第2話 赤い鬼と青い鬼

 皆、狐につままれたような顔をしていたが、やがて少女が発した言葉の意味を理解したらしく、近くの茂みに身を潜めた。

 少女は猿のような身のこなしで木を登り、あっという間に姿が見えなくなった。

 そのまま待機していたが、何者かが現れる気配はない。

 あたりは静まりかえっていた。だんだんと少女の言葉に疑いの感情を抱き始めた。

 やがて、隠れるのをやめた何人かがあたりを見渡した。その中にあの青年もいた。

 少女の姿はどこにも見えない。逃げたのだろうか。

 ふつふつとやり場のない怒りがこみ上げてくるのを感じながら、青年は鬼との死闘を繰り広げていた道のある方をふと見遣った。

 霧の中に黒い影を見た。髪の毛が逆立つような感覚を覚えた。足がすくみ動けない。

 鬼が現れた。しかも二体だ。

 青年はよろめくように地面に伏せた。青年のその姿を見て他の者も慌てて身を隠す。震えながら隠れる場所を探し、身を縮みこませて見つかっていないことを祈った。

 鬼は道沿いにゆっくりと歩いていた。姿が見えるまで足音は全くしなかったが、近づくに連れてズシンという音が響いてくるようになった。

 一体は右腕がない。最初に少女と闘ったあの鬼だ。血はまだ切断面からポタポタと落ち、地面にこぼれ落ちた血は瞬時に黒い煙と化して蒸発してしまった。左手に棍棒を握りしめている。自分の右腕からもぎ取ったのか、それとも新たに用意したものなのか、それはわからない。

 そのすぐ後ろに別の鬼がいた。しかし、今までのものとは様子が違う。手には何も持っていない。目はやはり一つだけだが、角は見当たらなかった。その代わり、額に紫水晶のような大きな石が埋め込まれている。これが角なのだろうか。姿はまるで七福神の布袋さんのようだ。大きな丸い腹を抱え、短い足をひょこひょこと動かしながら歩く様はある意味滑稽ではあった。そして最も大きな違いは、まるでペンキで全身をボディ・ペインティングでもしたかのように、皮膚の色が真っ青だということだ。

 赤い鬼と青い鬼が、だんだんとこちらに近づいてきた。

 それを見ている余裕のある者はほとんどいなかった。目をつむり、できるだけ体が小さくなるように膝を抱え込み、頭を下に向けてただ鬼が通り過ぎてくれることを祈った。

 しかし、青年はなんとか頭を持ち上げて鬼の動向を観察していた。片腕の赤鬼を見て、それが、少女が取り逃がしたと言っていた奴であることに気づいた。

(あの子の言うとおりだった)

 仲間を引き連れて鬼がやって来た。彼女の言葉を信じていれば危険は回避できたかもしれない。青年は後悔した。

 しかし、今は見つかっていないことを祈りつつ、このままやり過ごすしかない。早くこの時間が過ぎてくれればと青年は思った。

 皆が隠れている場所は道から少し離れた高台だった。その高台に最も近い位置で二体の鬼が突然行進をやめた。あたりが静まり返る。

(だめだ、隠れていることがばれている)

 誰もがそう思った。

 青鬼が高台の方に視線を向けた。墓標が三つ、その目に入った。

「隠れているのはわかっている」

 なんと青鬼が言葉を発した。肌の色が青い鬼など聞いたこともなかったが、その上言葉を話したことに青年は驚いた。

 鬼は続けた。

「こやつの腕を切り落とした輩がいるだろう。そいつの武器を取り上げてここに差し出せ。そうすれば他の者は助けてやる」

 何の話をしているのか、皆はじめは理解できなかった。やがて、あの少女の仕業ではないかと誰もが考え始めた。本人に確認すればすぐに分かる話だ。しかし、少女はどこにいるかわからない。いずれにしても、姿を現してくれと誰もが願った。たとえ鬼を倒すことができなくても、彼女が鬼の慰みものとなれば満足して帰って行くかもしれない。よそ者に同情など必要ない。贄となってくれ。そんなことを考える者もいた。

 皆、為す術がなかった。少女も姿を表さない。

 二体の鬼は石像のように微動だにしない。人間が隠れていることはすでに気配でわかっていた。しかし、鬼の片腕をたやすく落としてしまうような手練がいるのだ。不意打ちされれば自分の方が危うい。鬼は不用意には動かなかった。

 しばらく待ったが、何も動く気配がないのを見て青鬼が決心した。

「出てこぬなら」

 そう言って、青鬼は右手の掌を上にして何かを載せているような仕草を見せた。

 すると、その掌に大きな火の玉が現れた。

 溶岩が固まってできたようなその玉はあたりの霧を蒸発させて白い湯気をもうもうと立ち上げた。

 それを墓のあるあたりに投げつけようとした瞬間、何者かが頭上にいる気配に青鬼が気づいた。

 火の玉は地面ではなく頭上にある木々に向かって放たれた。白い湯気が火の玉の軌跡を描きながら伸びてゆく。火の玉は枝を何本も焼き払い、やがて爆発した。

 大量の火の粉とともに枝がバサバサと落ちてくる。その一本が赤鬼に当たった。

 赤鬼の頭が左右に分かれた。当たったのは枝などではなく、あの少女が振り下ろした一刀であった。

 両手で刀を持ち、鬼の体に押さえつけるようにしながら落下すると、たちまち赤鬼の体は左右に切り裂かれてしまった。

 着地すると同時に一足飛びにその場から離れて青鬼と距離をとった。隠れている者達をかばうように、青鬼の方に刀を向けて対峙する。

 まさに間一髪だった。

 少女は、青鬼が火の玉を放とうとするのを見て、それを阻止するために青鬼を切るつもりでいた。

 それを悟られ、火の玉がこちらに飛んできたときはさすがに少女も驚いた。すんでのところで枝から飛び跳ねると、自分のすぐ横を火の玉がかすめ飛んでいく。

 頭上で爆発音がした。枝とともに下側に吹き飛ばされながらも、ムササビのごとく体のバランスをとり、赤鬼をすぐ下に見つけると標的をそちらに切り替えた。

 赤鬼は何が起こったのかも気づかないまま倒されてしまった。やがて、黒い煙とともに、二つに裂かれた赤鬼の体が消失するのを見届けると、青鬼はゆっくりと少女の方に顔を向けた。

「貴様が・・・」

 青鬼がつぶやいた。鬼を斬り殺すような人間がまさかこんな小さな女であるとは思いもしなかった。自分に向けられた刀をじっと見つめる。ふと、なにかに気づいたような表情になった。

 鬼はそのまま動かなくなった。

 少女は次の一手を出せずにいた。

 相手は丸腰だ。あの火の玉はやっかいだが、それを作り出すまでには少しの間がある。倒すなら今だろう。そう思いながら、不用意に近づくのが非常に危険だと直感が知らせてきた。

 青鬼を相手にするのは初めてだった。かなり危険な輩だと話には聞いていたが、今まで遭遇すらしたことがなかった。どんな能力を持っているのかもほとんど知らない。

 少女が躊躇しているのを悟ったのか、青鬼は行動に出た。両腕を上に掲げると、掌からたちまち湯気が上った。今度は火の玉を二つ同時にぶつけてくるつもりだ。

(あの女はどうするか)

 大木の影にでも隠れれば少女はなんとか助かるかもしれない。しかし背後には隠れている人間たちがいる。鬼は、おそらく火の玉が放たれる前に決着をつけようとするだろうと考えた。少女は鬼のいる方へ飛んでくるに違いない。近づいてきたところを、この青鬼が持つ必殺の術で仕留めるつもりでいた。

 果たして、少女は焦りの仕草を見せてこちらに向かってきた。

(思った通りだ)

 青鬼は勝利を確信した。

(跡形もなく燃やし尽くしてやる)

 鬼が術に入ろうとしたところで思わぬ伏兵から攻撃を受けた。青年が放った一本の矢が自分の目に向かって飛んでくることに全く気づかなかった。それは見事に瞳の中央を貫き、鬼は瞬時に視界を失った。

 鬼が思わず後ずさると、少女は何事かと立ち止まって相手の方を見た。鬼の目に一本の矢が突き刺さっているのを認め、これを勝機と少女が飛びかかろうとするのと、不意打ちに慌てふためいて鬼が術を仕掛けたのがほぼ同時だった。

 鬼の前に漆黒の炎が巻き上がった。

 少女はあやうくその中に飛び込むところだった。すぐに目の前の炎から離れると、呆然とそれを眺めていた。

 炎の壁は高くそびえ立ち、向こう側にいる鬼を灰色の光で照らしていた。炎は熱くはなかったが、その中に入ればただでは済まないことは火を見るより明らかだ。

 鬼は両手に顔を埋めている。相手を倒す絶好の機会なのに、炎のせいで容易に近づけない。

 やがて、鬼の体から黒い煙が立ち上がった。それは瞬く間に鬼の体を包み込み、そのまますうっと消え去った。地獄の業火を思わせる黒い炎も同時になくなり、あたりに静けさが戻った。

 少女は、鬼が消え去ったのをただじっと眺めていた。

 矢が射られなければ、少女はあの炎に焼かれて死んでいただろう。少女は命拾いしたと思った。今になって、体が少し震えるのを感じた。

 今までの出来事を順に思い出していた。あの棍棒の一撃が避けられなければ、火の玉から逃げることができなければ、やはり命を落としていただろう。

 三体もの鬼が現れた。しかも一体は青鬼だ。生きていることが奇跡だとしか思えなかった。震えを抑えようと少女は大きく深呼吸した。

 少し落ち着いたところにあの青年が現れた。

「おい、大丈夫か?」

「・・・ありがとう。助かった」

 彼女は静かな声で答えた。

「礼を言うのはこちらの方だ。疑って済まなかった」

 少女が何も言わないのを見て青年は続けた。

「あの青い鬼はなんだ? 聞いたこともない」

「遭ったのは私も初めてだ。怪力だけが取り柄の奴らとは違う。怪しげな術が使えるそうだ」

「あの火の玉がそうか」

「私が聞いたことがあるのは雷を操るやつだ。もっとも、本当かどうかはわからない。そんなのに出くわしたら生きて帰ることなど無理だろう」

「・・・我々は運がよかったのか?」

「そのとおりだ」

 彼女は青年の目を見てそう言った。


 月がいつの間にか雲に隠されていた。紺色のベールに包まれたように暗い森の中をポツポツと雨が降り出すと、あらゆるものが霞んでしまい、もはや道がどこにあるか判別ができない。

 こんな中を歩くのは非常に危険だ。はぐれる者が出るかもしれないし、道に迷う可能性もある。話し合いの結果、夜が明けるまでここに留まることにした。

 あの鬼がまた仲間を引き連れて戻ってくる可能性は大いにあるが、もしそうならどこに隠れようとも逃れる術はない。

 今は、あの少女がいることを誰もが心強く思っていた。あの青年が今までの経緯を皆に説明したことで彼女への疑いは晴れた。何より、あの青鬼の攻撃を身を挺して防ごうとしたのだ。今まで信用しなかったことに皆は自責の念を抱いた。

 少女は少し離れた岩場に座り込み、道のある方を監視しているようだ。頭には頭巾をかぶり、どんな顔をしているのかはわからない。その姿を遠目に見つつ、各々は雨露が防げそうな場所を探してつかの間の休息をとった。


 雨に濡れながら少女は考えていた。

(なぜ、あの時逃げなかったのだろう)

 思えば、青鬼と人間の間に位置を変えたのは失策だった。あの火の玉が放たれていたら多数の犠牲者が出ただろう。それでも、自分だけなら避ける手があったはずだ。しかし、青鬼の行動に気が焦って命を失いかねない大失態を犯した。自分を信用しなかった連中だ。死んでしまってもどうということはない。そう思っていたはずなのに、あのときは皆を守ろうと必死だった。

(なぜだろう)

 用心棒として雇われたからには、雇い主を守るのは当然のことだ。プロとしての矜持があったのか。いや、そんなものではない。自己犠牲の精神などというものも持ち合わせてはいない。

 少女はもう答えがわかっていた。悔しかったのだ。皆に誤解されたままでいることが耐えられなかった。役に立たないと思われることがつらかった。あの蔑むような視線を浴びるのはもう嫌だ。ただ見返してやりたかった。それだけだった。

 それは果たすことができたが、死んでしまっては元も子もない。あの黒い炎を見た瞬間、カッとなっていた頭が一気に凍りついたように感じた。自分の無謀さを反省した。

(闘いは常に冷静に)

 師の言葉を思い出していた。


 ふと気づくと近くにあの青年が立っていた。衣服がある程度雨を弾いてくれるようだが、傘をつけていないので頭はずぶ濡れだ。

「休まなくても大丈夫なのか?」

 青年が言葉をかけた。

「心配ない」

 少女が答える。

「少し隣いいかな?」

 少女は少し間をおいた後に軽くうなずいた。

 それを見て青年は、真横ではなく少し後ろに下がったところに腰掛けた。照れくさいのだろうか。

「今まで、鬼は必ず一体しか現れないものだと思っていた」

「たいていは単独行動だ。でも、一体だけとは限らない。不利になると仲間を呼ぶことだってある」

「一度にたくさんと闘ったこともあるのか?」

「三体と遭遇したことがある。その時はいったん逃げた。各個撃破が基本だ」

「なるほど・・・」

 少し間があって、今度は少女が話しかけた。

「鬼の目を射抜くとは、すばらしい腕前だな」

 青年の弓の腕前は村一番だと誰もが認めていた。倒れ込みながら素早く矢を射ることができたのも、鬼の目に見事に命中させることができたのも、その高い技術があってのことなのだろう。しかし、青年は謙遜した。

「いや、やはり運もあったのだろう。鬼にやられて背中を思いっきりぶつけてなあ。うまく矢が射れるか自信がなかった」

 そう言いながら、青年は少女の後ろ姿をふと見つめた。

 背中にはあの大刀がぶら下がっていた。両肩に、白い大理石のような光沢の輪が見える。輪はたすきのように見えるが、左右で一本ずつあるようだ。左右の輪は、同じような材質の平たい板でつながっていた。その板に治具があって刀を留めているのだが、どんな構造になっているのかはわからない。

 刀の柄も純白で、装飾などの類は見当たらないが、少し反りがあって美しい形をしていた。鍔はなく、刃をはめ込むためのはばきも見当たらない。まるで柄と刃が一体化しているように見えた。

 刃にも反りがあって、見た目は日本刀だ。刃紋が鮮やかに浮かび上がり、腰の下まで伸びた刃の切先へときれいに波打っていた。

 青年はふと妙な感覚に襲われた。よく見ると、これだけの雨にもかかわらず刃の部分には水滴が少しも付いていない。水を弾いているのか。

 そういえば、あれだけ鬼を切ったというのに欠けどころか汚れ一つ見当たらない。よほどの名刀なのだろう。

 いや、妙な感覚はそこから来ているのではなかった。刀をじっと見ていると、まるでそれが生きているような錯覚を覚えた。息遣いや心臓の鼓動まで聞こえるようで、青年は少し寒気を覚えた。

「どうした?」

 ふと我に返ると、少女が青年の顔を訝しげに見つめていた。暗がりの中で輝く美しい少女の目に吸い込まれるような感じがして、青年は慌てて前を向いて答えた。

「いや、立派な刀だなと見とれていた」

「これか? 大事な師の形見だ」

(そうか、師を亡くして一人で鬼を討伐しているのか)

 青年はそう思った。

「一人で大変じゃないのか?」

「もう、慣れた」

 少女は答えた。

 青年はもう一度少女の方を見た。少女は膝を抱えて前を向いて座っている。顔は頭巾のせいで見えない。か細い腕や足が雨に濡れてわずかに光沢を放っていた。ついさっきまで鬼と死闘を繰り広げた者には見えなかった。一人の、そのままではすぐに消え去ってしまいそうな、儚げな女性の姿がそこにはあった。

 青年は言った。

「我々の村で暮らす気はないか?」

 答えがないのでさらに続けた。

「あんたのような強い者が村にいれば我々としてもかなり安心できる。食い扶持なら心配はない。なんなら俺が面倒を見よう」

 この男、プロポーズのつもりだろうか? 言い終わると、顔を前の方に向けて強張った表情で動かなくなった。

 それに気づいたのかどうか定かではないが、少女はうつむいて答えた。

「それはできない。私には目的がある」

「そうか・・・」

 青年は気が抜けたような小さな声でそう言った。

 少し間をおいて青年が続けた。

「どんな目的なんだ?」

 少女が答えた。

「父親を探している」


 夜が明けた。

 雨は止んだものの、空はどんよりと曇っていた。霧は相変わらずあたりの視界を遮っている。

 少し肌寒く感じるが、耐えられないというほどのものではない。もっとも、防寒着など持ち合わせていないのでどうしようもない。

 地面に熱を奪われ、疲労も相まって体が凝り固まったようになっていた。それをほぐしながら、各々が間に合わせの食事をとる。

 何事もなければ、夕方までには到着するだろう。出発したのは昨日の昼だ。なんだか遠い昔のような気がした。

 少女は夜を徹して見張っていたようだ。青年はそのままいっしょに座っていたが、いつの間にか眠ってしまっていた。目が覚めたとき、夜に見たときと変わらない姿勢で座っている彼女が見えた。

「すまない、眠ってしまったようだ」

「構わんよ。これも仕事のうちだ」

 皆が出立の準備をしているのを見ながら青年が言った。

「鬼は現れなかったな。もう大丈夫かな?」

「まだわからんさ」

 少女は無表情なまま答える。

「この道はもう使わない方がいいのか?」

「鬼は同じ場所に留まることはない。一ヶ月くらい経てば、当分の間は安全だろう」

「あの青鬼が復讐しに来ることはないかな?」

「鬼にそんな感情はない。ただ目の前にあるものを殺すことに興味があるだけだ。だが・・・」

 少し考えて少女は答えた。

「あの青鬼の場合はわからんな。用心はしておいたほうがいいだろう」

「用心か・・・」

 これからどうするか、村に戻ったらすぐにでも話し合って決めなければなるまい。困ったことになったと青年は思った。いや、今は村に無事に到着することが先決だと気持ちを切り替えた。まだ、鬼が出てこないと決まったわけではないのだ。グズグズしていられない。そう考えながら、ふと少女の背中を見て思わず叫んだ。

「おまえ、その背中・・・」

 なぜ、昨夜は気が付かなかったのだろうか。闇夜が隠していたのか、刀に目を奪われていたからか。

 衣服の背中の部分が黒く焦げていた。穴が空いているようだ。肌が露出して赤黒く焼けただれている。

 全く意に介していないかのように少女は答えた。

「火の玉にやられた。大したことはない。じきに治る」

 あの火の玉の爆発で負傷していたのだ。なぜ教えてくれなかったのか。しかし、あいにく火傷に効く薬は手元にない。

「とにかく、村に着いたら治療しよう。火傷に効く膏薬があったはずだ」

「放っておけば治る。それよりも報酬の件、忘れないでくれ。鬼は倒したんだから」

 自分の体よりも報酬の方が大事なのかと青年は思った。目を覆いたくなるほどのひどい火傷だ。跡が残るのは避けられそうにない。いや、下手すれば死んでいたかもしれない。強いことは認めるが、なぜこんな危険な稼業をしているのか青年には理解できなかった。恐怖というものを感じないのだろうか。

「わかっている。それよりも体の方が大事だろうが。急いで村に戻ろう。着いたらまずはその背中の治療だ」

 少女はそれ以上、言葉を返すことはせず、相変わらず無表情なままうつむいてしまった。


 昨夜の出来事が嘘であるかのように、この日の旅路は拍子抜けするほど順調だった。

 太陽が真上に来る頃には雲も少なくなり、重く澱んでいた霧も晴れてきた。木洩れ日が地面に複雑な模様を描き出している。木や土の香りがほのかに漂い、時々吹く風が肌に心地よかった。

 朝のうちは不安と緊張で押し黙っていた一行も、だいぶ安心したのか何人かは軽く言葉を交わしながら歩き続けた。

 その中で、最後尾を歩くあの少女は口を固く閉ざしたままだった。頭巾はもう外している。黒髪が陽の光を浴びる度に艶やかに輝いた。

 少女は、考え事をしていた。あの青鬼のことである。いずれまた相対することになるような予感がしていた。あの黒い炎の壁をどうするか。

 実は、少女にはとっておきの術があった。それを使っていれば、昨夜の闘いで青鬼を簡単に仕留められたかもしれない。なぜ、それに気づかなかったのか。

 あの黒い炎を見た瞬間、恐怖が心を満たしていたことを思い出した。

 思考が止まっていた。

 行動できなかった。

 師の最期の姿が頭をよぎった。

(あのときと同じだ。こんなことでは、いつか私も・・・)

「ここらで一休みしよう」

 青年の声がして我に返った。

 いつの間にか広い空き地に到着していた。ふっとため息をついて思った。昨日は運がよかったのか、それとも悪かったのか。


 最後の食料で昼食をとった。

 しかし、少女は朝から全く食事をしていなかった。そっぽを向いて石の上に腰掛けている。

 皆、それに気づいていたが、なんだか声を掛けづらい。

 青年が見かねて少し分けてやろうと立ち上がった時、女性の声が聞こえた。

「待ちなさい!」

 見ると、少女に近づく子供の姿があった。子供の母親がそれを制止しようとして叫んだらしい。子供は、手になにか持っている。

 少女がそれに気づいて振り向いた。

「これ、あげる」

 そう言って子供が差し出したのは、一掴みの炒り豆だった。

 少女は、それを見てから子供の顔に視線を移した。可愛らしい顔をしている。少しはにかんでいるものの、その顔は笑っていた。髪は短く切りそろえていたので遠目ではわからなかったが、おそらくは女の子だろう。

「ありがとう」

 少女はそう言って手を差し伸べた。その顔は微笑んでいた。それは、初めて見せた笑顔だった。

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