キボウノザンガイ
オセロット
第1話 氷の転校生
第一章 仮面
一
転校生が来ると聞いて、そんな馬鹿な、と言うのが僕の感想だった。
文化祭も体育祭も終わった十月中旬、午前八時。まだ教室に十人も人がいない時間だが、突然すぎる情報にいろいろと面食らった僕は、眠気も何も置き去りにして驚いていた。
こんな重大な情報が当日の朝になっていきなり、という非常識さにも眉を顰めたが、そもそも転校生なんてものは今日び、存在自体が都市伝説のようなものである。
地元の公立校なら諸々の事情で中途入学と言うのもあるのだろうが、この博涼高校は首都圏に位置する私立校だ。偏差値もそれなりに高く、転入するにもきちんと試験を通る必要がある。そんな面倒を受け入れてまでこんな時期にやって来る転校生と言うのは、あまり現実味のない話だった。
「まあお前の言うことも分かるけどさ、
と、これは
「しかも女の子だとさ。さっき日誌を取りに行ったときに職員室でちらっと顔見たけど、可愛かったぞ」
「……お前さ、そんな下世話な話をするために、朝っぱらから僕に話しかけてきたわけじゃないだろ?」
「まあ確かに、女の話をお前にしてもしょうがないわな。じゃあ本題だ。単刀直入に頼むけど、その転校生の案内係をやってくれ」
分かりきっていたことだが、やはりこのお調子者の用事と言うのは頼み事以外にあり得なかったらしい。白々と手を合わせる松本に一瞥くれて、僕は溜息をついた。
「その、案内係ってのは?」
「つまりまあ、転校生の世話役だな。不慣れな環境に慣れるまでサポートがいるだろうってこった」
「お前がやればいいじゃないか。可愛い女の子だったんだろ?」
「いや、確かにそうなんだけど……」
途端、松本は歯切れが悪くなる。
「……なんつうか、見た感じ苦手なタイプでさ」
「おいおい、可愛かったんじゃないのか?」
「いや、見た目はかなりレベル高かったんだよ。ただ静かすぎるっていうか、冷たそうっていうか。……そうだな、遠目から見ただけだけど、怖かった」
そんな言葉を聞いて、いよいよ僕は怪訝な感情が表情に出るのを抑えられなくなる。
この松本は、根っからの女好きだ。毎年クラス替えのたびにクラスの女子に点数付けをしてランキングを作っているほどの馬鹿だ。どうしてこんなのが学級委員長をやっているのか、僕は本当に理解できない。
それが今回は、まだ話してもいない相手を「怖い」と言って遠ざかろうとしているのだから、訝しみもする。
「一瞬だけ目が合ったんだけどさ、それがもう、ゴミを見る目と言うか。表情も、ありゃあ氷だな。笑った顔が想像できん」
「氷ね。それは確かに、お前が一番苦手なタイプだろうけど」
「だろ?もう二人きりになったら間が持たなくて死にたくなるって。だからさ、頼むよ」
「分かったよ」
いい加減に面倒臭くなって、僕はしっしっ、と手を振った。
「引き受けてやる」
「本当か!」
跳ね上がるような勢いで喜ぶ松本。挙動がいちいち大袈裟なのはこの男の癖のようなもので、うざったいが文句を言うつもりはなかった。
「ありがたい。流石の二つ返事だ。今度何か奢ってやる!」
「結構だ。そう言ってお前、ジュースの一本も奢ったことないだろ。貧乏の癖に無理するな」
「……まあそうだわな。お前、相変わらずズバズバとモノを言うね」
「何か文句でも?」
「ないけどさ」
そうだろう、と僕は頷く。頼みごとを一方的に聞いてやるのだから、憂さ晴らしの暴言くらいに文句をつけられる筋合いはない。
「しかし渦羽根は、本当何がしたいのかよく分からない奴だよな」
頭を掻きながら、松本はそんなことを言ってきた。
「そんないかにも機嫌悪いですって風な仏頂面しながら、頼み事は絶対に断らない。俺よりモテるくせに女は作らないし、浮いた噂の一つもない。良い奴なのかつまんねー奴なのか」
「『良い奴』と『つまんねー奴』は、別に矛盾しないだろ」
「ほら、そういうところ妙に理屈っぽいし。何つーか、人生楽しいか、お前?」
「少なくとも、お前ほど楽しめてはいないだろうな」
答えながら、僕は机に顔を突っ伏した。
朝のホームルームまであと二十分ほど。その転校生がそんなに曲者ならば、きっと応対するにも体力を使うことだろう。それまで一眠りしておきたいというのが、今の正直な気持ちだった。
そして、午前八時三十分。
教室にはすでにクラスメイトの全員が揃い、全員が行儀よく自分の席に着席し、
この辺りは腐っても進学校、その日に教室に転校生が加わるなんて耳を疑いたくなる事態にも大して騒ぐことなく、しっかりと話を聞いている。皆の表情にはありありと混乱が見て取れるが、場を弁えて口に出さないだけ優等生だろう。
「――彼女の保護者の意向で、学習に遅れが出ないようなるべく早くにクラスに入ることになった。それでいきなりになってしまったが、まあなんだ、仲良くするように」
担任教師のそんな前置きを終えて、教室に入ってきた少女は、――一目見て、氷と言う言葉の意味が理解できた。
ざわ、と息を呑むような雰囲気が空間を満たす。
女子にしてはやや高い身長にも、反対に比較的平坦な身体の起伏にも、何ら特別な印象は受けない。肩甲骨の下にまで伸びた髪は漆黒で、いかにも模範的な女子高生という出で立ちである。
顔立ちはお世辞抜きに、なるほど『可愛い』。そのすらりとした外見はむしろ『美しい』と言う方が相応しい気もするが、ともかく、容姿はかなり整っている。そこらの雑誌に載っているモデルとなら勝負できるだろう。
だが、教壇からこちらを見下ろす彼女の眼差しがすべてを覆していた。
熱が、ない。
人が何かに興味を持つときに発生する
松本の方に目をやると、「な?」と言う感じの視線が返ってきた。頷かざるを得ない、これは確かに、『虫を見る目』だ。
「転校生の
こちらの精神的準備不足にはお構いなしに、彼女はそう名乗った。その声も、聞いた瞬間に寒気が走るような冷ややかなものだった。
「皆さんよろしく」
よく通る声で告げて、それっきりである。
誕生日、好きなもの、嫌いなもの、趣味、自己紹介に付け加えるに相応しい情報は諸々あっただろう。それを一つも口にしないということは、単純に常識のない変人か、もしくは――僕らクラスメイトと、仲良くなろうと言うつもりが全くないか、のどちらかである。
どちらにせよ、むざむざ関わりたいタイプではない。
そう思ってから、僕はあの少女に係わる義務があることを思い出す。
「……ええと、仲良くするように」
思い出したように担任教師がそう締めくくり、教室には何とも形容しがたい空気が流れるのみ。
これが僕こと
運命の、と付け加えてもいい。たぶん運命と言うものがあるならば、それが動いたのはこの瞬間だ。少なくとも僕のは。
ただしそれはおそらく、英語にすれば"fate"と訳される、悪性のものだった。
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