第12話 喜貌の懺骸
第三章
一
その男の笑顔は、ただひたすらに暗かった。
彼はきっと、楽しいから笑うのではない。彼の笑顔はきっと、その全てが何かを嘲笑うためにある。
「なに、私は君と同じだよ。この世に好ましいと思える存在がないだけだ。にも関わらず笑うという行為だけは習得しているから、不気味になるのも道理というものだろう?」
——男はそう言って。
きっと僕を、自分が漂う
二
深々と、地獄まで続いているんじゃないかと思うほどに長い廊下。僕はそれを延々と歩いていた。
またもここは地下らしい。
薄暗い上に壁なども古いようで、亡霊でも潜んでいそうな雰囲気だったが、空間そのもの思ったより広い。廊下の端には十メートルごとに扉があって、そのどれもが鉄格子の窓が設えられた『牢屋』の出入り口だった。
「ここはいわばパノプティコンの再現だ。ベンサムは知っているか?」
「……この間、ちょうど学校で習いました。パノプティコンって確か、少ない人数で最大の囚人を見張れる、効率のいい刑務所のことですよね」
「一望監視施設。最低限で最大限を監視する監獄。ヒトを数値として計測し、もっとも効率のいい状況を作り出す。根底にあるのはそんな量的功利主義の考えだ。
「——はあ」
僕はそうして、中身のない返事を返すしかない。懺骸を捕らえた牢獄――なんて言われても、そんな言葉はあまりに日常からかけ離れすぎているわけで、実感なんて湧くはずがない。
ただこの場所は、並み一通りでなく澱んでいた。
人の悪意が意思を持って漂っているような薄寒さが、肌を舐めとっていくような感覚がある。それは誰かの顔に仮面が現れるときの肌寒さに似ていた。
仮面とは人の悪意が形を成したモノ。そして懺骸とは、仮面を被った犯罪者を指す言葉。
ならば懺骸を収容するというこの場所が、深く澱んでいるのも当然の話かもしれない。
廊下を歩き終えると、突き当りにはエレベーターがあった。鷺山さんに倣ってそれに乗り込むと、箱は下降を始める。
「……なんか、随分古い施設ですね」
一メートル降りるごとに発生するごうん、という鈍い音を聞きながら、僕は言った。
「ここにはもともと採掘場が作られる予定だったが、三十年ほど前にバブルの煽りを受けて計画が倒れたらしい。後には広大な地下空間だけが残り、そこを仮特課が買い取ったのが始まりだ。古いのも仕方がない」
「懺骸が収容されてる監獄って言うのは解ったんですけど、僕はここで何をするんですか?」
「ある囚人と会ってもらう。まあカウンセリングのようなものだな」
鷺山さんがそう言ったのと同時に、がこん、と音がしてエレベーターが停止した。扉が開くと、目の前に広がっていたのはまたも薄暗い廊下だった。
「囚人って、その人も懺骸なんですよね。危険は無いんですか?」
「ここは施設そのものは古いが、仮特課が管理を始めたのはほんの五年前のことだ。管理設備には信頼を置いてくれていい。扉は指紋と網膜チェックの二重鍵。独房は二十四時間体制で遠隔監視され、異常があれば電流が流れるようになっている。懺骸と言えど人間である以上は、これを易々と抜けることはできない。
ただ一つ言っておくがな。渦羽根くん、この先で君が会う奴だけは別だ、と言うことは了解しておいてほしい」
「別、って言うと?」
「鍵や電流が全く意味を成さないんだよ。そう言う懺骸がいる」
全く表情を変えずに言われて、僕は思わず眉を顰める。
「安全なんじゃないんですか?」
「安全だ。そいつはいつでも君を殺せるが、君を殺すことはない。温厚だからな。
……ただ、奴は君に直接手を出すことはないだろうが、話す時には注意しろ。相手はそうだな、簡単に言えば詐欺の天才だと思えばいい。軽い認識で言葉を交わすと、それだけで意識を変えられかねない」
そんな恐ろしいことを、鷺山さんは素面で言う。
普段に聞いたら笑ってしまいそうだったが、この場合は笑い事ではない。何しろこれから会う相手は、
だからこそ、仮特課を束ねる長だという鷺山さんの言葉を、軽く捉えることはできない。
「そいつには、君が羽月と出会ってから先日の襲撃で仮面を発現した時まで、分かる限りの状況をもう伝えてある。訊きたいことを訊けばそのまま答えてくれる」
「……その人のこと、よく知ってるんですか?」
ふと気になって、僕は尋ねてみた。すると鷺山さんは、僅かに語調を硬いものにして、
「ああ。恐らくは奴自身を除いて、この世で最も奴を理解している」
そう答えた。
その言葉は冷たく厳格でありながら、どこか昔を懐古するような悲しさに満ちていた気がした。
……僕と同じ、『喜貌の仮面』を発現した犯罪者。
それがどれほど凶悪な存在なのか、まだ会ってすらいない僕には、当然ながら全く理解できていなかった。
*
厚い鉄の扉には、鍵が掛かっていなかった。
この先にいるのは仮にも懺骸たちを束ねるリーダーで、事実、僕たちは地下深くにまで降りてきたというのに、肝心の檻に鍵がない。この時点でとうに、常識的な状況というものは破綻している。
扉を開けると、その中の景色もやはり異様だった。
中央をガラスに隔てられた、全面コンクリートの空間。それだけ見ると留置所の面会室のようだが、どうにもそのガラスの向こう側がおかしい。
有り体に言って、向こう側にあるのは『部屋』だ。ソファーがあり、テーブルがあり、ベッドがある。どうしようもなく陰鬱な雰囲気の漂うこの場所において、その存在感は抜群に異彩を放っていた。
「遅いぞ、鷺山。二分遅刻だ」
時計のないその部屋の中で、男は高らかに言った。
囚人服でも着ていて然るべき立場だろうに、彼の身を包んでいるのは見るからに高級そうな紺のコートだった。色が抜け落ちたような白髪は真っ直ぐに整えられ、閉じられた環境を感じさせない。
そしてこちらに向けられたその顔は、不安になるほど優しかった。
「聞いたぞ、カサネのやつがお前らの施設を襲ったらしいな。あの馬鹿め、少しは大人しくできないのか」
飄々と、しかし落ち着いた声で、男は鷺山さんにそう語りかけた。
鷺山さんはガラスの手前にまで歩み寄り、黙ったまま面会用の椅子に腰掛ける。
「あの子はお前を探しているようだったが。『計画』を伝えていないのか?」
「あいつは何も知らないさ、計画など何も無いんだから」
「ならばどうして自ら捕まった」
「犯罪者が自首するのに理由が必要か?大人しく喜べばいいものを。お前らが首ったけになって探していた私が、自ら懐に飛び込んでやったんだ。
それはそうと、伝言を頼んだよな。私を探す部下に会ったら、『自首したので探しに来るな』と。言わなかったのか、馬鹿者め」
「相手は挑発としか取らないだろう。くだらない事を言うな」
「まあだろうな。あれは思い込むと止まらない
——で?そっちの少年が、『喜貌』の発現者か」
そう言って、男は初めて僕の方に視線を向けてきた。
目があって、思わず生唾を飲み込む。あくまで柔和な笑みを浮かべているというのに、その顔は果てがなく恐ろしかった。不安という概念が人の形をして喋っているようだ。
「
それが僕と、京楽譲——つまりは
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