第8話
現れたのは声の通り、中年の女性だった。異臭が鼻を突いたのか、彼女は真っ先に部屋の床に散らばる死体へと目を向け、「うっ!」と両手で口を覆った。それから僕の存在に気づき、こちらの顔をまっすぐ見て、そして、小さな声でぽそりと言った。
「サトシ?」
「えっ」
「サトシ、なのよね?」
サトシ?
誰だそれは。僕の名前なのか、まったく違うやつなのか?
でも迷っている暇はない。僕は一か八か、首を縦に振った。
「そうです」
「やっぱり! ああ、あなたは無事だったのね!」
言うが早いが、女は僕に抱きつき、嗚咽交じりに呻くような声を上げた。
「ああ、ああ……でもユリコが……こんなことになるなんて……!」
「ユリコ……」
「ねえサトシ、教えて頂戴、一体ここで何が起こったの? 誰が私のユリコを……私の娘をこんなひどい目に遭わせたの‼?」
その言葉を聞いた瞬間だった。
不思議な感覚が、電光石火の速さで脳を支配した。
この女の着ている服に、吸い寄せられるように目が行った。とても高級なブランド服。指にはいくつもの指輪。白髪一つなく丁寧に染められた髪。ふわりと漂ってくる上品な香水の匂い。
「――実はね、母さん」
僕は気づけば、目の前の女に冷静な口調で話し始めていた。
「僕も今、意識が戻ったばかりなんだ」
「えっ、どういうこと?」
女は驚いてこちらを見上げた。僕は話を続けた。
「実は、ここへはユリコの相談を聞くためにやってきたんだ」
「相談?」
「詳しくはわからないけど、ユリコには悩みがあったらしい。友達と一緒に、僕に相談したいことがあるとも言っていた。僕なら法律のことも詳しく教えてあげられるし、トラブルの解決にも慣れているから、深く考えずに了承したんだ。ユリコが『他人に聞かれないようなところで話したい』というので、この森の奥の家に招待して、僕とユリコとユリコの友達とでここに来た」
「それで、どうなったの……?」
「この家に着いてから、僕はとりあえずこの部屋にみんなを案内した。さっそく話を聞こうとしたとき、僕はこの部屋にメモをとるための道具が全然ないことに気づいて、一旦書斎に行った。複雑な話かもしれないし一応メモを取っておこう、と思って。そしてペンと紙を持って書斎を出ようとした時だった。この部屋から、ユリコたちの悲鳴が聞こえてきた」
「悲鳴?」
「僕はその時玄関のカギを閉め忘れたことに気づいた。あわててユリコたちのところへ戻ろうとしたけれど、できなかった。僕は開いたままのドアから、この部屋の中に、のこぎりのようなものを持って立っている誰かの人影を見てしまったんだ」
「ええっ……⁉」
「僕はこのままでは自分も殺されてしまうと思った。だから音を立てずに書斎に戻って、物陰に身を隠した。僕は情けないことに、そこでいつのまにか気を失ってしまって……緊張と恐怖で脳に血が行かなくなったのか、ふっと意識がなくなってしまったんだ。そして気が付いたら……犯人はどこかに消え、ユリコたちはこんなことに……」
「まさか、そんな……」
目の前の女は、僕の言葉をあっさりと信じたようだった。僕は顔を両手で覆って、泣き崩れるふりをしながら、こみ上げてくる笑みを押し殺した。
当然だ。
どれだけ記憶を失っていようが、こんなバカであることがわかりきった女を騙すことなどできない方が難しい。誰が見たって一目瞭然ではないか。だらしのない身体にまるで似合わないブランド服、長い爪にごちゃごちゃと施された悪趣味なネイル、そして養豚場の豚にも似た鈍そうな顔つき……この女はまさに「世間知らずのお嬢様育ち」に違いない。金持ちであることは一目見て分かったが、こいつはキャリアウーマンや女社長のような、自分の身一つでのし上がったたくましい女などでは決してない。
こいつは、カモだ。
そしてこのカモは、僕の親族……しかもほぼ間違いなく母親だ。
「僕はまた命を狙われるかもしれない」
僕は声を震わせ、女に聞こえるには十分な大きさの声でそう言った。
「ユリコをなぜ殺したかはわからないが、奴は、僕を探してた……そうだ、僕が囮になれば、犯人を捕まえられるかも……」
「やめて!」
女は叫んだ。
「馬鹿な考えはやめて! あなたがそんなことをする必要なんてないの! あなたまで失ってしまったら……私は……私は……」
「でも、僕はユリコを殺した奴を許せないよ」
「許せないのはわかるけど、そのためにあなたが危ない目に遭う必要はないでしょう! そんな、犯人逮捕なんて、警察に任せておけばいいのよ!」
僕はあまりの怒りに我を忘れたような渾身の演技をして、テーブルの上のワイングラスを両手で薙ぎ払い、床にぶちまけた。
「でも犯人が捕まっていないこの状況で、安全な場所なんて、どこにもないだろ!」
女はあっけにとられていたが、すぐにまた気を取り直して喋りだした。
「だったら、海外に逃げましょう⁉ きっとそこまで追ってはこないわよ。どこでもいい、サトシの好きな国に行って、事件が解決するまでそこで暮らすの。住む家でも何でも、私とお父さんとで用意するから。だからお願いよ、自分の身を危険に晒すようなことをこれ以上しないで頂戴……?」
僕は女に背を向けて、またほくそ笑んだ。
これでいい。
これで、僕は、自分のやるべきことをようやくやり遂げた。
「そういえばユリコは、最近大学で誰かに
「そう、なんだ」
「ええ。とにかく早くここを出ましょう? 一刻も早く、安全な国へ行くのよ」
「わかったよ、母さん」
女に腕を引っ張られていきながら僕は、振り返って部屋の窓を見た。カーテンの隙間からは、もう一人の虚像の自分がこちらを覗き込んでいる。
「――――これで、よかったんだよな?」
かすかな声で、そう尋ねてみる。
「……」
彼は何も言わず、ただ悲しげに目を伏せただけだった。
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