ヤナーチェクのシンフォニエッタ

増田朋美

ヤナーチェクのシンフォニエッタ

ヤナーチェクのシンフォニエッタ

今日も鱗太郎はがっかりした顔で富士市民会館を出た。

「あーあ、全くなあ。どうしてみんなやる気がでないんだろう。」

そう一つため息をつく。なんでまた、今頃になって、曲を変えてくれというんだろう。そんなに俺は、難しい曲をバンドに課しただろうか?

今日も、スコアをもって練習に行ったら、オーケストラのメンバーたち、血相を変えて集まってきて、こんなことをいったのだ。

「先生、一寸お願いします。今回の音楽祭りの曲、余りに難しすぎるので、ほかの曲に変えていただきたく思います。」

どういう事だと思ったが、とりあえず彼らの話を聞くことにする。

「この曲は、一寸難しすぎるんですよ。金管楽器の人たちは息が続かないって言ってるし。この最初のファンファーレ、息が苦しいとみんな言ってますよ。其れなら、古典派の楽曲をやればいいでしょう?そんな難しい曲、なんでわざわざやらなきゃいけないんですか。それほど、その音楽祭りというのは重大な事でしょうかね。」

と、ちょっと口が悪い女性のバイオリニストがいった。

「だけどねエ。それでは、新しく入った方もいるじゃないですか。そういう方のためにも、新しい曲をやりましょうよ。」

鱗太郎はそういったが、

「ですけれども、先生、新しい人には、むかしやった事のある曲をやればいいでしょう。もう、このバンドは、年をとってたいへんなんです。プロのオーケストラじゃないんですから、そんなに難しい曲は弾かなくていいのではありませんか?」

「そうですよ。それに、僕たちは、普段は仕事もありますし、新しい曲に取り組んでいる暇はなかなかないんですよ。」

二人のビオリストにそういわれて、がっかりと落ち込んだ。

「だけど、折角の音楽祭り何ですし、こういう華やかな曲をやってもいいんじゃありませんか?いつもいつも、モーツァルトとか、ハイドンの交響曲で満足せずに、音楽祭り何ですから、たまにはこういう現代曲をやってもいいと思うんですけどね。この曲、そんなに嫌かなあ。」

鱗太郎は、スコアを取り出して眺めてみた。タイトルは「シンフォニエッタ」、作曲者はレオシュ・ヤナーチェク。

「あーあ、皆さんなら出来るかなあと思って、折角やってみようと思ったんですがね。やっぱりだめですか。」

「そうですよ。こんな訳の分からないメロディ、演奏させて一体誰が喜ぶと思っているんですか!」

と、一寸気位の高いフルーティストが、高飛車にいった。若い人だったらこういう曲をおもしろいと言って飛びついてくるのだが、年寄りではただの訳の分からない曲で終ってしまうらしい。

「そういう訳ですから、広上先生。こんな訳の分からなくて、しかも難しい曲、早くおしまいにして、いつも通りの古典派の合奏曲にしましょうよ。」

始めのバイオリニストがそういうと、オーケストラのメンバーたちは、其れでお願いしますと言いたげに、鱗太郎を見た。

「仕方ありませんな。皆さんにはまだヤナーチェクのシンフォニエッタは無理という事で、次に回します。」

「次になんかしなくていいです。あんな訳の分からない曲、あたし、吹きたくありませんから!」

あの高飛車なフルーティストがそういうと、

「僕も、この最初のファンファーレはとても息が続きませんよ。」

と、老人のトランペット奏者も後に続いた。それを合図に、金管楽器の奏者たちは、口々にこの曲は体力が続かないと不満を漏らし始めた。弦楽器の奏者たちは、メロディがわけがわからないと言い出す始末だし、鱗太郎は選曲を間違えたなと思わざるを得なかった。

「しかし。」

と、途中ではっと思い出す。

「音楽祭りでは、我々の持ち時間は、一時間近くあるのです。それをどうしたらいいですかね。このシンフォニエッタを撤回させて、ハイドンの交響曲のみになったら30分近く時間が余ってしまうことになります。それではほかの曲をやるしかありませんね。どうでしょう、シンフォニエッタに代わる何か、やってみたい曲がある人は、手をあげてくれませんか。」

それでは、と期待するが、誰も手を上げなかった。代わりに、さっきのトランペット奏者が、こんなことを言い出す。

「一曲でいいじゃありませんか。だってハイドンの交響曲だって、一楽章から四楽章まであるんですよ。其れだけ練習するのもたいへんですし。」

「そうですよ!あたしたちはもう高齢なんですから、一曲だけ出演させてもらえば、其れで十分です。」

別のバイオリニストが、そういうことを言った。

「広上先生、僕たちが、一時間大曲を二つも演奏するのではなくて、どこか別のオーケストラに、何か演奏させるのが良いんじゃありませんか?」

先ほどのビオリストがそういうと、ほかの奏者たちも、そうねえそれが一番ねエ、と彼に同情した。皆、あたしたちは、仕事があるしとか、プロじゃないんだから、そんなに真剣にやる必要もないでしょとか、そういうことを言っている。みんな楽器を極めたいのではなく、音楽をただ楽しみたいという目的だけでここに来ていて、ちょっとした交響曲とか、そういうことをやれば、其れでいいのだった。そして自分たちの出来ないことになると、すぐ他があるからとか言いだす。しかし、問題はもう一つあって、富士市には、アマチュアのバンドというのは幾つかあることにはあるのだが、シンフォニエッタを演奏出来るほどの技術がありそうなバンドは何もないという事だった。

「他を頼むと言ったって、ほかにオーケストラは何もありませんよ。」

「先生は知らないだけなんですよ。若しかしたら、先生の知らないところで何か活動しているアマチュアバンドは一杯あるんじゃありませんか。それでは、先生がお探しになったらどうでしょう。きっと、一つか二つは、いいところがあると思いますよ。」

まるでクイズ番組の司会者のように、ビオリストが発言した。そういう訳じゃないんだけどねえ、と鱗太郎は言いたかったが、もう年寄りたちにやり込められてしまって、反論は出来ないなと、鱗太郎はそれ以上いう事が出来なかった。

そういう訳で富士市民会館を出たのであるが、これからどうやって、バンドを見つけてくればいいのか、見当も付かなかった。とりあえず喫茶店に入って、椅子に座らせてもらい、タブレットを取り出す。動画サイトを見て、富士市の市民バンドで検索し、幾つか投稿されている動画を見るが、とても、今のバンドに追いつけそうな実力は持っていないので、音楽祭りに出させようという気にはならない。

「あーあ、困ったなあ。どうやったら見つけられるのだろうか。」

一生懸命動画サイトを動かしていたので、いつの間にか時間が経ってしまっているのも忘れてしまった。

「ちょ、ちょっとさ、影浦先生、いいところに来てくれたね。そこにいる変なお客さんを追い出して頂戴よ。いくら注文を聞いても動画サイトに顔をつけて、全く反応してくれないんだよ。」

ふいに、そんな声が聞こえてくる。そんな変な客は誰の事なんだと全く気にしないでいたのだが、

「はあ、どの人ですか?」

と、影浦先生が言っているのが聞こえてきて、

「あの、一番奥の席で、詰襟の服を着てボケっとしている人。」

という説明があったので、

「あ、俺の事か!」

と、やっと自分が長居をし過ぎたのに気が付く。

「ほら、やっと気が付いてくれたようだよ。影浦先生、早く追い出して。先生は、心のお医者さんなんだから、変な人を追い出すのは得意でしょ。」

店のおばさんにそういわれて、慌てて帰り支度をする鱗太郎だが、

「あれれ、広上さんじゃないですか?」

と、影浦に言われて、一瞬ギクッとした。影浦は、鱗太郎の隣の席まで歩いてきて、

「有名な方が無銭飲食とはいけませんね。」

影浦は、隣の席に座ってもいいか、と聞いたので鱗太郎はおもわず、はいと言った。

「とりあえず、注文はしましょうね。無銭飲食はいけませんよ。」

影浦に言われて、鱗太郎はコーヒーを一杯だけ注文した。店のおばさんは、やっとかい、という顔をして、厨房にもどっていった。

「一体どうしたんですか。そんな所でボケっとして。」

影浦に聞かれて、もう自分は話さなければならないなと思う。

「いやな、今度の音楽祭りの出場枠が余ってしまったので、どこか有能なバンドに出てもらえないかと思って、それを探してました。」

正直に自分の悩みを言った。

「そうですか。まあ、僕も音楽はすきなので、音楽バンドの演奏会とか、聞きに行くんですが、ものすごく上手と言えるバンドには巡り合った事はありません。吉原の方へ行けば意識が高いバンドがあるようですが、今はほとんどのメンバーが高齢化して、こちらで演奏するのが大義になったようで。」

と、影浦は言った。どういう訳か、意識の高いバンドというのは、必ず挟まってくる単語として、高齢化というのがあった。何でなのだろう。

「今は、若い人が積極的にバンドを組もうというのは、少なくなりましたよ。其れよりも、少人数で集まって友達になるサークルの方が人気があるようです。みんな大人数でなにかというより、狭くて深い付き合いを求めている見たい。」

「影浦先生。吉原でも何処でもいいですから、その意識の高いバンドというのを教えてもらえませんでしょうかね。」

鱗太郎は、そう影浦先生に懇願した。

「うーんそうですね。僕も詳しくないのですが、まあ、あるとしたら、うちの病院の近くで結成したバンドでしょうか。40人程度に満たない小さなオーケストラですが、一人一人、音楽に対して真摯に取り組んでいる見たいですよ。でも、彼らをあなたが受け入れるかどうかは、また別問題でしょう。そういう世界的に有名なあなたが、ああいうバンドをバンドとして認める事が出来るのでしょうかね。」

と、影浦先生は、しっかりとこたえた。それは何だか鱗太郎を試しているような口調であった。

「それは動画サイトに演奏を投稿しているのでしょうか?」

「いえ、していません。勿論、演奏活動はしているのですが、彼らはバッシングが嫌で投稿しないと言っております。」

「り、理由は何でしょうか。バンド活動しているのであれば、それを広めるために、動画サイトに当たり前のように投稿しているはずですが?」

「ええ、お話しましょうか。彼らには、精神疾患があるからです。」

影浦はさらりとこたえた。

「音楽をとおして、治療をするために活動しているバンドですよ。ですから、一人一人は真摯に活動しているのは間違いありませんが、広上先生のような方は、ことごとく馬鹿にするんじゃないですか、そういうバンド。実際、彼らはコンクールに出場して、そういうことをされた経験もあるようです。僕の病院にも、メンバーが何人か来ているので、時折彼らの話を聞くんですが、彼らはそのようないきさつから、彼らだけでひっそりと活動しているようですよ。どうですか広上さん、そういう障害のある方を音楽祭りに出させる訳にはいかん、と言って、お怒りになるのではありませんか?」

鱗太郎は、答えにまよった。確かにむかしの自分であれば、そういうバンドと関わることは出来るだけ避けていたが、でも、今はそういうことを言っては居られないし、それに、そういう真摯に取り組んでいるバンドと鉢合わせすれば、高齢のバンドたちもやる気を出してくれるのではないか、という考えも浮かんだ。

「ほら、やっぱりね。世界的に有名なあなたに、そういうバンドは受け入れられませんよね。あなたたちのような人は、こういう人と関わるのは出来るだけ避けたいと願うでしょうし。」

影浦はそういうが、鱗太郎は、急いで首を横に振る。

「いや、もうちょっと詳しく教えてもらいたい。勿論、障害があるゆえに出来ない事も多いだろうが、その分、繊細で優しい演奏を聞かせてくれるはずだ。もう一回聞きますが、影浦先生、そのバンドは何を練習しているのか、教えてくれませんか?」

「ええ、メンバーが診察の時に話していましたが、ヤナーチェクのシンフォニエッタだそうです。」

鱗太郎は天にも上る気持になった。そしておばちゃんが持ってきてくれたコーヒーをガブッと飲み干した。

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ヤナーチェクのシンフォニエッタ 増田朋美 @masubuchi4996

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