第25話 不穏なる婚姻
紀元前709年
正月、魯の桓公と斉の僖公が嬴の地で会見した。これを実現させたのは魯の羽父と斉の夷仲年の二人である。
会見の内容は魯の桓公と斉の僖公の娘である文姜の婚姻である。
文姜は大変美しい美女であり、僖公は彼女を鄭の公子・忽に嫁がせようとしていたが断られていた。羽父はこれを知っており、桓公にまだ正室と言える人がいないことと斉との関係強化のためにこの婚姻を斉に持ちかけたのである。
羽父は夷仲年とこれを実現するために交渉を開始したがこの時僅かに違和感を覚えた。やけに斉がこの婚姻に積極的なのである。それどころか文姜をどうにか婚姻させたいという必死さが夷仲年という温和な人間から見え隠れしていたのである。
(夷仲年殿はこの婚姻での魯と斉の関係強化に積極的なのであろうか)
最初こそ、そう思った羽父だが外交感覚に優れ、物事の表裏を見抜く目を持っている彼からすると、
(余程斉の公女を国に置いたままにしたくないのか)
そう考えるようになった。では文姜を国に置いておけない理由とは一体何であろうか。
(斉の公女は素行が余程悪いのだろうか)
そういう考えに羽父は至った。だとすれば出来の悪い公女を魯は押し付けられることになる。
(失敗したかもしれぬ)
羽父は頭を痛めた。魯と斉の関係強化をし、今後の外交をより良くしていこうという思いが仇になることになる。だがここまできて、この婚姻を無しにするなどという無礼を働くわけにはいかない。何より、魯の桓公がこの婚姻に積極的なのである。
(美女と聞いて、この婚姻に積極的なのはまだまだ若いというべきだろうか)
この婚姻を持ちかけた時の魯の桓公を思い浮かべながら羽父は思った。
こう思うと隠公と桓公の国君の差は隠公の方が上に見えてくる。だが、
(だからこそ私は今の地位にいると思うと仕方ない。さてさてこの婚姻はどうなることか)
羽父は憂鬱に思いながら会見に参加した。
魯の桓公も斉の僖公もこの婚姻に依存はなく、両者ともこれに同意した。
斉の僖公はその後、夏に衛と会見の予定があるため婚姻は冬に行うことにした。
九月、羽父は文姜を迎えるために斉に入った。斉の僖公は彼を喜んで向かえ、もてなした。
そこで羽父は文姜を見た。
(なるほど美女と噂になるだけはある。確かに美しい)
文姜は確かに美しかった。顔立ちが整っており、気品に溢れていた。礼儀に問題はなく、声も綺麗であった。
(私の考えすぎだろうか)
羽父は特に問題を感じさせない文姜の姿に当初考えていた懸念を払った。
「斉の公女は大変美しい方でございますな。この婚姻は両国にとって、素晴らしいものになるでしょう」
「お言葉感謝いたします」
羽父がそう言うと斉の僖公はそう返した。すると、周りの斉の大夫たちには安堵する者たちが多くいた。それを見て、羽父は再び不安に思った。本来婚姻とは喜ばしいことなのである。であれば本来、喜びを顕にすべきではないのか、だが羽父は浮かんだ不安を必死に振り払った。
この時、彼は気づいていなかった。暗く、深い憎悪が向けられていることに・・・
斉から羽父は夷仲年と共に魯の地である讙に向け、文姜を連れ、出発した。これに本来いないはずの人物が同行した。斉の僖公である。
(なぜ斉君は公女が嫁ぐのに付き添うのか)
本来公女が他国に嫁ぐ時に国君がそれに付き添うのは無礼である。そんなことを知らないはずはない斉の僖公がこのようなことをするのか彼には理解できなかった。
斉の僖公とて付き添う気はなかった。付き添うと言ったのは僖公の長男で文姜の兄である諸児が言ったのである。僖公らは何としても彼を文姜に付き添わせるわけにはいかなかった。そんな彼の代わりに僖公が付き添うことになったのは父である僖公でなくては諸児が納得しなかったからである。
そのような事情を知るよしもない羽父からすれば、この事態は必死に抑えている不安が大きくなる。
彼ら一行を讙で魯の桓公は向かえ入れた。彼は斉の僖公とこの場で会見した。特に斉の僖公が付き添ったことには特に気にしなかった。彼は羽父に
「斉君は娘を溺愛しているのであろう」
そう斉君が付き添ったことについて言った。
(そうだろうか)
羽父は、信じはしなかったがこの斉側から与えられる違和感を説明するにはそう言うしかないとも思った。
(君が気にしないのであれば構わないか)
会見を終えた後は流石に斉の僖公は魯都には行かず、帰国した。
魯都に入ったのは夷仲年である。魯都に入り、遂に文姜と桓公は顔を合わした。
「噂通りの素晴らしき美女であったぞ」
魯の桓公はそう羽父に言った。
(君は満足したか、良かった)
羽父はここまで不安で堪らなかったため安堵した。きっと斉で感じた違和感は気のせいであったのであろう。そう考えながら彼は政務に戻った。
後にこの婚姻により、暗く歪んだ愛と憎悪という沼に桓公は引き込まれていくのだが羽父はこの数年後、世を去る。そのため彼はそのことを知るよしはない。
結果だけ見れば彼の手は二つの血で汚れたといっていいだろう。
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