ」
「そうか、よほど怖かったのか」
「仕方ないさ。悪人とは言え、人を斬るところを見られたんだ。普通の子供なら怖くて近寄らないよ」
「別に小春さんのことを怖がってるわけじゃあないと思うけどな。もうしばらくすれば会ってくれるんじゃないかな?」
「どうだろうか。でも、いつか目的を果たしたら、またここに来るさ。その時には会ってくれると信じてるよ」
そう言った後、小春は与一の顔をじっと見つめて話を続けた。
「盗賊は始末できたけど、鬼の件はまだ解決していない。これからも用心はした方がいい」
「ああ、分かってる」
与一はうなずいた後、少しためらいがちに
「正直に言うと、小春さんがこの村に残ってくれると嬉しいんだけどな」
と言った。それを聞いた小春は
「悪いが、父親を見つけるまでは、旅を止めるわけにはいかないんだ」
と言葉を返し、また荷物を整理し始めた。
翌朝、村の広場には多くの村人が集まった。
小春は大刀と荷物を背負い、村人の前に進み出た。
「皆、今までありがとう」
と小春が一言だけ発した後、与一が代表として挨拶した。
「小春さんのおかげで村は救われた。いくら感謝しても足りないくらいだ。また、近くに来た時は是非ここを訪れてくれ」
その言葉に、小春は軽くうなずいた後、視線を村人全員に向けた。
桃香の姿はない。
村人たちに背を向け、歩き出そうとした時である。
「待って!」
という声に小春は振り向いた。
母親に連れられ、桃香が近付いてくる。桃香が走り出すと、小春は思わず叫んだ。
「ももちゃん!」
膝を突いて両手を大きく広げた小春は、飛び込んできた桃香を力いっぱい抱きしめた。
その目に涙があふれる。
「行かないで、小春お姉ちゃん」
桃香の言葉に
「ごめんね」
と返すことしかできなかった。
「また会える?」
「うん、約束する」
「わかった、それまで待ってる」
桃香の右手には、シロツメクサの葉が握りしめられていた。それは四つ葉であった。
小春が去ってからすぐに、森陰村から応援に来た者達の帰る日が決められた。
鬼が現れてからすでに二ヶ月近く経っている。もう安全なはずなのだが、絶対に、と言われると自信がない。
しかし、いつまでも帰らないわけにはいかない。
応援者は、半数が盗賊たちの餌食となってしまった。村の代表である勝爺の他に、与一も同行することになった。
まだ『鬼の涙』に対して責任を感じている与一は、自ら志願したのだ。
村の者が見守る中、与一らは朝に村を出発した。
森に入ってからしばらくは全員が緊張した面持ちで歩いていた。
途中、空き地に出たが、そこには何もいない。
その後も何事もなく、行進は順調に続いた。
夜になって森陰村に到着すると、応援者は皆、各々の家に帰っていった。
しかし、勝爺と与一にはまだ仕事が残っていた。
まず、森陰村の代表に状況を報告しなければならない。
犠牲となった者達の家族に会い、亡くなったことを告げる仕事もある。
与一にとって特に辛かったのは、作次郎の両親への報告だ。
作次郎が夕夏の家を襲撃したことは、すでに森神村中に知れ渡っていた。その後、盗賊らが全員討たれた時に作次郎も死んだことから、彼は気が触れて盗賊の一味になったと噂されるようになった。これらのことはすぐに森陰村にも広まっていくだろう。両親には知っている限りの真実を伝えるつもりだった。
この仕事は一番最後に回した。そして、その順番が回ってきた。
作次郎の両親に会い、与一は今までの出来事を順番に話した。
作次郎が『鬼の涙』という宝石を盗もうとしたこと。その罪を償うため、鬼の件を森陰村に伝える役を引き受けたこと。その後、夕夏の家を襲撃したこと。さらに盗賊に加担して、村を二度襲ったこと。そして、討伐され亡くなったこと。これらを包み隠さず話し終えると、両親は膝から崩れ落ちるようにその場に座り込み、手で顔を覆って涙を流した。
「作次郎がそんな大それたことをするとはとても思えません。おそらく、あの『鬼の涙』の魔力に取り憑かれたのだと俺は信じています」
与一がそう伝えると、作次郎の父親が尋ねた。
「その石はどうなったのですか?」
「もう村にはありません。旅の者に渡しました」
作次郎の母親が嗚咽をこらえつつ声を漏らした。
「どうしてこんなことに・・・」
「俺があんな石を拾ったのが悪いんです。厄災が降りかかると警告されたにもかかわらず捨てもしなかった。責任は俺にあります」
与一は、できる限りの償いをすると伝えたが、ただ石を拾っただけでこのような結果になるなどとは誰も想像できないだろうと両親はそれを断った。
また、森神村に戻る際、同行させてほしいとも申し出た。
翌朝、与一と勝爺は森神村へ出発した。
作次郎の両親だけではなく、他にもたくさんの遺族が同行することになった。
まずは、森の中にある、鬼に殺された三人の墓を目指して一行は歩き出した。
その日も何も起こらず、無事に目的地に到着すると、与一は墓のある方へ一行を導いた。
高台にある墓を見た瞬間、与一は驚いた顔で叫んだ。
「何ということだ・・・」
墓標として積んだ石は全て崩れていた。
そして、墓穴はことごとく掘り返され、その中にあったはずの遺体がなくなっていた。
一行は、それをただ呆然と眺めることしかできなかった。
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