第9話




 ABC殺人事件の最後のページを読み終えたとき、たかしが鳥かごを持って部屋に帰ってきた。

「あら、早かったのね」

「ええ。昔から兄の私は、弟の逃がしたペットを、いつも代わりに捕まえさせられていましたから」

「悪いわね。あなたにはいつも、苦労を掛けて」

「構いません。母さんの言いつけならいつでも喜んで守ります」

 文庫本をサイドテーブルの上に置くと、そこへ湯気の立つ紅茶のカップが置かれる。孝が淹れたダージリンは、いつも最高の出来栄えだ。

「鳥かごは、どこへ置いておきます?」

「どこでもいいわ。どうせ殺してしまうのだもの」

「そこまでこの小鳥が憎いのですか」

「当たり前よ。だってこの小鳥は、私が努力に努力を重ねて得たものを、何の努力もなしに長い間独り占めにしていたんだから。当然の報いだわ」

「そうですね」

 ガシャン、と孝が部屋の隅に鳥かごを置いた。私はダージリンに手を伸ばし、一口すすった。その瞬間ふわりと鼻腔に広がる、果実のように甘美な香り。セカンドフラッシュならではの豊潤な味わいに、私は幸福のため息をつく。

 苦労の後に飲む紅茶は、いつにもまして格別だ。


「――少し、お伺いしてもよろしいですか」


 孝が珍しく、こちらが話しかける前に口を開いた。

「あら、何かしら?」

「ここまでする必要は、本当にあったのでしょうか」

「何が言いたいの?」

「弟のことですよ」

 彼は肩をすくめ、絨毯に目を向けた。そこには赤黒いシミが一面に残っている。

「弟を連れ戻すだけであれば、こんなに大掛かりな計画など用意しなくても、もっと簡単な方法があったのではないですか?」

 私はそれを聞いて、思わず大声で笑ってしまった。

「孝、あなたはとても優秀だけれど、本当何もわかっていないのね!」

 私はティーカップをテーブルに置き、孝に向かってこう言った。

「私が求めていたのは、さとしの体ではなく、だったのよ」



 私は、裕福ではあるが愛のない家の一人娘として生まれた。


 プライドの高い両親は、私を厳しく束縛し、娘が親の敷いたレールを外れることを僅かたりとも許さなかった。


 あらかじめすべてが整えられた人生。


 私は生きることに、少しも幸せを見いだせなかった。


 自分など、ただプログラムされた通りに歩いている、ゲームのNPCにすぎない。


 そう思っていた。


 聡を出産するまでは。



「聡が家を出て行ったときの絶望が、あなたにわかる?」

 話しながら、目じりに涙があふれた。

「あの子だけが、私の人生だった。子供のころから聡は、とても優しくて、利発で、いつだって私の味方になってくれた。ブサイクな赤ん坊のことを『天使ちゃん』だなんて、恥ずかしげもなく呼ぶバカ親もいるけれど、私にはあの子が、本物の天使のように見えたものよ。あの子は特別だった。だからこそ、許せなかった……あれだけ可愛がってあげた母親を捨てて、妹に紹介された女と幸せに暮らすだなんて」

「聡は昔から、一度こうと決めたら絶対に自分の意見を曲げませんでしたからね」

「そうなのよね。そこがいいところでもあるんだけど」

 意志の強さ。

 ダイヤモンドにも似たその性質こそが、聡の一番の美点だった。

 そして私は知っていた。どれだけ上から圧力をかけようと、きっと聡の気高い心は、私に屈しはしないだろうと。

「私はね。『人脈がなければ勝ち組の人生は送れない』と言う父親や母親に、いつも人の集まる場所へ連れていかれて、そこでいろんな人を見てきたわ」

「さぞお辛かったことでしょう」

「そうね。でも学んだ事があったわ。それは、人というのは基本的に、他人の描いたストーリー通りには決して動かないということ」


 私はどうにかして聡を連れ戻そうと、策を練った。


 一番手っ取り早い方法は、聡の身柄を拘束・監禁してしまうこと。


 金は腐るほどあったので、実行することは容易だった。

 

 でも、私は、それを躊躇った。


「無理やりに閉じ込めても、意味がないのよ」

 私は部屋の隅の鳥かごに目を向けた。憎たらしいあの小鳥は、私には媚の一つも売らない。聡が中学のとき、誕生日プレゼントとしてペットショップで買ってあげたのは私だというのに。

「でもね、不思議なのは、人は自分自身で描いたストーリーに対しては、驚くほど従順に従うということよ」

「人は『自分の人生をコントロールしたい』という欲求を持っていますからね」

「そういうことね。自分のことをブスだと信じている女の子は、いくら周りから『かわいいね』と褒められても、貶されているとしか感じない。お金を持っていると、よくスピリチュアル系の人に声を掛けられるけれど、彼らも揃ってこう言うわ。『自分の意識を変えれば、世界が変わる』と。それほどまでにこの謳い文句が有効なのは、人が一度自分についてのストーリーを作り上げると、それがその人の行動選択にずっと多大な影響を与えていくからなのよ」

 

 私は、やがて気が付いた。


 私が本当に望んでいるのは、『聡を物理的にそばにおいておきたい』ということなどではないのだと。


 私はあの頃のように、昔のように、聡にまた、優しく接してほしいのだ。


 嘘でもいいから息子のくれた、あの天使のような愛情がほしい。


 ――――愛とまではいかなくとも、せめて聡に、私のことを味方だと思ってほしい。私を置いてどこかへ逃げていこうだなんて、もう二度と思わないでほしい。


 そのためには、ただ監禁するのではダメだった。


 その方法では、聡は私のそばにいたとしても、心の底では永遠に私への憎悪を滾らせ、『逃げ出したい』と願い続けることになってしまう。そんなのは悲し過ぎる。


――ということですね」

 孝が神妙な顔をして、そうつぶやく。

「その通りよ。自分の気持ちを自覚してからは早かったわ。私は手ごろな山奥の館を買い、聡のための舞台を作り始めた。探偵を雇って妹の由利子の盗撮や盗聴をさせ、ハッカーに聡の使っていたクラウドにアクセスさせ、そこに保存されていた家族写真をダウンロード、プリントアウトしてアルバムを作った。過去の記憶を失わせるために脳外科医を雇い、偽の記憶を植え付けた。記憶喪失にさせるのは難しいかもしれないと不安だったけれど、専門医に聞いたら、案外人って簡単に自分の記憶を失うらしいわね。ワンシーンくらいの軽い情報なら記憶を植え付けることも可能だった。電極でショックを与えたり、サブリミナル効果のように潜在意識に刷り込んだりするだけでいいって。その点は本当に助かったわ」

「由利子を殺すことも、簡単でしたか?」

 そう聞かれ、私は首を傾げた。

「何を言っているの? 由利子とその友達を殺したのは、孝、あなたじゃない」

 



 

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