第4話 乱の兆し
紀元前750年
死んだ秦の襄公の息子である
これに周の
このように各地で戦が続く中、この年、平王派と
ここで一つ疑問なのは、携王派だった
確かに鄭の
そんな男を用いるのはどうなのだろうか。もしくは、
「私への対抗馬か」
鄭の武公はこのことを知り、呟いた。
鄭が周王朝で影響力を増している状況に警戒した平王は別の王を立てたとはいえ、国力のある国を有している虢公を敢えて許すことで鄭への対抗馬にしようと考えたのではないかと彼は考えたのである。
だとすれば平王は諸侯の勢力拡大を黙って見ているわけではなかったのである。
「ふんっ」
鄭の武公は鼻で笑った。しかしながら、平王が鄭への対抗馬にしようとしている虢公という男は平王とは別の男を王として担ぎ出すような男なのだ。そんな男が果たして鄭に対抗できようか。
そのようなことよりも恐らく虢公は自国のことを優先するだろう。そういう男である。
携王が死んだことで周王朝は統一された。だがそれにより平和が訪れたわけではない。もはや周王朝に天下を治める力はなく各地の諸侯が力を持っているからだ。平王にとっては悔しさがあったが諸侯によって立てられたため我慢した。このように我慢したことで周王朝はしばらく持ったのだろう。
だが、この不満はやがて彼の死後、爆発することになる。
紀元前746年
秦が三族誅滅の刑を作った。この刑は以降中国で使われ続けた残酷な刑である。
また、この年ある人物が亡くなろうとしていた。その者とは四年前に携王の勢力を打ち破った晋の文候である。そんな彼には心配事があった。
文候の名を
弟の名の成師はともかく兄の名は仇とは中々奇妙な名前の付け方をしたものである。しかしながら、当時は子供に不吉な名前をつけることで邪を払うという考え方もあった。その考え方でいくと兄の名の奇妙さは消える。だがそれならば今回のこの名前の付け方において問題なのは、兄が仇で、弟の名が成師としたことである。
この名前の付け方を不吉だと感じた者がいる。晋の大夫・
「奇妙な名の付け方を我が君(文候の父で晋の
この師服の言葉を何処かで知ったか知らずか文侯は弟の成師を徹底的に用いないようにし、彼に何も与えなかった。しかし、そんな風に弟を扱い続けた文候はもうすぐ亡くなろうとしていた。彼の寝室にいるのは息子の
「息子よ、成師に気を付けよ」
「父上なぜ叔父上に対し気を付けなくてはならないのでしょうか。叔父上の政治は民や臣下たちがとても褒めています。そして叔父上はとても謙虚で礼儀正しい方です。そんな叔父上に気を付けよとは……」
伯はそう文候に問いかける。彼にとって叔父は危険な男では無い。そんな息子を見ながら文侯は思う。
(確かにあやつは息子の言う通り民や臣下に慕われている。だがそれは国主の地位を奪うための演技に過ぎない。それがこやつには分からんのか)
「そうかならば成師に渡すものについてよく考えてから渡せ」
内心呆れていたが彼は息子に最後の助言をする。彼は成師が国を奪うため行動に出ると確信している。だが彼は息子に弟を殺せとは言わない。
文侯は息子ではなく部屋から見える空を見た。
(弟よ。必要以上なことをするな。そんなことをすれば国そのものが無くなる。この兄の願い。それだけは守ってもらいたいものだ。それ以外は好きにするが良い)
成師に対しそう思いながら彼は目を閉じた。彼にとって弟は危険な存在であり、認めるべき才気を有していた男である。
兄弟とは血のつながりを持っているために時に信頼し合い、時に憎み合うものだ。彼もまた弟と近すぎた。近すぎればぶつかるしかない。
(どこかで妥協はできなかったのか……もう遅いがな)
ふっと笑った後、彼の目が開くことはなかった。最後に兄らしいことができただろうかと思いながら……
文候の後を継いだ昭候は首都を絳城から翼城に遷都した。
紀元前745年
翼城にて、玉座に座る昭候に頭を垂れる男がいる。その男は昭候によく似ている。そう彼こそが文侯の弟である成師である。
昭候は叔父に笑みを浮かべながら、
「叔父上いや成師よ、我はそなたに曲沃を与える」
昭候は成師にそう言った。曲沃は晋の首都である翼城よりも大きい城である。昭侯なりに彼への敬意を見せたつもりだろう。
「謹んでお受け致します」
成師は稽首し、昭候の言葉に謙遜しながらも応じた。昭候に気づかれないように笑みを浮かべながら。
こうして成師は曲沃を得た。以後彼は曲沃の桓叔と呼ばれることになる。その傅(後見人のこと)に
成師は曲沃を得て歓喜した。
(兄に疎まれ続けた私は遂に領地を得た。今まで兄に殺されないように目立たないようにしてきたが、あの憎き兄は死んだ。必ずや私が晋の国主になってやる)
そう思いながら、昭候の元を離れ成師は曲沃に向かった。その姿を見つめる者がいる。師服である。
「国が国として成り立つのは根本が大きく枝葉が小さいからこそだと私は聞いている。天子が国(諸侯)を建て、諸侯は家(卿や大夫)を立て、卿は側室を置き、大夫は次子の家を有し、士は奴隷を有するという上下があってこそ民は上の者に服従し、上の者に悪しき心を抱かない。しかし、晋は諸侯に過ぎないのにも関わらず国を建てた。これは枝葉を大きくするようなもの。この国は永く持たないだろう」
昭候は叔父を敬ったつもりであろうが、それによって上下の形を崩してしまった。昭侯は自ら乱の兆しを作ってしまったのである。彼は父である文侯の非情さを持つことができなかった。文侯は兄として、肉親として非情の人であったが、最後まで乱の芽を萌芽させなかったという点において君主として素晴らしかった。
君主が国を保つことにおいて叔父を敬うような感情は必要ないのかもしれない。
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