第36話 父と夫、親しき者はどちらか

 宋は前年の報復を行うため、斉、蔡、衛、陳と共に鄭を攻めた。


 この戦に斉の僖公が亡くなった直ぐ後にも関わらず、斉が参加していることから斉の襄公の性質に不穏な部分があることがわかる。


 宋は鄭の城門を焼き、これを打ち破って大道に至るまで攻め込んだ。また、東郊を攻めて、牛首の地を奪った。さらに宋は鄭の大宮(太廟)の椽木を奪い、国に凱旋し、宋の城門の椽木に使うことで鄭を辱めた。


 鄭が中華最強の軍を持っていたのにも関わらず宋のやりたい放題であると言ってよかった。その理由は鄭の厲公に宋との戦をやる気がないことが原因であったと言えるだろう。


 宋は厲公を即位させることに協力してくれた国であり、その国と戦いたくないと思うのは自然ではあったが、しかしながら宰相の祭仲が宋の賄賂の要求を断ったため、宋と戦うことになってしまったと厲公は考えていた。


(祭仲め、余計なことをこれではまるで私が戦に弱いように見られるではないか)


 鄭の厲公は祭仲を忌々しく思い、これをどうにか排除したいと思い始めた。


 紀元前697年


 三月、周の桓王が亡くなった。後を継いだのは子の佗(た)である。これを周の荘王という。


 周の桓王の時代は諸侯からの信を失い、礼や義が廃れ、風俗は乱れ、讒言や偽り、賄賂が横行し、諸侯が叛して九族が睦むことなく、怨みや禍が積もっていったと評された。


 彼がもし、己の立場を自覚し、身を慎んでいれば、周の衰退はもう少し遅くなったかもしれない。


 五月、鄭の厲公はある男を自分の元に呼びつけていた。その男の名は雍糾と言い、祭仲の娘婿である。


「この度、お主を読んだのは他でもない。頼みたいことがあるためである」


「私のような者ができることでしたら何なりと」


 雍糾は恭しく、厲公にそう答えた。それを見て厲公は頷きながら言った。


「この国での主とはだれのことであろうか?」


「もちろん。国君であります」


 彼の言葉を聞くと厲公はかっと目を見開き、言った。


「だがしかし、私が即位してから、ここまで、お主の義父である祭仲は臣下の身分でありながら私の存在を無視し、政を専権し、己の欲を満たしている。そこでお主への頼みとは他でもない。汝の義父である祭仲を殺してもらいたいのだ」


「義父をで、ございますか」


 雍糾は流石に義父である祭仲を殺せと命じられ、冷汗が流れ始めた。相手は義父なのである。その義父を殺すなどというのは信じられない行為である。


「褒美は如何様にも取らせる。やってくれ」


(褒美……)


 今の自分は義父の婿としての立場で、位を与えられている。そのため何ら苦労したこともない。このままであれば、平穏無事に過ごせていけるだろう。しかしながら自分が何かを成し遂げたが故に手にした位にいつまでもいてよいのだろうか。


(国家の臣下として生まれた以上、自分で何か功績を成し遂げるべきではないか?)


 今、己の国家の国君が己に秘事を託そうとしている。それを成して己の真の功績をもって位を得るべきではないのか。


「承知しました」


 そう思った雍糾は厲公の言葉に同意した。


 翌日、雍糾は郊外の宴を開くと嘘を尽き、祭仲を誘いそこで彼を殺すという策略を考え、雍糾はその通りに祭仲を誘った。


 祭仲に見破られるのではないかと、内心の動揺を彼は必死に抑えながら言葉を発した。そんな彼に祭仲は疑問を持つことなく、この宴に参加すると言った。


 雍糾は内心、歓喜した。これで祭仲を暗殺できると思い、家に戻ると酒を浴びるように飲んだ。その酒を注ぐのは祭仲の娘であり、雍糾の妻である雍姫であった。


「何かありましたか?」


 大層喜んでいる夫に対し、雍姫が聞くと雍糾はこう答えた。


「我が君の命により、祭仲を郊外に誘き出し、殺すのだ。その策はほぼ成功すると言っていい。これで私は君より高位を与えられるだろう」


 笑いながら雍糾は雍姫を抱き寄せて酒を飲み続けた。しかし、彼は酔っているために正常な判断をすることができなくなっていたのだろう。彼の傍にいる雍姫は祭仲の娘であることが完全に頭から離れていた。


 一方、正常な思考を持っていた雍姫は夫の言葉に衝撃を覚え、夫から離れた後、一人大いに悩んだ。


 夫が父を殺そうとしている。これを父に伝えれば夫は父によって殺されるだろう。しかし、父に伝えなければ夫の計略により、父を殺すだろう。どちらにしても父か夫のどちらかが死ぬことになる。


(どうすれば良いの?)


 そう思いながら悩んだ雍姫は母に相談することにした。


「父と夫とではどちらが親しい存在でしょうか?」


 妻としての道として正しい判断とはなんだろうか。同時にこの時の問答は当時の女性の価値観がわかる貴重な瞬間である。


 母は娘の質問にこう答えた。


「人は誰でも夫にすることができますが父はこの世に一人しかおりません。比べるまでもありません」


 母の答えに覚悟を決めた雍姫は父の元に趣むき、夫の計画を話した。


「本来宴は家で宴を開くのを夫は郊外で開くとのことが疑わしいので父上にお伝えいたします」


(そうか……そういうことか)


 祭仲は娘の言葉を聞き、全てを悟った。それからの彼の行動は早かった。ここまで政治を担い、生き残ってきた理由がここにあると言っていいだろう。


 彼は直ぐ様、雍糾の屋敷を襲い、雍糾を殺すとその遺骸を周氏の堀にこれを晒した。この行為は鄭の厲公への挑発でもある。


 厲公は雍糾の遺骸を見るや否や車に乗り、雍糾の遺骸を収めると国から脱出した。彼は遺骸にこう言った。


「婦人どもに策を教えればこうなるのは当然であろう」


 そのまま厲公は蔡に出奔した。


 六月、祭仲は昭公を招き、復位させた。たった一人を殺してみせて、国君を変えてみせたと言っていいだろう。


 九月、蔡に出奔していた厲公は櫟の人々の協力を得て、この地を守る檀伯を殺し、この地を己のものにした。そして、宋に書簡を出した。彼は鄭の国君の座を諦めていなかった。


 十一月、魯の桓公、宋の荘公、衛の恵公、陳の荘公らは袲の地で会盟を行い。厲公を再び即位させるために鄭を攻めた。しかし、鄭の抵抗は激しく、これに失敗した。


 宋はこの失敗を悔しく思ってか、厲公がいる櫟の地に大軍を置いた。それにより、鄭は櫟の地を攻めることができなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る