第3話  衛の武公

紀元前770年


暴君であった幽王ゆうおうが倒れ、息子の宜臼ぎきゅう平王へいおうとして即位した。そのため周王朝に平穏が訪れたように見えた。しかしながら幽王の死後も混乱は続く。


 西虢公・郭翰かくかんが幽王の子である王子・余臣よしんを鎬京(鎬京は後の長安)で即位させた。これを携王けいおうと言う。


 彼は申候しんこうが幽王を攻めている時から動いており、平王の即位とほぼ同時に即位させたのだ。


 こうして天下に周王が二人いることになってしまった。


「天に二人の王がいてはならない」


 そのため双方は真の後継者は自分であると主張し争うようになった。


 ここで注目するべきは平王も携王も諸侯によって即位させられたということである。王の権力よりも諸侯の方が強くなっている証拠であり、この平王と携王の争いは諸侯による争いと言える。


 だが、諸侯の動きは意外にも鈍かった。何故ならば幽王の死後、各地で混乱が起きており、それを鎮圧しなければならなかったためである。これを鎮めるのは本来、周王朝が行うべきなのだが、今の周王朝にはその力はない。そのため諸侯たちがそれぞれ解決しなければならない問題となっていた。


 それによって両派による血で血を洗うような激しい争いは無く、逆に比較的平和であった。戦がなかったわけではなく、その中で敗れた国が少しずつ消えて行き、生き残った国は強く、そして、周王朝の力なく、自国の運営を行える自身をつけ始めていくのである。


 紀元前769年


 邢侯けいこうが北戎を打ち破った。幽王死後の混乱の中、異民族も各地に暴れまわっており、諸侯はこの態様にも追われた。


 また、平王擁立に力を貸した鄭の武公ぶこうは王子・多父たほと共に鄶を攻めた。


 以前武公の父・桓公が東虢(西虢公の国ではない)と鄶に預けた国民を彼は戻すよう二国に要求していた。しかしながら、両国はそれを拒否した。


「我が国の民を渡さないとはどういうことだ」


 武公は憤りを顕にすると平王に訴え、王軍と共にまず鄶を滅ぼしたのである。そして、鄶の首都だった新鄭を新たな首都にした。


 紀元前768年


 斉が祝を滅ぼした。斉が祝を滅ぼした理由はわからないが祝が携王派だったのだろうか。


 紀元前767年


 鄭の武公は鄶に引き続いて東虢を滅ぼした。今回は己の軍のみで勝利した。


 これにより鄭の武公は元の国民を取り戻し、さらに二つの国を滅ぼしたことで鄭の兵の強さを示した。二カ国の内、東虢は決して、小さな国ではない。それを滅ぼしたのは大きな意味を持っている。


 強さを見せた彼に平王はその功績を称え、その地を正式に鄭の領土として与えられた。これにより武公の平王政権での影響力は強くなっていた。


 平王とて、影響力を強める武公に不満がないわけではないが彼の父・桓公だけが幽王を助けに行ったことから義人の息子としての面も彼の影響力を高めている。


 彼の対抗馬になるべきほかの諸侯が次々と代変わりをしていることも大きい。


 紀元前766年


 平王擁立に功があった秦の襄公じょうこうが犬戎を攻めたおり、岐山で亡くなった。平王を護った一人である彼が岐山で死んだのである。


 平王を助けた諸侯の中で大きな権力を持ち、信頼があった襄公が亡くなり、もう一人の衛の武公ぶこうに関しては老年である。


 そのため鄭の武公が平王派の筆頭となっていた。


(悔しいが今の王朝は諸侯の支えがなければならない)


 本来であれば周王朝の権威を諸侯が上回ってはならない。しかし、諸侯の助け無くして、今の自分は王位にはいなかっただろう。


(我慢するしかない)


 平王という人はこのように我慢をし続けることになる。


 紀元前763年


 平王が苦しんでいく中、鄭は大きく、勢力を伸ばしていった。鄭の武公は胡を攻め滅ぼした。この時、彼は謀略を行っている。


 経緯は以下の通りである。元々武公は胡を滅ぼそうと考えていた。そこで自身の娘を嫁がせてまず胡に対し友好的であることを示し、油断を誘った。その後、武公は群臣に問うた。


「私は兵を用いたいと思うがどこを攻めるべきか?」


 群臣の中からこの問いに答えたのは大夫の関其思かんきしである。


「胡を攻めるべきです」


 関其思の意見は正しい。なぜならば、その胡を滅ぼすことを一番に欲していたのは鄭の武公自身なのである。しかしながら、己の主が望む答えを言うことが必ずしも正解ではないようだ。武公は彼の進言に激怒した。


「胡は我が国とは兄弟の国である。兄弟の国を攻めろとはどういうことか」


 鄭の武公は怒りをあらわにしながら臣下に関其思の処刑を命じ実行させた。胡はこのことを知ると鄭との友好を信じて鄭への備えを疎かにするようになった。鄭の武公はこれを知ると自分の思った通りになったためほくそ笑んだ。


 関其思を殺したのは胡を油断させるための彼の策だったのだ。


 鄭の武公は胡国を急襲し、滅ぼした。一人の臣下を殺し一国を取るとは鄭の武公の謀略のなんと凄まじいことか。


 紀元前762年


 鄭の武公が力をつける中、宋でも大きな戦が起こった。長狄が宋を攻めたのである。長狄は斉と衛の北部にいる部族である。そんな彼らが宋を攻めたため宋の武公ぶこうが軍を率いてこれを向かい打った。


 結果、長狄の敵大将を捕らえ勝利したが武公の兄弟や臣下の多くが戦死したという辛勝であった。


 紀元前760年


 曹の恵伯けいはくが亡くなり息子の曹石甫そうせきほが後を継ぐが彼の弟の曹武そうぶはそのことに不満を持ち、兄を殺して後を継いだ。これを曹の繆公ぼくこうという。


 紀元前758年


 衛の武公が亡くなった。


 衛の武公は兄を殺し、国主になった男だったのだが、多くの人に慕われた人物と言われていた。衛の武公は常に臣下たちにこう言っていた。


「臣下たちよ。私が老いぼれとは言え、常に私に諫言して私を諌めよ。私への諫言は一言二言とはいえ記録せよ」


 臣下たちはこの武公の言葉通り、高い地位の臣から低い地位の臣まで武公に諫言して彼を諌めて全て記録された。


 この武公のあり方を多くの人は称え、武公に「叡聖武公えいせいぶこう」という諡が与えられた。


「叡聖」とは周王朝の王室のみに与える諡で、本来一介の諸侯に与えられる物でなかった。これだけ見ても武公がどれほど慕われ、努力をしてきた人物であることがわかる。


 武公の遺体が埋葬されているのを、目を真っ赤にしながら見ている者がいる。彼の名を石碏せきしゃくという。


「偉大な方が亡くなれてしまった」


 石碏はとても武公を尊敬していた。そのため武公の死をとても嘆いていた。だが彼は衛国の政治を支える者である。いつまでも嘆いてはいられない。


「私は身命を賭して如何なる代償を払ったとしてもこの国を支えます。だからこそ、主よ。安心してお眠りください」


 そう石碏は心に誓った。この誓いをもしかしたら、天は知ったのかもしれない。何故ならば後にその誓い通りの状況が置き、彼は大きな代償を払い国を守ろうとするのである。


 もしかしたらそれは天命という名の試練であったのかも知れない。


 武公の後を継いだのは衛の荘公である。

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