第2話 仮面



 結論から言って、巳波羽月という少女は転入初日にして完全に孤立していた。

 初っ端から窓際最後列という良好な席順を獲得した巳波は、そのまま誰とも話すこともなく午前中の授業を終えた。

 初対面の各教科担任の教師と二、三の言葉を交わすことはあったものの、そのすべてがまさしく必要最低限のやり取りで終了する。名前を聞かれて答え、そこに『どうぞよろしく』と加えて終わり。朝の自己紹介の再現だ。

 そして巳波は、教室のクラスメイトとはまったく言葉を交わすことはなかった。

 その原因は、刃物を思わせる第一印象もさることながら、教室での彼女の態度によるところが大きい。

 良く漫画で見るような転校生の周りに人だかりができる、なんてこともない。どうあれ容姿は抜きん出て優れているため、少なくとも男子の中には話しかけに行く者がいるかとも思ったが、それさえなかった。

 さもありなん。氷とはよく言ったもので、彼女はただ着席しているだけで何もかもを拒絶しているようだった。

 誰とも目を合わせず、ただそこにいるだけ。他人と関わろうという挙動が一片も見えない。休み時間には鞄から真新しい教科書を取り出し、あとは空中の一点を見つめてチャイムが鳴るのを待っている。

 何と言うか……関わらないでおこう、と人に思わせる何かがある少女だった。

 問題は、そんな彼女の『案内係』に僕が任命されていることなのだが。

「……はぁ」

 一人、溜息をつく。

 時刻は十二時三十五分。四時間分の授業が終わり、学生の憩いの時間、お昼休みである。

 僕は他数名と同じように、巳波の方にちらちらと目をやっていた。ただし野次馬的な感情ではなく、もっと義務的な、悩みを伴う視線だ。

 普段ならさっさと弁当を取り出して胃袋を埋めにいくところだが、今日に限ってはそう簡単にはいかない。

 何しろ案内係だ。午前の授業では教室移動はなかったから、あの転校生とはまだ関わっていない。しかし昼休みとなると、いよいよ彼女にも誰かに訊きたい事柄が出てくるだろう。

 食堂はどこなのか。購買には何が売っているのか。弁当があるにしても、そもそも昼休みは何分で終わるのか――その他諸々。

 ただ思うのは、ここまで誰とも話そうとしない巳波に、果たして案内係などと言うものが必要なのだろうか、と言うことだった。

 何しろこの半日で誰とも喋っていないのだ。こんな状況は、彼女の側にも少なからず『他人と関わりたくない』という意図がなければ成立しない。

 それならばむしろ、余計な気を利かせないで静観しているのが正しい気もする。教室移動などは誰かの動きを追えば問題のないことだし、いろいろな勝手と言うのも、常識的な頭があれば一週間も生活していれば身につくものだ。階段は左足から、なんて守らなければ呪われるようないわく、、、もこの学校には存在しない。

 ……よし、問題はないだろう。

 とりあえず、もう弁当は食べてしまおう。五分かけてそう決断した僕であったが、しかし結果としてこの時、椅子の下の鞄から弁当が出ることはなかった。

 教室の空気に微かなざわめきが生じる。

 理由は明白だ。今まで誰とも関わらずに自分の席から動かなかった巳波羽月が、いつの間にか移動して、僕の前に立っていた。

「――――」

 机一つ挟んだその先から、まるっきり感情の感じられない瞳がこちらを見ていた。それを受け止めるのは僕の、恐らくは困惑の色に染まった両目。

「渦羽根、くん」

 先に口を開いたのは、巳波の方だった。目が合っているこの状況で流石にその眼差しは『人を見る目』だったが、そうなってむしろ、今までにない圧迫感を伴っているように思えた。

「渦羽根久也、くん」

「あ、ああ……そうだけど」

 再度名前を、しかもフルネームで呼ばれ、僕は気後れしたような声を返す。周囲からは気持ちのよくない視線が集まるのを感じていた。

「困ったらあなたが案内してくれるって聞いた。お願いしていい?」

 涼やかな声で、巳波はそう言ってきた。それはその通りなのだが、僕はふと疑問に思い、訊き返す。

「誰から聞いたんだ?僕が案内係だって」

「瀬田先生から。黒板から真っ直ぐ三列目の渦羽根久也くんが、しばらくは対応してくれるって」

 僕は案内係を引き受けたことを、自分の口から瀬田に報告していない。つまりは朝のうちに、この役割を押し付けた張本人が勝手に伝えていたのだろう。

 松本め、と内心で舌打ちをしながら、僕は弁当を片手に掴んで立ち上がる。巳波がどこに行くにしろ今は昼休み、食事をすることは間違いない。そこからもう一度教室に戻るのも面倒だし、僕もそこで昼食を済ませてしまおうと考えてのことだった。

「分かったよ。どこに行きたいんだ?」

 一応はそう訊きつつも、答えはほぼ分かっていた。何しろいま巳波は弁当を持っていない。だったら行くところは学生食堂か、購買しかない。

 少しの間を置いて、巳波はぽつりと答えた。

屋上に、、、

 当然だが、僕は「は?」と訊き返すこととなった。


 博涼中学・高等学校。開校九〇年、中高一貫の由緒ある進学校。つい最近に校舎の建て替えが終わったばかりで、建物はどこも真新しい。

「――ここが屋上。柵が若干低いから、あまり端の方には行くなよ」

 十月の冷たくなり始めた風を全身に浴びて顔を顰めながら、僕はそう説明する。

 新校舎になってから休み時間に屋上が解放されていることは、生徒にはあまり知られていなかった。この場所にはおおよそ校舎の床面積分の広さがあるわけだが、辺りには人影一つ見当たらない。

 果たして何故、こんな人っ子一人いないところで寂しく食事をしなければならないのだろうか。

 そんなことを考えている僕の横を、巳波は通り抜けて屋上に足を踏み入れていた。そのまま何も言わずに奥へと歩いていき、この春に新しく設置された貯水タンクの前で立ち止まった。

「……ああ、飯食うならそこだな。風が当たらない」

 そう納得して、僕は巳波の方へ歩み寄る。彼女から一メートルほどスペースを開けたそこに座って弁当を開けるつもりだった。隣り合うのはどうかとも思ったが、この屋上に他に落ち着いて食事ができる場所などない。僕らが上がってきた昇降用の塔屋は、二人が座って風を避けるには小さすぎた。

 ところが巳波は、そこに座ることも弁当を開けることもせず、何の前触れもなく跳躍した、、、、

「――は!?」

 思わず素っ頓狂な声を上げる僕を尻目に、巳波は貯水タンクの上に着地する。

 高さにして三メートル以上。彼女は予備動作もなしにそれを、まるっきり垂直に跳んだのだ。

 果たしてそれは、ただの女子高生に可能な芸当だろうか。……正しく判断するには出来事が唐突すぎたらしく、どうやら僕は、目の前の事実をきちんと受け止められない。

 ただ一つ、単純な疑問が頭をよぎった。――何だ、、こいつは、、、、

 正確に判断できなくとも、今の行為が常識から逸脱していることくらいは分かる。それを行う巳波が普通でない、、、、、、というのも認識した。そして、そう認識した途端に一つの違和感を思い出す。

 こんな違和感が今まで意識の外だったのも間抜けなことだが……こいつは弁当を持っていない、、、、、、、、、、、、、

 教室からそうだった。だから僕は最初、きっと食堂か購買に向かうものだと思ったのだ。にも拘らずこの転校生は弁当も持たず、こんな誰もいない場所に来た。

「……巳波、お前、昼食はどうするつもりだ?」

 彼女は答えない。ただ確信めいているのは、彼女はここに飯を食べに来たんじゃない。

 じゃあ、何をしに?

 何をしにこいつは、貯水タンクの上に跳び乗ったんだ?

 こいつはいったい――何なんだ?

 ともかく巳波の方を見上げた、その瞬間だった。今まで頭を染め上げていた様々な疑念が吹っ飛び、それとは別の『驚愕』が、僕の脳を埋め尽くした。


 ――仮面だ、、、


 彼女の顔を、仮面が覆っていた。白色の、イタチの顔に似た形の平面。それは仮面としか表現できない。

 仮面を被り、貯水タンクの上に立った巳波は、どこか遠くを俯瞰しているようだった。

 この屋上から見える景色と言っても特に特筆するようなことはない。いたって普通の町並み、ヒトの営みが遠くに見えるだけだ。それも夜でさえないから、退屈なただの普遍の風景でしかない。

 そんなものを眺めて何が楽しいのか――ともかく僕にとって、仮面が見えた以上、問うことは一つだった。

「なあ、一つ訊きたいんだけど」

「――何?」

何か深刻な悩みがあるか、、、、、、、、、、、?」

 いかにも答えるのが億劫だという、そんな僅かな間を置いた巳波の声に、僕は問うた。

 不躾で、意味不明な質問だったとは思う。しかし同時に確信もあった。こいつは何かを抱えている。

 沈黙は五秒ほど。やがて巳波は首も動かさずに答えた。

「悩みがない人間なんて、どこにいるの?」

 質問を質問で返し、混ぜ返してくるタイプだな、と理解した。しかもこちらの質問には答えない、質の悪い人間だ。

「……悩みがない人間は、たぶんいない。けどこの平和ボケしたご時世、深刻なのは滅多にないだろ」

「深刻って、具体的には?」

「放っておくと、自分で死にかねない……って領域だ」

 少なくとも今までのは、そういう領域のものを抱えていた。中には本当に自殺した奴もいた。

「私が死にかねないって、どうしてそんな風に思うの?」

「気に障る言い方だったか。でも、そう、――強いて言うなら今のお前は、そんな顔、、、、をしてる」

 そう答えたその時だった。今までどこかを見つめていた巳波が、ばっとこちらを振り向いた。

 端正な顔にはあくまで無表情を浮かべたままに、しかしその瞳が僅かに見開かれている。風にたなびく黒髪に隠れて、その唇が微かに震えているように見えた。

 情けないことだが、僕はその僅かな表情の変化に気圧されていた。

「――、そう」

 彼女は短くそう呟くと小さく跳躍し、貯水タンクから僕の目の前に着地した。

「あなた、知っていたのね、、、、、、、

 風が、僕と巳波の間を吹き抜いていった。それはまるで壁だった。性別の壁とか、自己と他者の壁とか、そういうのじゃない。決定的に僕たちを隔絶する何かが、そこにあった気がした。

「どういう、意味だ?」

「答えない」

 辛うじて絞り出した質問は、そんな風に跳ね除けられた。

「代わりに一つ、さっきの質問に答えてあげる。私はね、食事は必要ないの」

 巳波は思い出したように、そんなことを口にした。

「それってどういう……」

「言葉通りよ」

 そう言って、巳波は微笑んだ。

 その儚さに絶句した。極限に美しく、生や死と言うものを肌で感じさせる微笑だった。

「これからよろしく、渦羽根くん。いろいろと、教えてね?」

 

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