第6話 発現
四
戦いは、先ほど久也が見た光景よりなお苛烈だった。
仮面の怪物はその背から生やした尾を振り回し、それを仮面を被った少女が回避する。その単純な繰り返しが”命のやり取り”だ。
焦る必要はない。これはいつも通りの繰り返し。
どれだけそう自分に言い聞かせても、巳波羽月の頭を支配するのは『しくじった』という罪悪感と後悔だった。
目の前を刃が横切る。空を切った斬撃の余波が、羽月の前髪を斬り飛ばす。
「くそ――ッ」
彼女の口から出るのは、普段の態度からは想像もできないような荒い言葉だった。
ただ悔やまれる。自分の無力が、そしてそれゆえの失敗が。
簡単な仕事だと思っていた。他人の意志で仮面を被ることになった哀れな人々を、いつも通り元に戻してやればいい、ただそれだけだと。
しかし考えてみれば、そもそもが間違っていたのだ。
”仮にも
そう思考する
刃の持ち主たる男はもちろんのこと化け物だが、それを受け流す羽月の動きも、客観的には『人の動き』と呼べる代物ではなかった。
時に跳躍し、時に宙で身を回転させて、あらゆる方向から突き付けられる”切っ先”を回避する。熟練の曲芸師を彷彿とさせるほどにその動きは洗練されていた。
しかしそれでも、羽月の身体には刻一刻と切り傷が増えていく。
果たして渦羽根久也の存在は、巳波羽月にとって吉であったか凶であったか。
先ほど敵が倒れたのは、間違いなく久也のおかげだった。
そもそも戦闘を始めた時点で、羽月と化け物の力は完全に拮抗していた。敵の持ち得た『尾』と言う武器が想定以上に素早く器用だったために、彼女は攻め切ることが出来ずにいたのだ。そこに乱入した
しかしいま羽月が苦戦を強いられているのも、また間違いなく久也が原因である。
今まさに屍へと変わりつつある、同級生の身体。彼がそうなった原因は羽月にある。
一度は気絶させた敵を無暗に刺激することなく、質問や説明に先んじて仮面を剥ぎ取っていれば、この男が再び『怪物』として起き上がることはなかったのだ。そんなミスがなければ当然、久也が身体を貫かれることもなかった。その事実を前に、罪悪感を感じないほど羽月は良識を捨てていない。
だが罪悪感は、不純な『気の迷い』でしかない。一挙手一投足が生死を分ける戦いにおいては重石にしかならない。
事実、羽月の動きは先ほどよりも確実に鈍ってきている。さっきまでは避け続けていた攻撃を、今は回避しきれなくなっているのがその証拠だ。
迷いも罪悪感も、せめてこの一瞬だけは忘れ去らねばならなかった。なのに、横たわる久也が視界にチラつくたびに、その身体には生傷ばかりが増えていく。
「――ッ」
劣勢に歯噛みし、羽月は身を翻す。くるりと回転した彼女の背中、服の隙間から外気に触れた背中を、刃が薄皮一枚剥いでいった。
このまま避け続けていても埒が明かない。そう意を決した羽月は着地と同時に地面を蹴り、敵の方へと真っ直ぐに突撃をかけた。
正面から迫る『敵』の存在を前に、仮面の化け物がとった対処はシンプルだった。先ほど獲物を斬り損ねた尾をそのまま振り下ろせばいい。先ほどまでと違い敵の動きは直線的だ。捉えられないことはない。
仮面に理性を剥奪されていながら、その行動は実に的を射ていた。今まで羽月が攻撃を避けることが出来たのは、常に回避の方向を変えて動きの先を読まれないようにしていたためだ。今の尾のスピードに先読みが加われば、もはや回避は不可能になる。――それは間違いのない事実だった。
ゆえに刃は、次の瞬間には羽月の身体にぴたりと重なり――しかし、その肉体から五センチほどの間隔をあけた空中に止められていた。
「……!?」
怪物が微かに息を呑む。
羽月の身体はどこも斬り裂かれてなどいない。どころか、刃を伴った尾は空中に固定され、完全に封じられていた。
「見えないでしょうね、あなたには」
不敵にと言うわけでもなく、ただ淡々と羽月は言った。
「ちょっと手荒くなるけど――眠って」
言うや、羽月は跳び上がる。位置取りは敵から三歩手前。今度は頭部に蹴りを食らわせ、より深く眠らせる。
だがこの時点でも、彼女はまだ敵を侮っていた。仮面から派生した武器である『尾』さえ封じてしまえばもはや攻撃はないだろうという、その認識が大きな間違いだったと、彼女が気付いた時には遅かった。
敵の側頭部を目掛けて放った足蹴りは、命中する寸前で二本の手にがっちりと掴み止められていた。
「なっ……」
声は驚愕よりむしろ、恐怖に近かった。自分の足が得体の知れない何かに掴まれている、と言う事実を前に恐れを懐かない人間などいない。
羽月が拘束を振りほどこうとするより早く、敵が動く。
仮面の化け物は、掴んだ足を軽々と持ち上げる。奇しくも先ほど気を失った彼がさせられたのと同じように、羽月は宙ぶらりんの格好になる。
「この……!」
反抗を口にした彼女がそれを行動に移すより一瞬、敵の方が早かった。
腕の筋肉がぶちぶちと音を立てるほどに力を込めて、化け物は掴んだ獲物の身体を地面に振り下ろす。羽月は咄嗟に両手を前に出して胴と頭を庇うも――堅いアスファルトが、次の瞬間に、彼女の全身を容赦なく叩きのめした。
身体が崩れる音がして、羽月はそのまま腰を丸めて蹲る。
怪物は間髪入れずにその腹を蹴り上げた。痛みに声を上げることもなく、彼女の身体は跳ねるようにして後方へ転がる。
「……う」
呻くような声が漏れる。
意識は多少混濁していたが、その苦痛に満ちた短い声が自分のものでないと、羽月は確信していた。当たり前だ、この身は痛みに声を上げることなど
では誰が。そう思って少し眼球を動かすと、羽月は自分が渦羽根久也の上に落下したのだと気付いた。
苦し気に瞼を動かす久也に、思わず同情してしまう。これほどに負傷した人間を下敷きにしてしまったのだ。「ごめんなさい」と口にしながら、羽月は力を振り絞って久也の上から降りた。
「……お、前……」
掠れた、死かけの声がした。見下ろせば、久也が濁った瞳でこちらを見ていた。今の衝撃で目が覚めたのだろう。
「お前……
「……寝てればよかったのに。そうしたらこんなもの、見なくて済んだ」
彼女の声に自嘲が入り混じっていると、果たして何人が気付くだろうか。
視線を追うまでもなく、久也がどこを見ているかなど分かる。さっき地面に叩きつけられた時に
*
目が覚めても、状況は大して変わっていないようだった。
背中が痛む。息をするたび、激痛が左胸を貫く。どうやら肺がやられているらしい。
でも、そんな自分の状況がどうでもよくなるくらいに、その姿は衝撃的だった。
「寝てればよかったのに。そうすればこんなもの、見ないで済んだ」
僕のすぐ目の前に座り込んだ巳波が、そんなことを言う。いつもと変わらない冷たい声に、何故だか自嘲の色があるのだと解った。
巳波の両腕には肘から先がなかった。切れ端というのか、”その部分”は一メートルほど前方に転がっている。
本来ならグロテスクなはずのその光景に、僕はこれ以上なく目を奪われていた。だってなんだか、今の巳波は――
「それ、どうしたんだよ」
声を出すのも苦痛な現状で、それでも問わずにはいられない。
「見ての通り。地面に叩きつけられたときに壊れちゃった」
「壊れたって……痛く、ないのか」
「ない。私に痛みはないの。血も出ない。これでもね、今のあなたよりはまだずっと死から遠いところにいるのよ」
そう言われてみて初めて気付く。彼女の腕からは、血がほとんど出ていなかった。
よくよく見ると、腕だけではない。彼女の全身には至る所に切り傷があったが、そのどれも、傷の深さから考えれば出血量が少なすぎる。
極めつけは、腕の切断面だった。
出血がない以上、その切断面は外からもはっきりと視認できる。普通に考えてみれば輪切りになった血管だったり筋肉だったり、そんな人体の内側が見えるはずだが――彼女の腕に見えるのは、プラスチックのような
灰色の、どう見ても天然の生き物が備えるはずのない質感をした無機質な殻。あんなもので身体が出来ているならば、それは人形だ。巳波の肉体は明らかに、そんな『作りもの』だった。
「お前……
最初に出てきた感想がそれなのだから、僕も参っているらしい。
「私は生きたい」
巳波は答えた。その声にもやはり自嘲が入り混じっているように思えた。
「ずっとそう思ってたのに。生きたいと思っているのに、死にたくなんてなかったのに、結局ダメだった」
そう言って、巳波は僅かに視線を動かす。その先に立ってこちらを見下ろしているのは、あの仮面の化け物だった。
……そう。この状況は、端的に言えば『絶体絶命』だった。
見ての通り、巳波は腕を失った。理屈はさっぱり分からないが、いくら血も出ず痛みはもないと言っても、この状態では戦えるはずがない。
化け物はこちらを見下ろしている。分かるのは、こいつの僕たちに対する敵意は全く消えていないということだ。死に瀕したこの時にも、凄まじい怒気のようなものが感じられる。
どうして今はじっとしているのか知らないが、きっと獣の気まぐれのようなものだろう。すぐにでもこいつは、僕たちにその刃を突き刺してきてもおかしくない。そして僕らには、もうそれを防ぐ手段がない。
「見誤ってた。まさかここまで強いなんて。私一人でどうとでもできると思っていたのに」
巳波はそんなことを、相変わらず平然と口にする。その態度に、僕は不思議と腹も立たなかった。
「……は、勝手に落ち着きやがって。僕なんか、事情も何も分からないままに、その巻き添えで死にかけてんだぞ?」
「巻き添えって、あなたが勝手に首を突っ込んできたんじゃない。それに、どっちにしろ文句を言われる筋合いはないと思うけど」
「……あ?」
「あなた全く、
「――――、そう、か?」
――そう、だ。
僕の心の中は、全くと言っていいほど冷静だ。意識が遠のいているから、と言うだけじゃない。たとえこの胸の苦痛がなくても同じだと思う。
僕は今、何も恐れていない。
この場を切り抜ける策も、それに期待する心もないというのに――なぜ僕は、こんなにも落ち着いているのだろう?
「死ぬことなんてこれっぽっちも恐れていないくせに、まだ生きたいなんてことを言わないで。あなた、生きるつもりなんてないんじゃない。生きることを楽しいなんて思ってないんじゃない。それは
「――――」
その言葉は、ずっと求めていたモノだった気がした。
昔、とても酷いことが起きた時に――誰もが僕を哀れんだ。誰もが僕に優しくした。誰もが僕の頭を撫でて、当たり障りなく肯定した。
でも僕はきっと、誰かに否定してもらいたかった。僕が人として欠落していると、誰かにそう指摘されたかった。
ずっと誰かに、そう言ってほしかった。
誰かにそうやって、焚きつけてほしかった。
お前は死んでいるのだと。お前は生きていないのだと。そう真実を告げられていれば、僕は――きっと
「……ああ、お前の言う通りだ」
胸が痛い。背中が痛い。仮面の怪物に傷つけられたあらゆる部分が、苦痛を訴え僕の足を引っ張っている。
それでも、体は動いた。
どこかを動かすたび、全身が痛い。慣れるなんてありえない。それでも動かす。膝を立て、足を踏ん張り、体重を支え、立ち上がる。
どこかが動いて骨格がズレるたび、口から鉄臭い血が漏れ出てくる。
「渦羽根くん?」
巳波が不思議そうに見上げてくる。……ああ、確かにそうだ。こいつはきっと『生きたい』なんて思ってない。
僕だってそうだ。生きたいなんて思えない。
でも、巳波が、僕を生きる屍だと言ったおかげで。
それで僕自身、自分が生きていないと了解したおかげで。
「だったら今からでも――
そう口にした瞬間だった。どういうわけか、僕の身体から痛みが消え去った。
あらゆる苦痛から解放されて、視界が澄み渡る。
化け物は目の前に立っていた。もうじっとしているのも限界と言う様子で、体を震わせている。それを前にしても、恐怖は変わらず存在しない。けどその理由は、きっとさっきまでとは別物だ。
その時、唐突に右目が鼓動する。
痛みはなく、ただあるがままに震えているようだった。これは――きっと胎動だ。
そう確信した瞬間に、僕の顔の右側に”何か”が覆い被さっていく。不快なものではない。快いものでもない。ただ当たり前にそこにあるモノが、当たり前に生まれたのだと理解できた。
――そう。たったいま僕の顔を覆ったものは、『仮面』だった。
顔のすべてが隠されているわけではない。覆われているのは今のところ、顔の右上半分、ちょうど右目の周りだけだ。
「まさか――いま発現したの!?」
そんな驚きに満ちた声が、足元から聞こえた。今日一番に感情の籠った声だ。思わず僕は笑ってしまった。
――そして化け物が突撃を開始する。
その趣味の悪い仮面を前面に押し出し、迫りくる。刃を携えた尾はしなやかに伸び、僕の心臓を一点に狙って突き出された。
呼応するように、僕は右手を前に出す。そうすべきなのだとずっと前から知っていたような気がした。
「――!?」
目の前の敵から息を呑むような気配が伝わってくる。
それはそうだろう。化け物が付きだした刃は僕のどの部分の肉をも抉ることはないく、差し出した手のひらの手前で完全に静止していた。
「
そう告げた。それで最後だった。
突然に、化け物の尾に亀裂が入る。尾だけではない。仮面の全域にも、それどころか男の肉体そのものにも、あらゆる場所にとってつけたような『ひび』が入っていた。
その様はまるで雑なコラージュ画像のようだったが、しかし紛れもない現実だ。
その亀裂の通りに敵のすべてが割れたのが、次の瞬間だった。ガラスが割れるのと同じように、どうしようもない力でその身体が破壊されていく。軽快な音を立てて、破片は地面に落ちていく。
血は一滴も出ていなかった。それすらも破片に変えられ、地面に落ちているようだった。
「――渦羽根くん、あなた……」
聞こえたのはそんな戸惑うような声だった。いや、声に起伏がないだけであって、巳波は愕然としているらしい。
僕自身、同じである。
これ以上ないほどに驚いていた。あれだけ僕らの命を脅かしていた『敵』が、今の一瞬で消えてしまったのだから。
何より驚かずにいられないのは、それをやったのが僕だということだ。そして僕がそれをやったということを、僕自身が何の疑いもなく受け入れているということだった。
「……何なんだ、これ」
前に突き出していた右の手のひらを見つめながら、言い訳をするように、僕はそんな疑問符を一つだけ吐き出す。
今の今まで奇跡のようにはっきりとしていた意識が唐突に揺らいだのは、その時だった。
あるのはこの世の終わりのような眠気。そして倦怠感。たまらず立っていられなくなって、僕は重力に引かれるまま倒れてしまう。
頭がアスファルトに激突する直前、辛うじて誰かに身体を抱き止められた。それが巳波だということはギリギリ認識できたものの、彼女がどんな顔をしているかまでは見えない。
ただ最後、さっきまで僕の顔に確かにあった仮面を被っている感覚が消え去るのを感じながら――僕は、そのまま深い眠りに墜ちていった。
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