第2話 鄭の桓公

 紀元前771年


 周の幽王ゆうおうは息子の宜臼ぎきゅう申候しんこうの元に出奔したことを知ると申候を討伐しようと考えた。そのことを知った申候は激怒し。彼は犬戎と結ぶと幽王のいる王都に攻め込んだ。


 本来、己の主君に兵を向けることは臣下として不義と言うべきであり、やってはならない行為ではあるが、


(あのような女のために既に決めた后と太子を廃し、息子が私の国に出奔し匿えば、私の国を攻めようとする。何という男か。あのような者を王として許すわけにはいかない。あの男を殺し、宜臼様を王位につける)


 申候にとって先に不義を行ったのは幽王の方であり自分には大義名分があると考えている。そのため自分の行動は何らおかしなことはない。


(天命は我に有り)


 彼は犬戎と共に兵を動かした。


 しかし、こう考えてみると申候の行動の速さには驚かされる。なぜなら幽王が兵を出す前に先手を打って王都を攻めたのだからだ。彼の元に優秀な間者でもいたのだろうか。 もしかしたら王都で幽王に不満を持っている者がいてその者が申候に伝えたのだろうか?


 それもまた、幽王に天命が離れたという証拠なのかも知れない。


 申候が王都に迫まった。これに幽王は大いに驚き、諸侯に危機を伝えるために狼煙を上げた。それを見た諸侯たちはと言えば、


 「どうせ、また后のお遊びに付き合わせるだけであろう。行かなくとも良いな」


 このように幽王は褒姒ほうじを笑わすためだけに散々狼煙を上げていたことから本当の意味で危険を知らせるための狼煙に対して、諸侯たちは今回も褒姒のための狼煙だと考え、諸侯たちは王都に駆けつけなかったのである。


 虚を突かれたため、王都の守備は脆い。そのため申候によって王都は瞬く間に落され、幽王は褒姒や数名の臣下と共に脱出した。


(おのれ、諸侯共は、なぜ私を助けないのだ)


 そう幽王は憤るがそれはあまりにも理不尽であろう。しかし、幽王という男は諸侯への怒りを現わすだけである。


 幽王が死んでいないことを知った申候らは幽王を追った。


 必死に逃げる幽王らにある一軍が近づいた。その一軍が掲げる旗には鄭の文字が書かれていた。


 鄭の国主は幽王の父で、宣王の弟である姫友きゆうこと鄭の桓公かんこうである。つまり、幽王にとって、彼は叔父にあたる。その彼が諸侯たちの中で唯一、援軍としてやって来てくれたのである。


「よくぞ参ってくれたぞ」


 幽王は彼が来てくれたことに喜んだ。


「ありがたきお言葉でございます陛下」


 桓公は幽王に拝礼し、言った。桓公は髪も髭も白く老年といっても良い風貌だが目は鋭く体はしっかりしている。また政治家としても優秀で鄭の国民にとても慕われている男である。


「だが兵の数が少なくはないか?」


 幽王は彼の後ろにいる連れて来た兵を見てそう言った。確かに桓公の兵は少なかった。


「ご心配ありません。陛下を助けるために急いで参ったため、ここにいる兵は少ないのです。後から息子が多くの兵を引き連れて参ります」


 桓公はそう言ったが彼の言葉は噓である。なぜなら息子は兵を引き連れて幽王の元には来ないからだ。そして、それを命じたのは彼自身である。少し時は遡る。


「父上、東虢と鄶に民を預かってもらうことができました」


「そうか。これで心置きなく、行ける。後は頼む」


 桓公は椅子から立ち上がり、幽王の元に駆けつけようとすると、


「父上。なぜ陛下を助けに参るのですか。今回の件は申候に正義がございます。行くのは御止めください」


 幽王の元に駆けつけようとする父・桓公を止めるのは掘突くつとつこと後の鄭の武公ぶこうである。


「確かにそうだな。陛下から天命が離れようとしている。だが、私は陛下に司徒に任命された者として陛下の元に参らぬ訳にはいかないのだ」


 因みに桓公が司徒に任命されたのは紀元前774年である。


「父上‥…わかりました。ならば私も……」


「否、お前は残れ」


 掘突が父と共に行こうとするのを彼は止めた。


「なぜ止めるのですか?」


「お前には東虢と鄶に預けた国民をまとめてもらわなくてはならぬ。もし、その二国が民を返さなければ二国を滅ぼせ」


 毅然とした態度で桓公は息子に言う。因みに国民をなぜほかの国に預けているのかはこの鄭の一帯が戦乱に巻き込まれると考えたためである。


「ならば私よりも父上が残ったほうが」


「いや、私はもう老いた身、若いお前が生きて鄭を保て、私は死んで義を示す」


「父上……」


 悲しそうに掘突は父を見た。何故、愚かな王のために父が死ななければならないのか。かつて、周の武王は天命を失った商の紂王を討った。申侯もまた、天命を失った王を討とうしているだけではないか。


 そんな眼を自分に向ける息子に対し、


「それに……いや何でもない」


 桓公は言葉を発しようとしたがやめた。


(いかに陛下が暴君であろうとも、天命を失ったとしても陛下のために戦い死ぬ臣下が一人もいないのでは陛下が可哀想ではないか……)


 武王に討たれた紂王とて、彼のために戦い死んだ者は多かった。暴君として、名を残した紂王ために死んだ者がいるのならば、幽王のために死ぬ者がいてもいいではないか。


 そう考えると桓公の心の中にある幽王のために死ぬことへの恐怖が薄れていくのを感じる。


 (これが私に下された天命なのではないだろうか)


 天命に逆らってはいけないのだ。


「息子よ、民を頼むぞ」


「父上……」


 涙を流す息子を背にして、彼は幽王の元に駆けつけた。


 息子との会話を思い出しながら桓公は幽王に言った。


「では陛下、この先にお進みください。ここは私が喰い止めます」


「わかった」


 幽王は彼に言われ供を連れ驪山へと向かった。


「さて、勇猛なる我が兵たちよ。陣を張れ、ここで敵を喰い止める」


 彼は幽王が来た方角を向いて兵士たちに命じた。しばらくすると、たくさんの足音や馬鉄の音が聞こえ始めた。


(来たか)


 音がする方角へ、目を向けると申の文字が書かれた文字と犬戎たちの馬が見えた。


「槍を構えよ。来るぞ、かかれぇ」


 桓公の兵士たちは彼らに襲い掛かった。


「まさか、あの王のために兵を率いる者がいるとはな」


 申侯は鄭の文字が書かれた旗を睨む。


「愚か、愚か、天命は私にある。かかれぇ」


 最初は桓公の兵が現れ驚いた申候と犬戎の兵たち、しかしながら彼らの方が兵の数では上であり。幾ら桓公の兵が勇猛なるものの次第に討たれ始めていく。だが、


「何故、崩せんのだ」


 桓公の兵は彼らの兵を前に中々、崩れず対抗してきた。


「包囲せよ。そして、彼らを殺せ」


(包囲され始めたか)


 桓公は剣を振るい続けながら周囲の敵兵を見ながら思う。しかしながら彼の剣の腕は老年ながら見事である。次々と敵兵を殺していく。


 だが、次第に包囲され、味方の兵たちは殺されていく。彼も年と敵の数には勝てない。次第に敵兵に押されていき、後ろから脇腹を槍で貫かれた。その後、前からも剣をもった兵が殺到し胸を剣で刺す。


「ふん」


 しかし、剣で彼は目の前の兵を切り捨て、返す刃で後ろの兵を切り裂いた。血が流れるのを気にせず彼は胸に刺さった剣を抜く。


「どうした次はどいつか」


 血を吐きながらも彼の言葉から発せられる気迫に兵士たちは後ずさりし始める。


(化物か)


 そんな考えが浮かび、恐怖する兵に申侯は叫ぶ。


「何をしている相手はたかが一人だぞかかれぇ」


 それにより、申侯の兵は桓公に殺到し、多数の槍が彼を貫く。それでも彼は剣を振ろうとするが、矢が放たれ、剣を持っていた手に刺さり、剣を離して、そのまま彼は倒れた。


(ここまでか……)


 ふと、彼は倒れ込んだところに花があるのを見た。小さいながらも綺麗な花であった。


(存分に死に場所に花を咲かした……後は後世において私の名はどう残るのか……愚かにも無駄死にした男か……それとも……」


 桓公はそのまま絶命した。それを見ながら申侯は呟いた。


「見事だ。このような男だったとはな」


 申侯はしばらくじっと桓公を見た後、兵に追撃を命じた。驪山の麓で幽王を捕まえると幽王の首を落とした。


 その後、申侯は秦の襄公じょうこう、衛の武公ぶこう、鄭の武公ら諸侯と護りつつ、以前の都が乱によって荒らされたため洛邑(後の洛陽)へ周王朝の都に遷都し、宜臼を即位させた。即位した宜臼を周の平王へいおうと言う。


 彼の即位以前の周を西周と言い、以後を東周、又は春秋時代と呼ばれる時代となっていく。


 申侯は平王即位の功労者であったが、引退を願い政権を降りた。


「何故、あなた様は引退されたのですか?」


 鄭の武公が聞くと、彼はそれについては何も言わずただ一言、


「お前の父は立派であった」


 と、言った。鄭の武公は彼に静かに拝礼した。その後、武公は申侯の娘を娶ることになる。


 因みに傾国の美女・褒姒はその生死については諸説あり不明である。







 青い牛に乗った男が袋をもって森の中を進んでいた。


「やれやれ、これからは人の世である故な、眠ってもらうぞ」


 男はそう言って袋を地中深くに埋めた。












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