第7話 仮面の正体
第二章 懺骸
一
別に死にたかったわけじゃない。
ただ、生きたい理由が無かっただけ。
でも、彼女に生きる屍などと揶揄された。
お前は生きていないのだと、そう言われた。
それだけで、じゃあ生きれば今より楽しくなるかな、なんて思ってしまった僕は——果てしなく単純なやつなのかもしれない。
二
誰に呼ばれたわけでもなく、ただ毎朝ベッドの上で覚醒するのと同じように、僕は自然と目を覚ました。
重い瞼を持ち上げると、最初に目に映ったのはコンクリートむき出しの天井だった。見間違えかと思って目を擦り、それから上半身を起こす。
そうして辺りを見回すと、そこは六畳間ほどの広さのこじんまりとした部屋だった。家具の類はおろか壁紙すら張られていない、非常に生活感のない場所だ。一目見て牢獄のようだ、と言う感想を覚えた。
「……まあ当たり前だが、全く見覚えのない場所だな」
ひとり呟いて、とりあえずベッドから降りると、床板やフローリングすらないことに気付く。全面がコンクリートだ。思わず気が滅入ってしまい、僕は溜息をついた。
ともかく自分の足で立ち上がって、この狭い部屋を観察する。
全面コンクリートは前述したとおり。天井には二本の蛍光灯が設えられており、そこから放たれる白色の光だけでこの部屋は充分明るく保たれている。耳を澄ますと空調の動く音が聞こえて、室温は暑くも寒くもない適温だった。どういうわけか部屋の隅にはウォーターサーバーがあって、その反対側には水道設備と様式の便器がある。
訂正しよう、『ようだ』ではない。最新設備かつどうやら手厚い扱いを受けているらしいが、ここは紛れもない『牢獄』だった。
「……で、これは何なんだよ」
言いながら僕は、この空間で最も意味が分からない”それ”を見下ろした。
それは見るからに分厚そうなドアだった。ご丁寧に鉄格子の窓まで付いている。見たところこの部屋唯一の出入り口だが、開けることは出来ないだろう。
鍵が掛かっているから、と言うわけではない。というか、僕には鍵が掛かっているかの確認さえできない。
と言うのも、その扉には包帯のようなものが何層にも重なって、完全に封じられているからだった。
横幅は十センチほどで、色はよくよく見ると白と言うよりベージュに近い。規制線のように張られたそれのせいで、あるかは分からないが、僕はドアノブに手を触れることさえできなかった。
「なんつーか、どう見ても一般に出回ってるものじゃないし……そもそもどこなんだ、ここは」
「――ここは東京よ」
「なんっ!?」
突然誰もいないはずの部屋に声が響いたことに驚いて、僕の口からは思ったより情けない声が漏れていた。
見回しても、この部屋にスピーカーのようなものは見当たらない。というか探るまでもなく、どう考えても声の出所はこの、謎の『包帯』だった。
誰だと叫びそうになって、その直前に声に聞き覚えがあることに気付く。
「……ってお前、巳波か?」
「そう。起きたのね久也くん。おはよう」
そんな穏やかな、松本あたりは喜びそうなことを言ってくる転校生であったが、残念なことにこっちはそんな穏やかな気分ではない。
「おはようじゃなくて……いろいろ訊きたいんだが、まずこの包帯みたいの、何なんだ?」
「やっぱり見えるようになったんだ。あの瞬間、奇跡的に発現したのね。
これはね、
「身体の……?」
「私の口が見える?あなたの言う『包帯』の、一番上に出してるんだけど」
そう言われて探してみると、何枚も重なった中で一番上の包帯に、確かに人間の口のようなものがあった。正直言ってかなり不気味な外見になっているが、まあ、言わないでおこう。
「あった、これか。ええと、これで喋ってんのか?」
「そうよ。私の口とリンクさせて発声させてる。私の場合はそうやって、自分の肉体を
「……じゃあおまえ自身はどこにいるんだ?」
「この扉のすぐ向こう。面と向かって話したいなら、もうちょっと待って。私の判断で勝手なことは出来ないから、こうして口だけ出してるの」
確かに今聞こえている声は、全てその口から発せられているようだった。
どう見ても現実のものとは思えない、見方によってはとてもシュールな光景だった。無機質な包帯の上に人間の口だけが浮き出て、人間の言葉を喋っている。
それで僕は本当に何となく、何も考えず、ただぼうっと――遠慮と言う遠慮もなく、無造作に人差し指を突っ込んだ。
「だからこうやって……んむっ!?」
巳波の虫でも呑み込んだような声と、指先からダイレクトに伝わる口腔の生々しい感触に耐えかねて、一秒と経たずに僕は、仰け反るようにして指を抜いたのだった。
後に残るのは指先の生々しい湿りと、……『やってしまった』という感覚のみ。
「ちょっと……!ねえ。この口、私の感覚だと本物と変わらないの。どういうつもり?」
「わ、悪かった!これがどういうものなのか、いまいち理解できてなくて……!」
答えながら僕は、自分がたった今
「本当その、ごめん」
「……今みたいに、そっちに出てるモノは私と感覚が繋がってるから。その包帯にも触らないで。いい?」
「わ、分かった。分かったよ」
「……まあ、良いわ。
それで、体の調子はどう?傷は完全に塞がっていたけど、どこか痛むところはない?」
「身体?」
そう言われて初めて、僕は自分の身体を検めた。
巳波の言った通り、傷と言うような傷はない。痛む部分などもなかった。強いて言えば空腹を感じたが、それはごく自然な生理現象だろう。
「問題ないな……どういうことだ?」
そう訊かずにはいられなかった。
だって、身体そのものを貫かれたあの感覚は夢ではなかった。あの痛みも息苦しさも、夢だと疑うことも難しいほどに現実感を伴っていた。
それが今、僕の身体には傷跡さえ残っていない。血の跡は拭き取られたんだとしても、かさぶたさえ見当たらないというのは明らかにおかしい。ここには時計がないので今の時間は分からないが、まさか数年昏睡した後と言うわけでもあるまいし。
「……ていうか、何だこの服」
いつの間にか身を包んでいた見覚えのないTシャツとジーンズを見下ろして、僕は呟いた。
「貴重品はきちんと保管してるから安心して。でもあなたが着ていた服は、穴が開いていたし血まみれだったから破棄してもらったの。もしかして、お気に入りだった?」
「いや、そういうわけじゃないけど……
……なあ巳波、いくつか訊きたいことがあるんあだ。今だったら答えてもらえるのか?」
「ええ、今なら。でも一つずつにしてね。それに、私も何か訊くかもしれないけど」
「ああ、構わない。ならまず、僕の傷はどうして治ってるんだ?」
一つずつと言うなら、とりあえずそこからだ。この身に降りかかっている異常の中で、今でも現在進行形に不気味なのがこの疑問だった。
「正直言って私にも分からない。けど、それも仮面の力なのは確かよ」
少し間を置いて、巳波はそう答えた。
「分からないってどういうことだ?」
「なんて言えばいいのか……仮面を発現した人は、確かにそれまでと比べて身体能力が向上したり、傷の治りが早くなったりするの。でもそれは、あくまで放っておいても治るレベルの怪我の話。あなたみたいに、死ぬ直前だった肉体を蘇生するような力じゃないの」
「……そもそも、仮面ってのは何なんだ?お前はいろいろ知ってるみたいだけど」
傷の治りの話はまあ聞くだに不気味だが、今は数々の疑問が勝る。僕は感想を言うより、次の質問を優先した。
「あなたはどういう認識をしてるの?仮面について」
「それは――面倒な環境にいる人間が被ってるモノ、かな。面倒で、悩ましくて、放っておいたら死ぬような、そういう
「だから屋上で、私にあんなことを訊いたの?深刻な悩みがあるか、って」
「まあ、そうだな。今まで出会った奴らは全員そうだったから。うまく解決できた奴もいれば、自暴自棄になって捕まった馬鹿もいたし……中には本当に死んだ奴もいたけど」
「……、そう。とても懸命な行動とは言えないけど、
巳波はそんなよく分からないことを独り言ちる。何と言うか、皮肉めいた言い回しだった。
「私も専門家ってわけじゃないから、今から言うことって全部受け売りなんだけどね。仮面は、
例えば昔に、とても悲しい出来事があったとする。そういう時、人はその思い出を忘れたいと願う。だって覚えていると辛いから。でも、時間が経ってその思い出を忘れても、その出来事自体は決してなくなったりはしない。財布からストラップが外れて落ちたとしても、そのストラップはどこかに残り続けるでしょ?それと同じで、
「一度傷ついた心は決して元に戻らない、って道徳論か?一理あるとは思うが、それ、根拠はあるのか?」
「心の在り方について話してる以上、根拠と言える根拠はないわ。私が話すのは、いろいろな人が
「……なるほど」
正直な話だが、そのおかげで胡散臭さは感じられない。口を挟んで悪かったと一言詫びて、僕は話の続きを促した。
「心から切り離しておかなければいけないほど辛い出来事は、当然その原因となったモノへの憎しみを伴う。親が殺されたなら、その人は犯人を憎まずにはいられない。犯人を傷つけたいと願ってしまう。
――仮面はね、『悪意』なの。心の闇の部分が他者への悪意に転じた時、仮面は現れる」
「……闇の部分、か。だから仮面ってのはこう、みんなどこかおどろおどろしいのかな」
「どうかしら。特別暗い部分を切り取らなても、人間の心なんて綺麗なものじゃないでしょ」
巳波はそんな哲学めいたことを言う。どうやらその言葉は『受け売り』じゃないようだ。
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