完成なる自殺スイッチ③



 翌朝、外の明るさに男は飛び起きる。


「ヤバい! 今日は朝からバイトだった!」


 慌てて身支度をしながらスマートフォンを手に取る。時刻はバイトの時間を遥かに過ぎていた。しかしながら職場からの着信は一切ない。


(うっわ……めちゃくちゃ怒ってるよこれ……)


 戦々恐々としながら職場に向かった男。

 だが、そこで奇妙なことになっていることに気付いた。


「……ええと、どちら様ですか?」


 バイト先の店長はもちろん、一緒に働いていた同僚も、全く男のことを覚えていない。最初は何かの冗談かと思っていたが、その様子もなく職場の人々は一様に初対面であると主張していたのである。

 遅刻したことへの嫌がらせなのかもしれない。

 そう思った男は、意気消沈しながら店を後にする。そして友人に愚痴でもこぼそうとスマートフォンを開くと、そこにも異変が起きていた。


「え……? 電話帳が……0?」


 携帯電話の電話帳が、全くの白紙となっていた。友人どころの話ではない。親も、兄弟も、従兄弟も、あらゆる人物の連絡先が消えていたのである。そしてSNSですら、アカウントごと消去されていた。

 

「え……な、なにこれ……」


 男は、その場に立ち尽くすしかなかった。



 ◆



 それから、男は自分に所縁のあるあらゆる場所に行った。しかし、何一つ彼の存在を示すものは残っていなかった。驚くべきことに、両親すらも彼を忘れていたのである。

 ……いや、忘れていたという表現すらも生ぬるいのかもしれない。まるで男という存在が、最初からなかったかのように、写真も資料も、何一つ残ってなどいなかった。

 しかし不思議なことに、彼の通帳は生きている。それどころか、預金額は見たこともない数字が記載されており、おそらく今後の人生を遊んで暮らせる程であった。

 しかし、男はなぜか喜ぶ気持ちにはなれなかった。

 夕暮れ時の誰もいない公園で、一人ベンチに座り込んでいた。

 不思議な感覚である。彼という人物を証明するものは何一つない。確かに自分はここにいるのに、社会的には存在しないなのだ。

 

(……もしかして、これは……)


 男はようやく気付いた。おそらくこれこそ、あのスイッチの効果なのだろう。

 しかし解せない。

 完全なる自殺であるはずなのに、今の自分は生きている。確かに存在を忘れ去られてはいるが、金もあり普通に食事や買い物は出来る。アパートを追い出される様子もない。状況だけを見れば、とても自殺とは言えないものだった。

 

「……金はあるんだよな。だったら……」


 男は、遊ぶことにした。

 風俗に走り、ギャンブルを楽しみ、酒に溺れ……まるで全ての不安を払拭するように、全てを忘れるように、金を湯水のように使い豪遊の限りを尽くす。

 そして、三年の月日が流れた……。

 

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