第六章【大脱出!】
第33話 キィの気持ちは、変えられない
「キィ!」
裏返った悲鳴を上げたのは久野だった。
こーすけが弾かれたみたいに立ち上がって、壁に駆け寄る。たけるは一瞬反応が遅れたみたいだけど、すぐに転がるようにしてこーすけの後に続いた。
ガンッ!
鈍い音が、白い船内に響く。こーすけが〈マザー〉の光を殴りつけたんだ。
だけどもちろん、壁には傷ひとつついていない。こーすけはちっと舌打ちした。
ぼくは――
ぼくは、何も出来なかった。
久野もぼくの横を過ぎて、こーすけの元へ走っていく。壁を叩いて、キィの名前を呼んでいる。たけるは、床に落ちた鍵を拾って、それから壁を蹴りつけた。
だけどぼくは――何も、出来ない。動けない。
頭が熱くて、顔中の筋肉が引きつっているみたいだ。足がセメントで固められたみたいで、動かない。
「〈マザー〉! キィを出せや!」
こーすけの怒鳴り声に、〈マザー〉は反応しない。こーすけは苛立たしげにもう一度壁を殴りつけた。また、鈍い音が響く。
「ひろと!」
こーすけが怒鳴って振り返って来た。
なんだか、こーすけが遠くに見えた。
「何ぼーっとしてんねん! キィ、消えてまうかも知れんねで!」
走りよってきたこーすけが、ぼくの腕を掴んだ。イタズラが好きそうな、茶色の目が、いまは真剣な色に変わっている。ぼくと同じように、おでこに汗が浮かんでいて、髪がくっついている。そんなのをじっと観察してしまうくらい、ぼくは不思議と静かな気持ちだった。
「片瀬っ」
「ひろとぉ!」
久野と、たけるも叫んだ。だけどぼくはそれに応えられなかった。
汗が浮かんでいるこーすけの手を、振り払う。頭が、熱い。ぐらぐらした。
「……無理だよ」
ぼくの呟きに、振り払われた手を持て余して呆然としていたこーすけの顔色が変わった。
手に持っていたブレイブ・ボードを放り出して、ぼくはちいさく、言った。
「無理だよ。キィの気持ちは、変えられない」
「――ッ」
次の瞬間、左の頬に衝撃がきた。
体の中心がぶれて、そのまま床に転がる。床で打ち付けたヘルメットがじんっと鈍く響いて、頭の中をかき回した。
左の頬の熱さが痛みに変わったのは、その頃になってからだった。
「こーすけ! バカッ、何やってんの!?」
「アホはひろとや」
走りよってきてこーすけの手を掴んだ久野に、こーすけは冷たい言葉を吐いた。――ううん。久野にじゃない。ぼくにだ。
床に転がったまま、ぼくはこーすけを見上げた。
いつも持ち上がっているくちびるの端が、今は強張ったみたいに下向きになっている。
頬は熱かった。頭も。だけど、胸の奥は寒いくらいに思えた。
「何が無理やねん。お前、キィが消えてもええ言うんか。キィが消えてもうてもええんかよ!」
「そうじゃない」
「そう言ってるんと同じやろ!」
「違うッ!」
一気に、熱くなった。体中の血が沸騰したみたいに熱くなった。指先がしびれる。ぼくはその熱さを外に出すみたいに、大声で叫んで立ち上がっていた。
こーすけの胸倉をひっつかんで、引き寄せる。
「人の話きーてなかったのかよ、バカやろう! キィが消えてもいいなんて言ってねぇだろ!」
ほんの少し、こーすけのほうが身長が高い。こーすけの瞳を睨みつけながら、ぼくは叫んだ。
「消えて欲しくなんかない。だけど、逆だったらお前どう思う? キィがなんて言ったか思い出せよ! 逆だったら、ぼくたちが逆の立場だったら、どう思うんだよ!」
〝わたしはそんなのは、耐えられない。
あなたたちには、あなたたちとして、この星で――この町で、笑っていて欲しい〟
指先のしびれがひどくなって、ぼくはこーすけの胸元から手を解いた。ズボンにこすれて、小さく手が音を立てた。
「……同じじゃんか。ぼくたちがキィに消えてもらいたくないのは、キィがキィでいて欲しいからだろ。バグだってなんだっていいから、キィにいて欲しいからだろ」
視線が落ちる。ヘルメットからはみだした前髪がうっとうしくて、ぼくは手で顔を覆った。
「キィがキィのままでいつづけるのは、〈マザー〉と一緒にここに留まるってことだろ。そうしたら『母なる計画』の最終候補地に地球がなるってことだろ。そしたら――」
声が震えないように、ぼくは額に爪を立てた。小さな痛みが、ぼくをつなぎとめてくれますように。
「そしたら、ぼくらは消えるってことだろ。この〈船〉の中にいる以上、ぼくも、こーすけも、たけるも、久野だって、人質とかわらないんだよ!? キィはそれを嫌がったんだ! ぼくらがぼくらじゃなくなることを、嫌がったんだ! 同じだろ!?」
キィが、キィでいて欲しいとぼくらが願うように。
ぼくらが、ぼくらでいて欲しいってキィはそう考えてくれたんだ。
それに、キィがキィのままでい続けたら、いつか〈マザー〉がバグに耐えられなくなって、消えるかもしれない。そうなったらキィ自身も一緒に消える。遠い星の希望も全部一緒くたに、消え失せる。
そうならないように、この星を『母なる計画』の最終候補地として決定すれば、今度はこの星が、地球が地球でなくなる。ぼくらは、ぼくらでいられなくなる。
だからキィは、自分を消して『母なる計画』を続行することに――地球以外の星にすることに――しようとしたんだ。
ぼくらの、ために。
ぼくには判らなかった。どうすればいいのか、判らなかった。
たた。ただ――悔しかった。何も出来ないことが、悔しい。
「――ひろと」
静かな、低い声。こーすけの呼びかけに、ぼくは顔を上げることはできなかった。肌に食い込むほど強く、額に爪を立てる。
「おまえ――バスケん時でも、絶対オレにパスするよな」
――?
唐突過ぎるその台詞に、ぼくは思わず顔を上げていた。
まゆげを逆立てたこーすけが、睨むみたいにぼくと視線をあわす。
「おまえの方がゴール近かっても、オレにパスするよな」
――バスケ?
何で、こんな時にそんな話なんだろう。訳が判らない。だけどぼくは、あいまいに頷いていた。
「あれ、何でなん?」
「それは……」
ぼくは一瞬答えに詰まって、それからこーすけを正面から見据えた。
「その方が、シュート率があがるから」
「ちゃう。シュート率ちゃう。ゴールが決まるかどうかやろ」
「どっちだって、同じだろ」
バスケは、こーすけのほうが強い。サポートに徹するぼくと違って、こーすけはポインターだ。シュートの練習も、ぼくとは比べ物にならないくらいやってるはずだし、その分こーすけの放ったボールがゴールネットを揺らす率は、ぼくよりずっと高い。
ぼくだって、下手ってわけじゃない。だけど、確実にゴールを決めるなら、こーすけにパスしたほうが賢いし、そうするだけの連携プレーをぼくらは持ち合わせている。だから、いつもそうしているんだ。
こーすけはなんだか苦そうな顔をして、ぼくに軽く舌打ちをした。
「単純にシュート率で考えたら、おまえがやったってええやん。オレ、時々そういうんが気にくわんねん。おまえ、いっつもそうや」
「……いま、関係ないだろ」
「一緒や! こうしたほうがええとか、そんなん抜きに、おまえはどうしたいねん? たまにはおまえかて、自分でゴール決めたいんちゃうんか! キィが消えるのをどうしようもないとか言うなや。おまえは、おまえはどうしたいねん!」
その言葉に、ぼくは気付くとこーすけの顔を殴りつけていた。
鈍い衝撃が右の拳から伝わってきた。こーすけは倒れない。少しだけ体を揺らして、それだけで耐えた。手のひらで頬をこすって、ぼくを睨む。その視線を受けて、ぼくは睨み返した。
「ぼくは――ぼくは、こーすけじゃない! おまえみたいに単純でもバカでもない! 何にも考えないで平気だとか大丈夫だとか、考えられない!」
「ほなおまえは、キィが消えてもええ言うんやな!」
「違う!」
怒鳴りつけて。
その拍子にまた、顔が熱くなった。視界が揺らいで、ぼろぼろ雫がこぼれてきた。腕で顔を隠す。久野も、たけるも、見てるのに。恥ずかしいのか、悔しいのか、よく判らなくなっていた。
「……キィに、消えてほしいなんて、思わない。一緒にいたい。だけど、ぼくも消えたくないし、こーすけもたけるも久野も消えるのはいやだ。どうしたらいいか判らない。ぼくは、キィの気持ちを変えられる気がしない。だって、ぼくと同じだから。キィに消えて欲しくないって考えてんのは、ぼくも同じだから。どうしたらいいか――判ら、ない」
震える声を必死につなぎとめて、言葉にするのだけで精一杯だった。頭の中がぐるぐるして何を言っているんだか、自分でも判らない。だけど、ぼくがそうやって言葉を吐き終えて顔を上げたら――
びっくりした。
こーすけは、笑っていた。
嫌な笑い方じゃない。いつもの、くちびるの端を持ち上げた笑い方。ぼくが投げたパスを受け取ったときみたいな、そんな笑顔だった。
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