第56話 南宮万

 宋は魯で捕虜となっていた猛将・南宮万の釈放を求めた。


 魯は洪水の際での答弁に礼があるのを感じており、宋に対し良い印象を抱いていたこともあって、南宮万の釈放を許した。


 南宮万は捕虜から開放してくれてたことに感謝を述べるため、宋の閔公に謁見した。


 彼は捕虜となった悔しさがあり、捕虜となっている間、生きて宋に戻れるのかという不安もあったためか原来、彼が持っている雄々しい部分が鳴りを潜めていた。そんな彼を見た閔公は少しからかいたくなった。


「以前から私は貴方を敬ってきたが貴方は魯の捕虜となられた。私は貴方を敬うのをやめるとしよう」


 閔公には決して悪意は無く、いつもと違う彼をからかいたくなっただけであった。しかし、そのように受け取れるほど、南宮万の自尊心は許すことができなかった。


(許さん)


 そのように思い、彼は怒りを表わにしそうになったが抑えた。南宮万は激情の人であったが、自制心を持っていないわけでは無かった。そのため彼は心中に生じた怒りを一旦、収めたのである。


 紀元前682年


 周の荘王が死に子の僖王が即位したこの年の秋、南宮万の怒りは爆発した。


 きっかけはまたしても閔公の言葉であった。口は災いのもとである。


 蒙沢の地にて、南宮万が閔公と狩りに伴として、同行した時のことである。狩りを行った後に博(棋上の遊戯)を行った際に諍いを起こしたのである。恐らく、南宮万はこの博で手加減しなかったのかも知れない。ともかくこの時、閔公は彼に向かってこう言った。


「私は以前から貴様を敬っていたが、今の貴様は魯の捕虜となった人でしかない」


 以前、言われたことをまた言ったのである。前は抑えることのできた怒りが爆発し、彼は局(棋盤)を持つやいなや、それを閔公の頭へ振り下ろした。それによって閔公は絶命した。


 閔公の心無い言葉によって起こった事とはいえ、己の主君足る国君を殺したのである。この事実は変わらない。そのことがわかっている南宮万は己の身を守るためには宋という国を掌握し、己に逆らう者を始末しなくてはならないと考えるのは普通のことであった。


 彼は激情の人であり、猪突猛進の人である。直ぐ様、息子の南宮牛と部下の猛獲を呼び、兵を集めるとそのまま宋の首都に向かった。


 閔公の死を知り、仇を討つために大夫・仇牧は兵を率いて、宮門に向かった。そこで南宮万の兵と激突した。激しい戦いになった。しかしながら南宮万の兵は宋に於いて、精兵中の精兵であった。また南宮万自身も猛将である。そんな彼らを前に仇牧の兵は大崩れになった。


 南宮万の剣は如何なる兵をも斬り捨て、彼の剣を剣で防ごうとした兵は剣ごと真っ二つにされる。そんな彼を恐れ、仇牧は逃げようとするが南宮万は彼の頭を後ろから掴むと門に向かって、投げ捨てた。門に仇牧の歯が刺さり、彼はそのまま絶命した。


 南宮万は宮門を越え、東宮に向かった。宋の公子を捕らえ、即位させるためである。


「貴様ら無礼であるぞ」


 大宰・華父督が彼らに向かって叫ぶが、


「貴様らここがどんな場所かわかっているのか」


「邪魔だ」


 南宮万は一閃して、華父督を殺した。宋の国政を思うがままにしていた男の最後にしてはあっさりとしたものであった。


 そのまま南宮万らは宮中を掌握し、公子・游を立てた。


 南宮万は他の公子たちを排除するために兵を向けた。そのことを察知した公子たちは附庸国である䔥へ逃れた。そして、公子たちで最も人気のある公子・御説は亳へ逃れた。


「公子・御説こそが一番の敵だ」


 南宮万は公子・御説の存在を最も警戒しており、息子の南宮牛と猛獲に兵を与え、公子・御説の居る亳を攻めさせた。


 亳が彼らに包囲される中、䔥を治める䔥叔大心は他の公子たちの救援の求めに答えると、歴代の宋の君主。戴公、武公、宣公、穆公、荘公の子孫たちと共に曹から兵を借りて亳の救援に向かった。


 彼らは南宮牛と猛獲の兵と戦い、この戦いで南宮牛を戦死させることに成功し、その勢いのまま宋の首都へ反撃に出た。


 彼らを前に猛将である南宮万といえど耐え切れず、猛獲と共に脱出した。そのまま猛獲は衛に亡命し、南宮万は母を車に乗せ、自分で車を牽き、一日で陳に逃れた。


 南宮万によって即位させられた公子・游は殺され、宋の人々は公子・御説を招き、即位させた。これを宋の桓公という。国君に相応しいと言われた人はこうして国君となったのである。


 宋は乱を起こした南宮万と猛獲を許さず、彼らが逃れた陳、衛に引き渡すよう通告した。


 衛の恵公は猛獲の引き渡しを拒否しようとした。彼は亡命をすることの苦しさを知っているため彼を庇いたかったのだろうか。しかしながらそれを大夫・石祁子が諌めた。


「それはいけません。天下広しと言えど、悪を憎むのは同じ、宋で憎まれた者を我々が保護しても何の利益を得ることは無く、一人の男のために一国との関係を悪くし、憎まれる者の味方をして、友好を棄てる。これでは良策とは言えません」


 石祁子は石厚の孫に当たる人物である。つまり、石碏の曾孫に当たる。石碏は大義のために息子を処刑したが孫までは処罰していなかった。


 そんな彼の言葉を聞き、恵公は猛獲を捕らえ、宋に送った。


 一方、陳の方は南宮万を宴に招き、婦人を彼に侍らせ、酒に酔わせたところを捕らえ、袋に入れられ宋に送られた。その道中南宮万は大暴れし、袋から彼の両手両足が出ていたという。


 二人は首を切られ、塩漬けにされた。こうして、宋の乱は平定されたのであった。

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