第26話 繻葛の戦い

斉と魯の婚姻が行われた頃、晋と秦の間にある国、芮にて事件が起こった。芮の国君である芮伯・万が国を追い出されたのである。


 この事件の首謀者は万の母・芮姜である。なぜ国君の母たる芮姜がこのようなことを仕出かしたかというと、万にはあまりにもたくさんの寵臣がいたことが理由である。その寵臣たちは皆性質が悪く、そのため芮姜は彼を追い出したのである。


 追い出された万は魏へと逃れた。本来こういった事態が起こった時は周に逃れ周王に訴えるものだが彼は周にはいかなかった。彼はこの事態を解決する力を周にはないと判断したのである。そのため彼は魏に留まった。


 紀元前708年


 秋、国君を追い出されて混乱しているだろうと思った秦は芮を攻めた。だが国君のいない芮など敵ではないと思い油断していた秦はなんと芮に敗れてしまった。芮は万を追い出した後、万の寵臣たちを粛清しており、一致団結していたのである。


 まさか負けるとは思っていなかった秦は芮がやすやす落とせないと思い、芮と敵対しないことにした。そのため秦は周と虢に万の罪を主張し、それを庇う魏を非難した。


 これにより、冬、周の桓王は秦と虢に魏を攻めるよう命じ、王軍も出兵させた。


 秦、虢、王軍は魏城を包囲、これにたまらず魏は万を差し出した。それにより軍は引いた。


 紀元前707年


 春、陳で大乱が起きた。陳の桓公が病に倒れたことにより、後継者争いが起こったのである。


 桓公は病に倒れている中、彼の後を継ぐはずの太子・免を公子・佗こと五父が殺害した。これを桓公も知ったがもはや起き上がることはできず、そのまま絶命した。


 この内乱により、人々は大変混乱したらしく、桓公の訃告が二度諸国に伝えられる事態も起こった。


 このように陳が混乱している中、陳の元に周王からの使者がやって来た。内容は鄭の討伐であった。


 秋、遂に周の桓王は鄭討伐を決め、蔡・衛・陳に援軍を要請し彼ら連合軍は鄭に進軍した。これに対し、黙ったままでいるような鄭の荘公ではなく彼は直ぐ様、兵を率いて王軍ら連合軍に対した。


 両軍が対峙したのは地の名を繻葛という。故にこの戦いを繻葛の戦いと言う。


 王軍ら連合軍は中軍を桓王自ら率い、右軍を虢の国君である虢林父が率い、その下に蔡、衛の二国の軍が従う。左軍は周公・黒肩が率い、その下に陳の軍が従った。


 一方の鄭軍は子元が作戦を提案していた。彼の作戦の提案内容は左翼の一部の隊に蔡、衛を攻めさせ、右翼の一部の隊に陳を攻めさせるというものであった。


「陳は内乱により、この戦に対してよりも国の方が気がかりであるため兵に闘志はなく、そのため陳を攻めれば勝つことができます。また蔡、衛の二国の兵は弱兵であり、陳が敗れるのを見れば我らを恐れ、逃げるでしょう。そうなれば残った王軍は混乱し、我らは王軍を破ることができましょう」


 この子元の策に荘公は従うことにした。そして、この作戦でもっとも重要な右軍を公子・忽に任せることにした。これに子元はむっとした。この作戦を考えたのは自分であるのだから自分が一番重要な役目を担いたかったのである。その思いの先には国君になりたいという野心もある。


 だが荘公は自分の後は忽に任せようと考えており、ここで功を立てさせようと思ったのである。荘公は左軍を祭仲に任せ、中軍は荘公自らが率いて、彼の下に原繁と高渠弥が従う。


 右軍を任された忽と左軍を任された祭仲が細かな打ち合わせを行っている中、彼らの元に高渠弥がやって来た。


「殿下、この度の戦、殿下の活躍しだいでございます。健闘なさいますことをこの高渠弥、心より願っております。」


 そう言って彼は立ち去った。それを見ながら忽は吐き捨てるように言った。


「何が心から願っておるのだ。どの口が申すのか、あの男をなぜ父上は重用するのか」


「殿下、口を謹んでください。如何なる者が聞いておるかわからないのですぞ」


 祭仲は忽の言動を諌めるが忽はその言葉を聞いて、嫌な顔をする。忽は高渠弥のような男が顔を合わせるのも嫌いなのだ。


 祭仲とて、高渠弥という人間を好まないが彼からすると確かに弁術に優れた男であり、また国君というものは例え、自分の嫌いな人間でもそれを受け入れる度量が必要なのである。その点、忽という人物は己の感情を表に出しやすく、自分の好き嫌いが激しい部分がある。


(それではいけないのです。殿下)


 祭仲はどうにか彼に立派な君主になってもらいたいのだ。忽の母を荘公に嫁がせたのは自分であるということと鄭がこの先も強国として存在するには荘公という名君の後を立派に継ぐ必要がある。その後を継ぐことにおいて、一番優れているのは忽なのである。


(私がなんとか補佐していかなくては)


 祭仲は後に己が政争に身を投じることになることを予感しながらそう思った。


 鄭軍は魚麗の陣を構え、兵車を前に歩兵を後ろに配置した。そして、王軍ら連合軍と鄭軍はぶつかった。


 鄭の荘公は全軍に旗を振り、作戦通り、突撃をさせるよう命じた。これを受け、原繁が旗を兵士に振らせる。それを見た右軍の忽は一気に陳軍に突撃をしかけた。


 子元の言う通り、陳軍は気迫がなく、気の抜けたようであるため陳軍は忽の右軍の前に敗れ、退いていく左軍の祭仲も右軍と同じく、蔡、衛を攻める。陳軍が敗れていくのを見て、この二国も逃げ出し始めた。


 この三カ国が退いてしまうため虢林父も退き始める。黒肩は何とか踏ん張ろうとするが勢い盛んな鄭軍の前に敗れていく、あと残すは中央の王軍だが両翼が退却していくため混乱が生じ始めていた。荘公は全軍合流させ、混乱する王軍に突撃させる。


 鄭軍の前に王軍は次々とやられていく中、鄭軍の先鋒として王軍の兵を次々と自慢の弓で射抜いていく祝聃は王軍を何とか持ち直そうと指示を出す桓王を見つけた。


 祝聃は弓を引き、王軍の兵や鄭軍の兵が右往左往する中、彼は桓王に照準を合わせた。そのまま矢を放った。矢は兵と兵の間を抜けていく、この矢の存在に桓王は気づいた。彼は矢が自分の胸目掛けて向かったのを見て、体を捻り、車に倒れ込むようにし、何とか躱そうとしたが矢は桓王の肩に当たった。


 桓王は肩に矢が当たった激痛に襲われたが何とか歯を食いしばり、耐え指示を出そうとした。その姿を見て、祝聃は桓王の以外に根性がある姿を見て、再び矢を構えた。その時、桓王を庇うように黒肩の軍がやって来たため祝聃は桓王を見ることができなくなった。


 黒肩は桓王に退却するように進言を出すも桓王は聞こうとしない。それでも黒肩が何度も進言をし続けたため桓王は遂に退却を決めた。


 王軍が対局するのを見て、祝聃は荘公に追撃を進言したが荘公はこう言って断った。


「君子は人を追い詰めないもの。まして、相手は天子なのだ。我が身と社稷が無事であるのであればそれで十分である」


 荘公は追撃を命じなかった。鄭の兵は歓声に沸いた。


 周王に一諸侯が勝利したことはほかの国々広まり、敗れた揚句に傷まで負った周王の権威は失墜し、国々はもはや周室に頼らず、覇を争う時代、覇者の時代に突入し始めることになる。


 そして、周王に勝った鄭の荘公を人々から「小覇」と称した。まさにこの時が鄭にとっての黄金期であった。

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