第19 一炊之夢にも劣る

 

 「なぜ蘇将軍が……。」


 重嚴が泱容についたと知らせを聞き、惹喜は崩れ落ちるように椅子に座った。


「璧妃を嫌っておったではないか……。」


 紫蓮は項垂れたまま言った。


「一先ず……ご実家へ走られませ。殿下がおりますゆえ、頼ることはできましょう。」


「あぁ。」


 惹喜は立ちあがり、供を従え全克の宮へ急いだ。

 血相を変えて飛んできた母に全克は驚いた。いつも髪の毛一本乱さぬ厳然たる母が、色をなくした顔でやって来たのだ。ただ事ではないのは明白である。


「母上……。」


 母は唇を震わせ


「盧家に……参りましょう。直ぐに支度を……。」


 と全克に言った。

 全克はこの瞬間悟った。


 終わったのだ。


 と、


 そして、全克は柱の死角に入ると、徐に懐から丸薬をだし飲んだ。

 あまりにも平然と、を飲む様子に宦官も侍女もそ、れがあわや毒であったなどと思うものは、誰一人としていなかった。

 そして、全克は母と共に数名の衛官と侍女達に守られながら逃げたものの、城門を出る所で重嚴の手勢に捕らえられた。

 惹喜は長満が助けてくれることも期待したが……。


 惹喜は嗤った。


 期待すべくもなかったか……。


 傾き始めた太陽に、さらされた門の外の広場には、誰もいなかった。全く考えないでもなかったと言うより、その可能性は高いとも思っていた。だが、それを目の当たりにすると、例えようのない絶望を思い知らされた。

 長満は惹喜を切り捨てたのだ。

 そして捕縛され引っ立てられるその道中……


「おいっ? おい!!」


 全克に付いていた兵士が慌てた様子で声をかけた。

 惹喜が振り返ると全克は、全身をガタガタと震わせ激しく嘔吐していた。


「万春?」


 惹喜は息子を字で呼んだ。

 勿論、全克は痙攣しながら崩れ落ちるだけで、返事はない。


 信じたくなかったか。


 しかし、その様子を見て直ぐに解ってしまった。


 毒を、――――自分で……!!!


 言葉にならない叫びをあげ、惹喜は崩れ落ちた。惹喜はもはや、これ以上歩を進めることはできない。

 重嚴はため息を一つつき、崩れ落ちた彼女を無理に立たせた。


「恨みはござらん。しかし……。」


 重嚴は言い淀んだ。

 城で権勢を振るっていた彼女は、決して潔白の身では無く、後ろ暗いことなら数え切れないほどあるだろう。しかし、目の前で子を亡くし、親に見捨てられ、これからは拷問が待っている。人情としては、この場で首を落としてやりたい。が……盧長満の首を落とすのであれば、彼女は生かしておかねばならないのだ。

 重嚴は兵に命じ惹喜を牢へと運ばせた。

 惹喜は、兵士に両脇を抱えられながら去る時、天を見上げフッと嗤って言った。


「馬鹿馬鹿しい……。一炊之夢もこのように虚しくはなかろうよ……。」


 そして……――――。


 翌朝、首を吊って死んだ。

 当然、惹喜には手枷足枷がつけられており、自力で首を吊ることなどできない。

 それは十中八九、城内にまだ長満の影響力があるという事を示す。

 寝台で報告を受けた泱容は蘇信に訪ねた。


「殺されたか……?」


「申し訳ございません。」


 重嚴は深々と詫た。しかし泱容は責めることなく


「長満の首は取っておらんのだ……仕方あるまい。」


 と抑揚なく返事をし、遠い目をすっかり日の登った青空に向けた。だが、感慨に浸っている場合ではない。城内の制圧を三日で成したと言えど、既に国境では戦端が開いているのだ。

 重嚴は遠慮がちに口を開いた。


「殿下、お疲れとは存じまするが……――。」


「分かっておる。惹喜を廃した今、玄との国境前線に立てと言うのだろう? しかし太后を城に置いて良いのか?」


 泱容には懸念がある。


 惇家は旧王族であったが故に、玉座に対する執着が激しかったはず。現惇家当主もそれは同じ。小心者であったと思うが欲深い。

 ならば……この混乱に乗じ、背面から矢を射かけられないとも、限らないのではないか?


 この泱容の憂いを感じ取った重嚴はこのように答えた。


「ご安心を……目は常につけてございます。気になることもございましたので……。」


「気になるだと……?」


 泱容は片眉を釣り上げた。


「惇家当主がこのところ姿を見せておりません。」


 泱容は思わず、横たえた上半身を肘付き起こした。


「惇氏が? まさか……。」


 泱容が皆まで言わずとも、重嚴は頷いて言ったた。


「太后に粛清されたものと……。」


 泱容は口に手を当て考え込んだ。


 では、私を推したのは、太后の独断であったと言うわけか?


 考えてみれば、小心者の惇氏が劣勢であった私を推すとは考え辛い。

 ならば今後太后が私を押えるとして……やはり


「太后が私を制圧するとしたら内政。」


 泱容が呟くと蘇信は同意した。


「そうでしょうな。」


 泱容は考えを巡らせると、乱れた髪をかきあげながら言った。


「では……あの女がすぐさま敵にまわることは無いな。」


「えぇ……ですが――――。」


 重嚴は渋い顔をした。彼の中で言いようのない不安が拭いきれないでいたのだ。なぜなら……


「常のあの方らしからぬ行動の様に思われて、少々不気味と言いますか……。」


 重嚴には、太后がいきなり別人のようになってしまった様に、感じているのだろう。だが泱容にはそうは写らなかった。泱容は言った。


「確かに……あの女は生粋の貴族で、深窓の令嬢だ。そんな女が、孝を蔑ろにする行動をとるなど異様ではある。しかし……太子が亡くなったのだ。それも、自分より卑しい商人の娘の手にかかったとあっては……普通の状態とは言い難いだろう。」


 蘇信は唸った。この泱容の言には若造ながら説得力を感じられる。なにせ彼自身も、この壮麗な城の中で辛酸を舐めて生きてきたのは、周知の事実なのだから。


「確かに……左様でございますな。」


 重嚴は感慨深気に目を閉じた。

 重嚴も知らないわけではないのだ。貴族の子女は艶やかに着飾り、一見何一つ不自由ない様に見えるが、内実はそうでもないという事を。


 皮肉なことだが、身分が上がるほど、いつどこで唯一の頼りのである実家から切り捨てられるか分からず、いつ他の女に座を奪われるかもわからず、確実な身の保証をしてくれるのは、将来確実な跡取りを設けること、のみである。


 そんな当たり前と常識を、骨の髄まで教え込まれてきたであろう惇太后ならば、皇太子という黄金の手札を奪われた恨みと憎しみは、壮絶なものに違いない。


 ならば、実父を殺そうが"外国とつくにの血"を受け入れようが、彼女にとっては些事なのかもしれない。

 ただ、それは生粋の軍人である重嚴では、想像のつきにくいことだったのだ。


「時に……蘭玉はどうした?」


 泱容が不意に蘇信に尋ねた。


「蘭玉?」


「あぁ。太后の元へそちを向かわせたときに、剣を振り回す小娘がおっただろう?」


「あぁ! 勇ましい娘がおりましたな! 殿下の配下でありましたか。」


 "配下"という言葉に泱容は渋い顔をした。


「あぁ……まぁ……そうだな。」


 蘇信は泱容のその様子に眉を寄せた。


「ご懸念でも?」


「イヤ……良い。」


 泱容はパッと顔を背けた。顔を背けたその先には、薔薇に彫刻された粉色ピンク蛋白石オパールの指輪が、置かれていた。


 母の数少ない遺品……。


 羨慕月亮夜夜心毎夜月を羨むがいい


 と、頭に木霊し、苛立たせる男にせめて一矢報いてやろうと、アトに渡す筈だった。


 しかし……。

 盧貴妃の事があって、後宮という場所がどういう場所か、改めて思い知らされたせいか、考えてしまう。

 陰謀策謀の巣のような後宮に、アトを放り込めばどうなる? まして恋慕の鎖で縛れば?

 それは、地獄に落とすのと、変わりないのではないないか?

 しかし、他所の男の手に渡すのも腹立たしい。

 女人一人にこうも思い悩むなど、今までにないことだっただけに、手に負えない。


 この泱容の挙動不審な様子に、重嚴は蘭玉という娘が彼にとってどういう娘なのか、なんとなく察知した。

 察知した上で何も聞かずにおいた。


 蘭玉とか言う娘、あの様子では身分は卑しかろう。ならば、後宮でやっていくだけの後ろ盾もない。

 女で剣を扱えるなど、奇特なこととは思うが後宮でそんなものは、役に立たぬ。

 肝要なのは如何に内政を握り、その手綱を繰るかである。学もまともにないであろう小娘に、到底できるとも思えない。


 碧妃の二の舞いになるのは必定であろう。


 しばらく沈黙が続いた後、泱容は起き上がって宦官に身支度を命じた。そして


「これを蘭玉に下賜せよ。」


 と形見の指輪を重嚴に預けた。


「殿下!!」


 重嚴は咎めるように声を上げたが泱容は


「このくらい許せ。奴は簪一つ贈れなかったが、私は指輪を贈ってやれるのだ。そのくらい優越を感じてもよいだろう。」


 と嗤った。泱容も覚悟の上なのだ。


「承知致しました。」


 重嚴は指輪を受け取ると、早速アトの元に届けさせた。


 その頃、アトは負傷し宮廷の医局にて世話になっていた。首を数針縫い、肘の矢傷と処々かすった細かい傷で、派手な出血の割に、さほどの重症ではなかったため、長居は無用と荷造りをしているところだった。

 そこへ、


「蘭玉殿であられるか?」


 と仰々しく問う甲冑姿の武人がやって来た。


「はい! 私ですが?」


 と出迎えると


「殿下より下された品である。受け取るが良い。」


 と絹に金糸の刺繍の入った小袋を、脇にいた下男に盆に載せて運ばせた。

 アトは何事かと、目をしばたかせて呆然としていた。この態度に武人は


「殿下の労いぞ!? 無下になさるのか!?」


 と怒号をあげた。そこでハッと、礼を尽くさねばっとアトは我に返り


「申し訳ございません。身に余る栄誉に我が目を疑っておりました。お許しを。」


 と慌てて身を低くした。

 武人は呆れた顔をしたが、アトに小袋を渡して去っていった。

 小袋の中身は……。


「きれい……。」


 指輪だった。

 金の台座に粉色の花弁が幾重にも重なった花が綻ぶ愛らしい指輪だ。

 アトはさっそく自分の指にはめてみた。

 似合うかどうかはともかく、指輪はきれいだった。

 こういう女らしい贈り物は初めてなだけに、顔がニヤけて仕方ないが、同時に不安も覚えた。


 何事かあるのではないか?


 しかしアトはもうお役御免である。

 これから皇帝に登ろうという彼とは、益々無縁になる。そもそも泱容と関わっていた事自体、分不相応だったのだから。

 アトは寂しさをにじませながらも、荷造りを終え太師邸へと向かった。もうここに来ることないと、言い聞かせながら城を出た。



























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