第37話 衛の二公子
紀元前696年
正月、魯の桓公、宋の荘公、蔡の桓公、衛の恵公は曹で鄭の厲公を復位させるための会盟を行った。
ここで面白いのは会盟の場になった曹が会盟に参加していないことである。会盟の場を提供しながら参加しなかったのはなぜなのか。その理由がわかれば曹という国の思想などがわかるのだがそれに対し、歴史は無言である。
四月、魯の桓公、宋の荘公、蔡の桓公、衛の恵公は鄭に攻め込んだ。しかしながら戦での結果はさほどのものを残せず、厲公の復位には失敗した。
「失敗したか」
魯、宋、蔡、衛の連合軍の敗北を聞き、衛の獳羊肩は呟いた。
(いたるところで戦が起き、それが止まることなく続いている。その戦に巻き込まれ、我が国は国力を減らしている)
衛はほぼ毎年、戦をしているといって良く、衛の国力は低下していた。
(戦には正義は無く、諸侯は皆、己の欲望を満たすためである。それはこの衛も例外ではない。石碏殿、今の衛はあなた様が守ろうとした国でしょうか?)
獳羊肩は石碏亡き後、宣公、恵公という二代に仕えてきた。しかしながら国力を減らす衛を前に何もすることができず、また衛には別の問題も抱えている。
右公子・職と左公子・洩に不穏な動きがあるのである。
彼らの気持ちはわからなくはない。獳羊肩とて、宣公には何度か諫言した。されど宣公が聞くことはなかった。しかし、宣公は何故か獳羊肩を恵公の教育係に任命しており、
(それによって私は彼らに恨まれている)
「お疲れですか?」
頭を悩ましている獳羊肩に声を掛けてきたのは公子・州吁の乱の際に助けた侍女である。彼女はあの乱の後、獳羊肩に仕えていた。
「あぁ少しな。だが心配するほどのことではない」
「そうですか。それでは失礼します」
彼女はそう言って、獳羊肩の元から離れた。彼女ともあれ以来長い付き合いである。
(石碏殿、あなたならどうなさいますか?)
獳羊肩が目を瞑れば石碏が息子の処刑を前にしながらも毅然とした姿が浮かぶ。
(あの方ほど国のために己の感情を抑えた人を私は知らない)
国のために生きる。それにはどれほどの覚悟が必要なのかそれを身を持って世に示したのが石碏という人であった。
だが、その石碏はもうこの世にはいない。そして、彼を知る者も少なくなった。
(私はあなたに憧れ、あなたのように在りたいと願いながらも私は……)
部屋の中、獳羊肩は肩を震わせた。
十一月、雪が舞い落ちる衛の宮殿の近く、火が燃え上がった。
「何事か」
宮殿の門の守備隊長が配下の兵たちに怒鳴る。
「どうやら火事のようです」
一人の兵が守備隊長にそう言う。するともうひとりの兵が守備隊長に進言した。
「ここにいる半数の兵を向かわせて、消火させましょう」
「そうだな。良し、ここにいる者の半数は火の手が宮殿に回るまでに消化せよ。残りはここの警備を続けよ」
隊長が叫ぶように命じると兵たちは慌てて、火が上がっているところに向かっていった。半分ほどの兵が向かった後、門に向かう複数の影があった。
その影に気づいた門の守備隊長は目を細め彼らを見る。
「何だ。あの者たちは」
複数の影はこちらに段々と近づく。やがて、その影の手に何か光り輝く物があった。
「おい、あの者たち何か持っているぞ」
「心配ありません」
兵のひとりがそう言った。
「心配ないとはどういうことだ」
守備隊長はそう返すと兵は笑って、
「彼らは同士です。この国から暗君を除くための」
兵は剣を抜き、守備隊長の首を一閃した。
「よくやったぞ」
「はっありがとうございます」
複数の影が兵に近づき、兵にそう言った。その影は右公子・職と左公子・洩らであった。
「同士たちよ、この国に巣食う悪しきあの者をこの国より除き、今は亡き、急子様と寿様の仇を取る。かかれぇ」
右公子・職が叫ぶと兵たちは宮中へとなだれ込んだ。
その頃、獳羊肩は宮殿に参内していた。彼は衛の恵公に対し、進言するためである。その進言の内容は、
(右公子と左公子の二人を除く)
獳羊肩は公子二人を除くことにしたのである。
(衛に無用な乱を起こせば衛の国力は更に下がる)
だが、獳羊肩のこの行動は遅かったと言っていい。参内する途中彼の耳に怒声が聞こえた。
「まさか」
獳羊肩は衛の恵公の元に駆け出した。
「我が君」
「何事だ」
「二公子の謀反でございます」
獳羊肩は衛の恵公に合うやいなや、拝謁し、そう言った。
「何だと、まさか、あやつらが」
衛の恵公は怒りで肩を震わせる中、獳羊肩は彼を逃がそうとする。
「既にこちらまで敵が迫っています。早く他国へお逃げを」
「逃げるだと、我はこの国の長だぞ」
「されど」
衛の恵公は獳羊肩に怒鳴るがそれ以上の声を獳羊肩は上げる。
「今は御身のために他国にお逃げを。君は生きておられれば必ずや、国に戻ることができます。早く」
衛の恵公は納得してないが初めて獳羊肩の意見に従った。
獳羊肩は周囲の衛兵を集め、その中から忠義心のある者を選び、衛の恵公の護衛とした。衛の恵公は彼らに守られながら、宮殿からの脱出を図った。そして、獳羊肩は残った兵を率いて、二公子が率いる兵に向かった。
「国に仕えし、兵たちよ。愚かにも二公子は我が君に対し刃を向け、この国を我が物になさんとしている。この行いに正義はなく、許してはならない大逆である。誠に国に忠を尽くさんとするのであれば大逆の者を討ち果せ」
「おおぉ」
獳羊肩の鼓舞に兵たちは答える。彼らは二公子の兵たちに突っ込んだ。
二公子の兵たちは獳羊肩の兵たちに苦戦するも数はこちらの方が上であるため次第に押し始める。
「退いてはならんかかれぇ」
獳羊肩は剣を振るいながら叫ぶ。
「獳羊肩殿。なぜあなたほどの方があのような者のために戦うのか。あの者は己が国君になるために兄と弟を死に追い込むような者。そのような者が国君であるべきか」
左公子・洩はそう獳羊肩に向かって叫ぶ。
「臣が国君に忠を尽くすのは当たり前のことである」
そう剣を振るい獳羊肩は叫び返す。
「獳羊肩殿の覚悟良く分かり申した。もうこれ以上申すことはありません」
右公子・職は兵たちを獳羊肩に向け、更に向かわせる。
多数の兵を前に段々と切り傷が増えていき、獳羊肩の身体は真っ赤に染まっていく。そして、遂に膝を付いた。
(ここまでか)
「最後に何か申したいことはありますか」
右公子・職が問いかける。
「お前たちが立てるのは公子・黔牟か?」
「そうだ」
獳羊肩はそれを聞き笑った。彼らが公子・黔牟を立てるのは急子の同母弟だからである。ただそれだけである。
「『匪(ひ)たる君子あり。切るがごとく、磋(さ)するがごとく、琢(たく)するがごとく、磨くがごとし』この詩をご存知か。これはかつて先君、武公を讃えた詩である。この方のようにその方は歌に歌われるほどの徳をお持ちかな。乱を起こし、国を奪うという大逆を犯しながらも、名君と讃えられた方は数少ない。それにも関わらずあなた方は歌を歌われるほどの徳を持たぬ者を国君として立てようとしている。気を付けることだ。必ずやお前たちは他国に攻められ殺されるだろう」
そう言って、獳羊肩は更に笑う。
「何だと貴様許さん。この者の首を切り落とせ」
右公子・職は兵に怒鳴りながら命じる。
(石碏殿。私はあなたのようになりたいと願いながらもなれませんでした)
こうして、獳羊肩の首は切り落とされ、死んだ。死体は市中に晒された。そこにひとりの女性が駆け寄り、泣いた。
彼女の名は残念ながら歴史書に描かれることは無かった。
衛の恵公は無事、国から脱出し、斉に出奔した。
衛の二公子は恵公を殺せなかったことを悔しく思いながら、公子・黔牟を即位させた。
他国はこの衛での乱に警戒しこれを解決するために動くことになる。
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