第5話 阿保らしい現実
「その言葉は、僕が今から言おうとしていたいくつかの候補のうちの一つだ。言うなと言うなら、言うつもりはないよ」
「……驚いた。思ったより冷静なのね」
そう答えると同時に、彼女の顔から仮面が消え去る。まるで砂になって虚空に飛んでいくような、そんな消失の仕方だった。
「正直、自分でも驚いている。感覚が麻痺しているのかもしれないな」
これは本心だった。あんな阿保らしい光景を現実として受け入れられている自分には、いささかの驚きを覚えている。
とはいえ口でどう繕っても、実際のところ僕の顔は動揺に引きつっている。巳波からすればそれを含めての『冷静』なのだろうが――僕が彼女に懐いている印象は、真逆だった。
こいつはきっと『冷静』じゃない。
いつも通りに聞こえるその声の中には、僅かに昼にはなかった抑揚と震えが含まれているように思える。たぶんこの女は、この鉄面皮で動揺しているのだ。
理解はまだ追いつかない。だが思考力は、本来の性能を取り戻しつつある。
この場で起こっていたことはおそらく大っぴらに知られて良いことではなく、そして僕はそれを目撃してしまった。
「僕はこれから始末される、なんてことはないよな」
「質問はまずこっちがする。あなたはどうしてここに来たの?」
「お前がこの、ガラの悪い奴に連れ込まれてたのを見たからだ。てっきり酷いことをされてるもんだと勘違いして、通報くらいはしてやろうと追いかけてきた。そしたらこんな……」
「……それは、勘違いが極まってるわね。前提からしてあべこべになってる」
そう言って巳波は、倒れ伏した化け物の背中を見下ろす。
「その男が私を連れ込んだんじゃなく、私がその男を煽ったの」
「……なんだって?」
言っている意味が理解できず、僕は思わず訊き返す。
「私がその男を挑発して、人気のない場所に誘い込んだのよ。仮面を剥がすためにね」
「仮面を剥がす?」
「昼間に探り当てた中でもその男はひときわ危なかった。だから早急に対応する必要があったの。思ったより強かったけど、あなたが気を引いてれたおかげで隙を突けた。そういう意味では、あなたは私を助けてくれたわね」
「昼間にって……あの屋上でのことか?あの時に何かをしてたのか?」
「――なるほど」
その声が震えるほど冷たく思えたのは、たぶん巳波がまた微笑んだからだった。
「何も知らないのね、渦羽根くん。あなたはただ
「……お前も仮面が見えるのか」
「ちょっと違うわ。私は仮面が
相変わらず、巳波の言うことはよく分からなかった。だが断片的に解せたこともある。こいつは、僕以上に
「……いろいろと、訊きたいことがあるんだ。それには答えてもらえるのか?」
「さっきも言ったけど、質問は私が先にする。その後ならたぶん、訊かれれば教えてあげられるけど」
冷や汗が頬を伝い落ちるのを感じながら、僕は「分かった」と頷いた。
「何を教えればいい?」
「この仮面が見える?見えるなら、どんな形をしてる?」
そう言い終えた時、すでに巳波の顔にはあの仮面が出現していた。間違いなく彼女は、自分の意志で仮面を”出し入れ”している。この時点で、僕が今まで出会ってきた奴らとは別物だった。
「……見える。上半分が二つに割れてて、動物の顔みたいな形だ」
「じゃ、これは?」
次に巳波がそう口にした瞬間に、僕の前に倒れていた男の身体が浮かび上がる。頭部を除いて他の部分はぶらんと垂れ下がったその姿は、さながら猟師に片手で持ち上げられる野鳥の死骸だ。
男はそのまま地面から一メートルほど浮かび上がると、次の瞬間にこちらへと吹っ飛んできた。身体は僕のすぐ横をかすめ、派手な音を立てて後方のアスファルトへ転がった。
一連の動きはまるで、
「見えた?」
物理法則も何もあったものじゃない光景に息を呑む僕に、巳波は平然と尋ねた。
「……見えなかった。今のはお前がやったのか?」
「見えるのは仮面だけなの?……変ね。仮面が見えるならこっちも見えるはずなのに」
混乱する僕をよそに、巳波は一人でそんなことを呟いていた。
「……渦羽根くん、いま投げ飛ばした男は、どんなふうに見えていた?」
「どうって……仮面のデザインはよく見えなかったけど。ああでも、背中から尻尾みたいのが生えてたな」
「
「ザンガイ?」
「ええ。それが……待って」
言葉の途中で何かを思い出したかのように、巳波はあからさまに表情を変えた。
「あなた――昼にも私の仮面が見えていたの?太陽の出ている時間に、仮面が視認できたの?」
「……?そう言ったろ。それより、そろそろお前も質問に……」
「あなたに質問する権利はない。早く答えて」
その不遜な物言いに、僕は苛立つでもなく失笑してしまう。
「まるで警察みたいだな?」
「そうよ。私は警察なの」
その答えは僕の耳に届いたが、それだけだった。
答えを返すことも言葉の意味を咀嚼することも叶わない。不意に背中から伝わった激痛が、僕から次に取りうる行動のすべてを剥奪していた。
「――が、ぁ!?」
濁りきった喘鳴を吐き出しながら、支えを失った自分の肉体が急激に
そっと見下ろせば、左胸のあたりから包丁のようなものが突き出ていた。周辺からはどくどくと血が溢れ、服の生地を赤く染めている。
考えるまでもなく、後ろから何か刃が貫通しているのだと解った。
絶え間なく遅りくる背中からの痛みはやがて全身の神経を支配し、僕の意識を奪っていく。そうして地面へと倒れこんだ僕が見たのは、驚きと惑いに染め上げられた巳波の顔だった。今まで見た彼女の顔の中で、最も激しく感情を表した表情だった。
「しくじった――さっき投げた衝撃で起きたのか!」
凛然と響き渡ったその声にも、やはり巳波に似つかわしくない困惑の色があった。さっきまでの印象が嘘のように、それは普通の人間のようだった。
自分の身体がこれほど痛んでいなければ笑いたかったが、しかし状況はそれを許さない。
ずるりと、背中に刺さった何かが抜ける感覚があった。それと同時に、誰かが僕の身体を跨いで巳波の前に進み出た。
それが誰なのかも、これから何が起ころうとしているのかも、たぶん少し考えればわかることだったと思う。しかしそんなことに思考を働かせる余裕はなく、何も分からないままに、僕はあっけなく意識を手放したのだった。
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