第4話 ザンガイ


 そうして少し進むと、やや離れた場所からガタン、と何か乱暴な音が聞こえた。それっきりでなく、連続して聞こえてくる。先入観ありきだが、誰かが誰かに暴行を働いている音としか思えない。

 出どころを探ると、そこは林立する建物の間に出来た隙間のような裏路地だった。奥に進めば街灯の光さえ届かないだろう。

 いよいよまずいな。

 僕はポケットからスマートフォンを取り出し、表示したキーパッド画面に一、一と打ち込んだ。あとは〇を一つ打てば、心強い市民の味方に繋がってくれる。

 必要以上のことをするつもりはなかった。もとより僕自身、ひ弱な一般男性に過ぎない。犯罪の現場を確認したら警察に通報して終わりだ。あの快いとは言えない転校生のために屈強な男に立ち向かうつもりなどない。

 本心からそのつもりだった。抜き足で路地裏を進んだ先で、


 ――巳波羽月が化け物と戦う、、、、、、、、、、、姿を目撃するまでは。


「―――――な」

 僅かに漏れた声は、アスファルトが削られる音で掻き消えた。辛うじてその幸運を逃さず、僕は咄嗟に、道端に積み上げられていた粗大ごみの陰に身を隠す。

 体は動いたが、頭の方は追い付かない。

 それでもあの光景が見間違いでないことは、今なお響く激しい戦闘音が証明している。

 見えたのは、あのオールバックの男。仮面を被った彼は、同時に背中から何か尾のようなものを生やしていた。その先端は包丁のような形状をしていて、執拗に標的に斬りかかっている。

 まさに化け物としか表現できない何かがそこにはいた。

 そしてその化け物の攻撃を、人並外れた動きで回避する少女の姿もそこにはあった。

 巳波羽月――。

 見えたのは一瞬だが、彼女の顔は昼間見たあの仮面に覆われていた。あの華奢な身体で、むしろ仮面の化け物よりなお機敏に戦っている――そう、戦っている、、、、、

 目の前で起こっていたのは紛れもない『戦闘』だった。瞬きを一つする間に風圧が迸り、怪物の刃がコンクリートを削る音が聞こえてくる。そんな、喧嘩とか表現される日常的な枠を明らかに逸脱した光景だ。

 

 ――理解が、追いつかない。

 これはいったい何だ。僕は今、トラブルに巻き込まれた転校生に対してせめて最低限のことをしてやる、、、、ために、こんな薄暗い路地裏に入ってきたんじゃないのか。

 それが今、僕は息をひそめている。この状況に割り込むのは大いにまずいと、あるかも分からない僕の防衛本能が最大の警鐘を打ち鳴らしている。これは夢なんじゃないかと、今更になって現実逃避をしようとしている自分さえいる。

 しかしその情けない行為は、やおら襲い掛かった特大の衝撃によって打ち消された。

「ぐあっ!?」

 隠れ蓑にしていた粗大ごみの山が崩れると同時に、僕は後方へと吹き飛ばされる。

 しまった。なんて、そんなありがちな言葉が頭に浮かぶのを抑えられなかった。

 堅い地面に叩きつけられそうだったところに辛うじて受け身をとれたまでは良かったが、しかし状況は最悪のものになっていた。

 僕が姿を隠していた場所は、二人が戦闘を行っていた場所からざっと五メートルも離れていない。あれほど苛烈な戦闘なら、その余波にいつ吹っ飛ばされてもおかしくはなかったのに。

 恐る恐る顔を上げれば――ああ、ほら、最悪だ。

 巳波に斬りかかっていた仮面の化け物も、その猛襲を掻い潜っていた巳波自身すら、一様に僕の顔を見ている。

「な―――――」

 恐らく無表情であろう仮面の下から、さっきの僕と全く同じリアクションが出たことを笑うべきだったか。 

 しかし残念ながら、笑う間もなかった。巳波が僕の方を完全に振り向くそれ以前に、怪物の次なる攻撃はこの身に降りかかっていた。

 眼前で一閃、綺麗な弧を描いて迫りくる刃。

 それを躱せたのは幸運と言う名の偶然ゆえだった。頭上からの月明かりが刃の先に反射したのを見て、間一髪、体が動いたのだ。

 その一瞬はまさに生死の瀬戸際の時だった。僕の頬をかすめた刃の先端はそのままの軌道に、気が動転して手放してしまったスマートフォンの画面を貫いていた。あと少し反応が遅れていればその孔は僕の額に空いていたのだろう。

「――うううううう、あああああああ」

 胸を撫で下ろすより早くその異常な音が聞こえたおかげで、僕は場違いな安堵をせずに済んだ。

 それは発狂だった。熊のような姿勢で目の前に立った男の、その仮面の下の口から出た狂気の声だった。

 もう一度その尾を一振りするだけで僕は絶命していただろうに、怪物は次の攻撃をしてこなかった。まるで癇癪を起した子供のように、頭を抱えて叫んでいる。――いや、ように、、、ではない。

 こいつがあくまで心に闇を抱え、その結果『仮面を被った人間』ならば、きっとこれは癇癪そのもの、、、、、、――心の呻きだ。それはきっと、今まで出会ってきた連中と同じなのだ。

 違うのは――背中の尾と、その先端の刃。こんな得体の知れないモノを引っ提げて、その上まるっきり正気を失って暴れる奴になんて出会ったことがない。

「何なんだ、こいつ……」

 せっかく神様がくれたチャンスを逃げることに使わなかったこの時の僕は、果てしなく愚かだったのだと思う。

 だからこその罰だろう、怪物は僕の震えた声を聞くや否や、スイッチが入ったようにその尾をしならせた。

 その先端に貫かれたまま固定されていたスマートフォンが、勢いのまま宙に放り出される。それが地面に落ちてカタンと音を立てた時、すでに白刃は目の前に迫っていた。

 死を覚悟した。だが走馬灯は見なかった。

「――はッ!」

 短く声がして、次の瞬間に化け物の身体が大きくバランスを崩す。それに伴って尾の軌道がズレて、刃は僕の腹を薄皮一枚削いだだけであらぬ方向へと逸れていった。

 息つく暇もなく、化け物の身体の向こうから再び衝撃が走る。行われているのは、男一人を間に挟んでなおこちらに威力が伝わるほどの”打撃”。

 ぐ、と咳き込むような音が漏れた後、化け物はそのまま前のめりに倒れた。

 その大柄な体躯の向こうから、細身の少女が姿を現す。その顔の仮面も含めて見知った容姿をしていた。幻覚でも夢でもない、本物の巳波羽月である。

 右足をこちらに向けて上げたままの姿勢を見るに、怪物には強烈な蹴りをお見舞いしたらしい。……この子が今まであの怪物と戦っていて、そして倒したのだと僕が了解した瞬間だった。

「助けてくれてありがとう――なんて台詞は後にして。素直にお礼を聞けるほど、いま私は冷静じゃないから」

 足を下げながら、巳波は変わらず淡白な声でそんなことを言ったのだった。この非常識な現実を前に、それだけで目の前の人間が自分の知る転校生であると確信できた僕は、存外落ち着いているらしい。

 ここまで馬鹿みたいな光景を目にしておいて、それでもこの現実を『事実』として受け入れている自分を、案外常識がないのかもな、なんて思った。

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