第38話 高渠彌
紀元前695年
正月、魯の桓公は黄の地で斉の襄公、紀侯と会盟を行った。
この会盟の目的は斉と紀の関係を良くすることと衛での混乱を鎮めることについてである。
桓公を補佐するのは大夫・申繻であった。彼はふとある違和感に気づいた。斉の襄公がずっと桓公のことを見ているのである。しかもその目には、
(憎悪としか言いようのない感情が込められている)
しかし、なぜ己の君が斉君に憎悪されるのか申繻には理解できなかった。
(だが、理由はどうあれ関わるべき方ではないようだ)
申繻はそう考え始めた。だが、彼は襄公の憎悪の大きさは理解しきれてはいなかったと言えるだろう。
二月、魯の桓公は邾の儀父と趡という地で、会盟を行った。魯と邾の関係強化のためである。
五月、魯と斉の国境である奚で諍いが起こった。どうやら斉の方から仕掛けたようである。そのため国境警備の官吏が報告に来た。
「報告します。斉軍が国境に侵入いたしました」
桓公はこの報告に対し、こう言った。
「国境守備の任務は国境をしっかり守り、不測の事態に備えることである。力を尽くしその任務を遵守し、事が起きれば対処すればいい。たかがこのような小さな諍いを一々報告せずとも良い」
結果たいした戦闘にはならなかった。しかし、これに舌打ちしたのは襄公であった。
「ち、つまらん」
「我が君、もうこのようなことはお止めください」
襄公を諌めるのは斉の上卿である高傒(高敬仲)である。彼の諫言に襄公は顔を歪めるものの敢えて、言葉を返すことはなかった。
斉において高氏と国氏という二氏は建国より現在まで、斉の大族としている名門であり、斉君とて、憚る存在であった。
斉の襄公とて、その例外ではない。しかしながら彼は戦を好むたちであり、桓公に対し恨みがあった。そのため高傒がどう言おうとも戦を仕掛けるつもりであった。
「我が君、これ以上、魯に対して手を出せば魯にいる妹君のお立場が悪くなるかもしれませんぞ」
高傒が襄公の妹である文姜を持ち出すと彼は更に顔を歪めた。
彼は自分の兄弟姉妹たちが嫌いである。しかし、文姜だけは特別な存在であった。この世に生きる存在の中で最も特別な存在、それが彼女であった。そんな彼女を自分の行いで悲しませてしまうのだろうか。
そう考えると彼はやる気を失い、高傒に兵を退かせるよう命じた。高傒は命令通り、兵を退かせた。その後、安堵と共にため息を吐いた。
(何とか妹君を出して、諌めることができたか)
高傒は魯との関係がこれ以上、悪くなるのを防げたため安堵しつつも、
(だが問題が完全に無くなったわけではない)
襄公があの調子ではまた戦を起こすことは明白であった。できるだけ、戦を何とか食い止めたと考えている高傒にとっては悩ましいことである。
(どうなるのかこの国は)
高傒は再びため息を吐いた。
九月、宋、魯、衛の三ヵ国が邾を攻めた。宋が主導とした戦である。しかし、魯がこの戦に参加しているのはおかしい部分がある。
魯と邾は同盟国であるはずなのである。しかも魯と邾は二月に会盟を行ったばかりである。それにも関わらず、この戦に参加するのはあまりにも不義理であると言えた。そのため申繻は桓公に諫言した。
「君よ、我が国は二月に邾と会盟を行い、同盟を結んでいます。それにも関わらず宋の思惑に乗り、会盟を破るような行為を行うべきではありません」
「我ら魯は宋とも同盟を結んでいる。そして、宋の方が邾よりも強国である」
「宋が強国だからとてこれに従う理由はありません。また同盟を破る理由にもなりません。それに盟に背く行為を五月に魯は斉より受けました。しかし、今、魯は同じようなことをしようとしています。悪い行いに同じことをするべきではありません」
しかし、桓公は申繻の諫言を聞かず、邾を宋と衛と共に攻めた。
臧孫達はこれを知って、呟いた。
「魯に何か良くないことが起きるかもしれない」
その頃、鄭では不穏な動きがあった。その実行者は高渠彌である。
彼は鄭の昭公を殺そうとしていた。なぜそのような大それたことをしようとしているかというと、彼が昭公に嫌われていることが原因である。
高渠彌は先君である荘公に気に入られたことで卿に任命された人物である。しかしながら自分が卿に任命されることに反対したものがいた。当時、公子であった昭公である。
そのため昭公が即位した時は危機感を持っていたが、宋の策謀により、昭公が追い出され鄭の厲公が即位した時は安堵したものである。
厲公がいる間は良かった。しかし祭仲によって、厲公は鄭から追い出されて、昭公は復位してしまった。
嫌われている自分を昭公は処分しに動くだろうと考えた彼は先手を打つことにしたのである。
十月、昭公が狩りを行うために荒野に出向いたところを高渠彌は自分の私兵を率いて、襲い射殺した。
この報は数日後、祭仲の元に届いた。
(何と、君が殺されただと)
祭仲にとっては青天の霹靂であった。彼は政務に忙殺されており、高渠彌の動きに気づくことができなかった。
(不覚であった。私がもっと気をつけていれば……)
昭公と高渠彌の間に溝があることは知っていた。それを踏まえて警戒すべきであった。
祭仲は後悔しつつ、直ぐ様、頭を巡らし始めた。ここで下手ば相手を昭公の後を継ぐ者に選べば他国との関係は悪くなる。
そのようなことを考えている祭仲の元に意外な人物がやってきた。高渠彌である。
「何のようだ」
祭仲は珍しく怒気を顕にしながら高渠彌に言う。そんな彼に対し、高渠彌は笑みを顔に貼りつけながら、こう返した。
「即位させる公子に関して話させていただきたいと思いまして」
悪気もなくそんなことを言い出した。それに対し、祭仲は顔を歪めた。
「国君を殺しておきながらお前は政権を握らんとしているのか」
「いえいえ、祭仲殿を差し置いてそのようなことは……」
高渠彌は苦笑しながら更に続いて言った。
「一番実力があるのは公子・突様ですかな?」
祭仲はまた顔を歪めた。公子・突とは厲公のことであり、彼を国から追い出したのは自分なのである。それにも関わらず、彼を招くのは自分の首を絞めることに等しい。
「脅しか?」
「さぁどうですかな?」
高渠彌はそんな風に言うと僅かに、外から音が聞こえた。
(やはり、一人で来たわけではないか)
祭仲は一歩間違えば自分は殺されることを察した。
(さて、どうするか)
高渠彌の考えは厲公を招くことではない。厲公と高渠彌の関係はそこまでではないことと、厲公は良くも悪くも強引で他者への尊重に欠けている人物である。
(厲公を操るのは高渠彌では無理だ。それは高渠彌自身も分かっているだろう)
だからこそ自分にこのような話を持ち込んできたのであろう。
「公子・子亹を立てる」
祭仲はそう切り出した。
「公子・子亹ですか。いいですね」
高渠彌はそう言った。公子・子亹は昭公の弟であるが、昭公とはそれほど仲は良くない人物であり、復讐を考えるような人物でもない。つまり、自分にとっては扱い易い人物であった。
「大夫たちとて、我ら二人が立てた者に対し、意見を出すことはないだろう」
「そうですな」
高渠彌は笑った。そして、自分が政権を握ることに思いを馳せ始めた。そんな彼を祭仲は深い憎悪と共に見つめた。
(今回は先手を打たれたが必ずやお前を)
そう心の中で誓いを立てた。それができなければ、自分は後世から大いに謗りを受けることになるだろう。
その後祭仲と高渠彌は公子・子亹を立てた。彼に諡号は無い。
このことを知った魯の臧孫達は、
「高渠彌はきっと殺される。憎まれたことに対しての仕返しが行き過ぎている」
と、述べた。
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