第10話 敵

 幸いと言うべきか、扉に鍵はかかっていなかった。何の抵抗もなくドアノブはくるりと回り、僕はそのまま雪崩れ込むように部屋の外へと飛び出す。

 そうして目にしたのは、惨憺たる破壊の傷跡に他ならなかった。

 そこは先ほどまでの部屋と同じく、全面がコンクリートで作られた廊下だった。どうやらここは巳波が言っていた通りの地下らしく、辺りには窓もなく、光源は白色の蛍光灯に頼っている。……が、僕が経った今開けた扉の目の前だけには、燦々と太陽の光が注がれていた。

 何しろ、天井に大きな穴が開いている。

 目の前に瓦礫が積み上がっているのを見る限り、上から突き破られるようにして破壊されたらしい。周囲には息をするにも苦労するほどの粉塵が巻き上げられ、視界のほとんどを塞いでいた。

 しかしそれが晴れるにつれ、周囲の状況は嫌が応にも鮮明になる。

[……ッ、巳波!」

 それを見て、僕は思わず叫んでしまう。だって仕方がない、すぐ目の前でたった今、巳波は首を締めあげられている、、、、、、、、、、、のだから。

 眼前の瓦礫の山の上には、男がひとり立っていた。そいつが真っ直ぐに伸ばした片手が巳波の首を掴み、彼女の身体をそのまま持ち上げている。

 巳波の顔には、はっきりとした苦悶の表情が浮かんでいた。それを見て反射的に、腹の底から沸々と怒りが湧き上がるのを感じる。何も考えず、その感情を怒鳴ろうとして――、

「――ああ、もう一人いたのか」

 ――その時、男がそう口にした。何かされるような感覚があって、僕は喉まで出かかっていた言葉を押しとどめる。

 それはただ極限に、怖い、、声だった。

 教室で聞いた巳波の声とも、昨夜聞いた仮面の男の声とも、あまりに違う。教室での巳波は僕らにヒトとしての関心を向けていなかったが、同時に敵意も皆無だった。昨夜のあの男の声は、敵意にこそ満ちていたものの、僕らをヒトとして見据え、熱量をもって敵対していた。

 しかし目の前の、こいつは違う。

 こいつの声は僕をヒトとして見なさずに、、、、、、、、、、、、しかし絶対的な殺意を伴っていた、、、、、、、、、、、、、、、

 こいつの中で、きっと僕の存在は虫けらより薄い。その上でしかし、こいつはすでに僕を殺すことを決定している。まるで目障りな蟻を踏もうと決めた子供のような無関心が、殺意が怖ろしい、、、、

 こいつが『敵』であると、僕は本能的に理解した。

 昨夜とは違う、衝動ではなく明確な理由に裏付けられた冷たい敵対が、こいつと『仮特課』の間にはある。

「……放せよ」

 にも拘らず、僕は言った。

 これも多分、『仕方のないこと』だった。

 仮にもクラスメイトが首を絞められているのを前に何もしないなんてことは、人間的にも、それから恐らく男としても許されない気がした。

「お前がクソ野郎だってのは、何となく分かった。だから巳波を放せ」

「放せ?それは命令か?」

 そう答えながら、男はここで初めてこちらを向いた。その顔を見て、僕は目を見開く。


 男の顔は、仮面に覆われていた。

 

 巳波の仮面とはまた随分と印象が違う形だった。顔全体を覆う白色の平面は六角形の形状。その真ん中あたりに三日月のような細い目がある。それ自体は吊り上がった形をしているのだが、その下に涙のような模様があるせいで、酷く悲しそうに見えた。

「もう一度訊く。お前の今の言葉は、命令か?」

 その仮面の奥で、再び声が響く。

 ほんの少し冷静さを取り戻した今、男の声が思ったより若いことに気付く。言うことも行動のもそんな印象は全くないが、その声音だけを聞けば、僕らと同年代にすら思えた。

 少し考えて、僕は口を開く。

「違う、『お願い』だ。お前に物事を強制できる力も、資格も、たぶん僕にはない。だからお願いする。――彼女を放せ、、、、、

「……ふん、気に入らないな」

 そんなことを言いながら、しかし男は次の瞬間、巳波の身体を無造作にこちらへ放り投げた。僕は半ば下敷きになる形で、それを受け止める。

 巳波の体重が身体全体にのしかかったが、その甲斐あって彼女は床に頭を打ち付けずに済んだらしかった。僕はひとまず安堵して、それから瓦礫の上を睨む。

 男はさも興味なさげに、こちらを見下ろしていた。

「ならお前にも訊こう。先生はどこにいる、、、、、、、、?」

「……何だって?」

 質問の意味を理解できず、僕は訊き返す。

「先生はどこにいる、と訊いてるんだ。答えろ」

「……お前、尋問が下手糞な奴だな。ものを尋ねるならせめて、相手に理解できるように訊いてくれ」

 この状況で嫌みを返せる僕も大したものだと思う。もちろん虚勢でしかないが、しかし冷や汗を垂らしてただ震えているよりは、まだ格好がついていただろう。

 どんな状況でも格好つけるのは大事だ。窮地においてどれだけ減らず口を叩けるかというのは、心の強さというものの一つの基準になるように思う。

 そんな言葉を受けて――仮面の奥からこちらを射抜く男の眼差しに、ほんの少しだけ『関心』と呼べるものが生まれたように思えた。

「……一つ勘違いを正しておこう。これは尋問じゃない――」

 男は言いながら片足を上げ、足元に踏み下ろした。それによって瓦礫の山の上部が崩れ、いくつかの小石サイズの欠片が跳ね上がる。

 一番高くまで上がった欠片を、男は空中で掴み取った。彼はそのまま何の変哲もない石ころを、掲げるようにして僕らの方へ突き出す。

「――拷問、、だ」

 その声が僕の耳に届いたのと、僕の首元が言いようのない圧迫感に襲われたのは全く同時のことだった。

「ぐっ!?」

 息苦しさの中で、僕の視界にはありえないモノが映っていた。……否、正確にはそれ自体、、、、はそこにあって然るべきものだ。問題は、それと僕の目との距離だ。

 僅か三十センチほどの間を開けた眼前に、泣き顔の仮面がある。

 つい今まで、僕と男の顔との間にはどう少なく見積もっても一メートル以上の間隔があった。こちらは廊下の壁際に、相手は真ん中より向こう、しかも積み上がった瓦礫の上に立っていた。

 それが突然、息がかかるほどの近さにまで迫っている。

 一瞬の速さで移動したとか、そういう次元じゃない。僕は正真正銘の『瞬間移動』を行っていたとしか思えない。

 そこまで考えて僕は、この息苦しさの原因が、男に首を絞められていることだと気付く。

「っ、お前……何をした!?」

入れ替えた、、、、、んだよ。それが俺の仮面の力だ」

 誇るでもなく淡々と男はそう説明し、そのままさらに僕の首を掴む右手に力を込めていく。

「言え。先生はどこにいる」

「ぐっ……」

 頭がぼんやりとしてくる。脳に供給される酸素が着実に減っている証拠だ。

 切実に理解する。望む答えが得られなければ、こいつは必ず僕を殺す。いや、たとえ望む答えが得られてところで殺すかもしれない。目の前にいるのはそういう判断をしかねない、日常の外にいる人間だ。

 どちらにしろ、可能性があるなら僕は生き残れる方の行動をとるべきだった。

 だがそれは不可能だった。先生という言葉が誰を指すのかさえ、僕には分からない。

「知ら、ない……」

 そう声を絞り出すのが精一杯だった。神に誓って真実だったこの言葉は、しかしこの場面では『回答を拒否する』という意図でしか受け取られない。

 当然、首を掴む手の力はまったく緩まない。どころかますます気道が閉じていくのを感じていた。

 意識が朦朧とするにつれ、物理的に感じられる痛みは弱まっていく。この二つが完全に潰えた時には、きっと僕の命もなくなっているだろう。

「放せ……!」

 最後の力でそう言ったちょうどその瞬間、男は唐突に僕を解放した。

 無論、説得を聞き入れてのことではない。彼はただ、自らに向けられた攻撃を回避するのに僕が邪魔だったから捨てただけだ。

 今まで男が立っていた位置には、先が槍状に尖った触手のようなものが数本まとまって、横合いから介入していた。あのまま僕を捕らえたまま立っていれば、彼の身体は串刺しになっていただろう。

 と、そう認識した矢先、それらの触手は先端を手のように変形させ、僕の身体を持ち上げる。掴むというより下から掬い上げるような動作で、害意は全く感じない。

 数本の『手』はそのまま数メートル、崩れた天井の破片が飛散していない辺りまで僕を運び、ゆっくりと床に下ろした。

 

 

 

 

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