皇帝の剣

泉 和佳

第一章

第1話 帝都への旅路 

 崇江すうこうを湛える豊かな水源は、皇祖尊霈こうそそんはいの前より、この地を潤し、人や家畜や草木にいたるまでその恩恵を受けたが、

 崇江の主たるみずちは気まぐれに田畑や村を押し流し、時には一国をも脅かした。

 ある時、皇祖尊霈が現れ、蛟を討ち取り崇江を鎮めたる後に、御代の皇帝は恭しく冠を脱ぎ捨て、皇祖尊霈に捧げ臣下に下った。


 これなるは、我が洸国こうこく始まりの縁起である。



 もうすぐ夏だ――。

 舟に揺られて七日目の朝、少女は顔の上を飛んでいる蜻蛉トンボをぼんやり眺め、寝返りをうった。

 すその短い円領(※1)に※(※2)を着、頭を一本の三つ編みにし額に布を巻いたその姿は、さながら少年の様だが彼女は十七になる娘である。


 少女は名をアトと言う。

 洸国こうこくは西方の果て、華山より向こうの仏手連山の隣にある鶏山その山腹にある張岩村からやって来た。

 これから父の命にて帝都尭治ていとぎょうちへ上るのだ。

 しかし、それにしても、舟の上はやることが無さすぎて昼寝ばかり…。


 向こう岸が見えぬほどの大河を進む舟は、せっせとかいを漕ぐ必要もない。

 時折他の船にぶつからない程度に漕ぐだけ勿論船頭の手伝いなど不要。最初こそこりゃ楽でいいと、喜んだが三日も過ぎればもう飽いた。

 そもそも彼女は、遠方の移動であっても陸路で、しかも自らの足でしか移動したことがないから、何もしないで過ごすことに慣れていない。

 だから余計に我慢がならないのだ。


 そろそろ着かないだろうか? アトは首を亀のようにぐいっと伸ばし、辺りを見渡した。

 左には草蒸した堤防が延々と続き、右には遥か彼方の向こう岸の堤防から山の稜線がちらつく。乗った時とあまり変わらない。ただ、都が近づいたからか、大きな船がいくつも見えるようになっただけだ。

 変わり映えもない景色に、いい加減うんざりしたアトは船頭に訊ねた。


「おじさーん。万松ばんしょうの港はまだかい?」


 すると四十がらみの頭を緇撮しさつ(※3)にした男が、船の縁に足をかけ乾いた声で笑った。


「ははっ。坊主。辛抱ならねぇか。十日も経っちゃいねぇがな。」


「十日!? 後三日も暇を潰さなきゃならないのか!?」


 アトは目を白黒させた。こんなことなら陸路の方がマシだったと、思ったが口には出さないでおいた。


「あぁ。かかるときは二週間だ。陸路よりは遥かに早く着くんだから、こんなとことで音をあげちゃいけねぇよ。こんなときは太公望に限るぜ。ホラよ。」


 男はアトに釣竿を投げて寄越した。


「魚なんて都じゃそう高く売れないだろ? 海が近いんだし。荷台一杯じゃなきゃきっと屋台で串焼き一つ買えやしないよ!」


 アトは眉をひそめたが男は笑っている。


「田舎者だねぇ。都にゃ古今東西の商人が集まるんだ。はらわたとって塩漬けにすりゃそこそこの値はつくのさ。」


「へぇ。」


 アトは感心して、船頭に倣い釣糸を垂らし始めたばかりだったが……


「ややっ! こりゃぁ思ったより早かった!」


 と船頭が慌てて声をあげた。


「早い?」


 アトが船頭の方を向くと、船頭はいそいそと楷を船底から取り出していた。


「思ってたより流れが早かったみてぇだ。もうすぐ都に着く。」


「ホントか!?」


 アトは喜びのあまり、舟縁から身を乗り出した。すると、行く手が二又に分かれていて、幾つも弧を描く水門が城の如くそびえ立っている。


「……港はまだ見えないんだな。」


「あぁ。だがもう一刻程で着いちまうよ。しかし……どうもおかしい。」


 男は首をかしげた。


「おかしい?」


「うーん……。最近どうも、川の流れがやたら早くなった気がする。雨でもないのに水かさも増えてきて……どうしたもんかな。」


「へぇ。」


 どうも船頭は、不安を感じているらしいが、アトとしては、早く着いてくれたんなら願ったり叶ったりだ。

 だから、この時は大して何も思うことはなかった。


 そうして、船頭が言っていた通り一刻過ぎたところで舟は万松の港に入った。

 万松の港は城下町から一番近い港で、この国最大の港である。主に物流の拠点となるので、ここは小さな船があまり泊まらない。だからアトたちの船のような精々が一丈(3m)程の小舟は、周りの一引(30m)はあろうかと言う巨船の間を、縫って進まなければならないのだが、これが大変恐ろしいものだった。

 迫りくる巨船の壁は、岸に近い程密になって磨り潰されるような気さえしたし、途中何度もぶつかりそうになって、その度船頭は楷をつっかえ棒代わりに、相手の船の壁を押しやって避けた。

 こんなことをしておいて、よく怒鳴られないもんだとアトはハラハラしたが、相手方の船員は目の前で見ていても肘付いてあくびをかいている。

 どうやらこれが常らしい。


 そんなことをしながら、船頭は小さな桟橋に船をつけアトはようやく舟を下りた。

 一週間ぶりの地面は、舟を下りたのに足元でまだゆらゆらしているようだ。

 アトは船頭に礼代わりの軟膏を渡し別れた。


「すまねぇな。郭の旦那にはよろしく言っといてくれ!」


 船頭はそう言ってアトを見送った。

 郭の旦那と言うのは、薬問屋の旦那で張岩村の主な収入源である高山の薬草を贔屓にしてくれている。

 今回の船旅の手引きも引き受けてくれた上に、今回の旅費は付けで良いと言ってくれたのだ。金はあるから払うと言ったが、郭の旦那には


「この金は絶対使うな!」


 と強く止められてしまった。

 と言うのも、アトが持っていると言う金は父から送られてきたらしいのだが、どうも様子がおかしかった。


 それは八日前のこと。

 若い男が父の手紙を携えやって来たのだが……。

 その男は青い麻地の曳撒えいさん(※3)をまとい、恰幅かっぷくも良く軍人然としてた。軍人が珍しい訳ではないが、直接村に来たと言うのが普通ではないのだ。

 なにせ張岩村は山奥、それも役人を派遣できないから、事実上の自治状態になっている。

 だから普通は急ぎの用でも、麓の村の住人に言伝てを頼むか、張岩村の者が下りてくるのを待つものだが、それをどうも自力でたった一人来たらしい。

 着ている服はあちこち破け、まげも歪んでボロボロだった。それでも背筋を立て、アトに小袋と共に手紙を黙って押し付けると、もてなしもろくに受けることなく、さっさと帰っていったのである。

 この奇妙な出来事に、薬目当ての詐欺かと疑ったが、手紙は間違いなく父の手であった。

 内容は″住み込みで割りの良い仕事があるので来い″と。それから一緒に押し付けられた小袋の中身だが……。


 銀錠ぎんじょうが二つ。


 これだけあれば、百姓家を田んぼ畑に家畜つきで買えてしまうほどの大金――。


 アトはギョッとして直ぐ山を下り、郭の旦那にこれを見て貰ったが間違いなく本物。

 郭の旦那もこりゃおかしいとなって、心配したので、旅の手引きを申し出てくれたのだ。そして……


「この金は絶対に使うな!」


 と固く忠告を受けたのであった。

 そこで、銀錠は郭の旦那がひとまずアトから借金をした体をとり、預かる事とし借用書を一筆したため、アトに持たせたのである。

 そんな経緯もあって、一抹の不安を覚える旅路であったが、護岸を上りきるとそんなことは忘れてしまった。


 そこは、ありとあらゆる珍品・多種多様な人でごった返す万松の港。

 見慣れた米や小麦など、穀物が入った麻袋だが、量が半端じゃない。壁になるほ積まれている。

 それに、検品のために開かれたひつの中身は、色鮮やかな反物だったり、宝石だったり、かんざしだったり、陶器だったり。

 それから、アトの故郷では見たことないような、動植物もたくさん。毛足の長いサルや、目に染みるような原色の鳥たちに、服の袖の様な大きな葉の木立や、蛇のように曲がりくねった枝の樹木等もいっぱい。


 珍しいものは動植物だけではない。あっちにこっちに動き回る人も、肌の色が黒かったり白かったり、顔つきも異様に鼻が高かったり、目が影でわからぬほど彫りが深かったり、目の色が青かったり灰色だったり、金髪なのも茶髪のもいたりした。よその国からも商売をしに来ているのだ。


 アトははしゃいでしばらくその辺をぶらついていたが、関門にずらりと並ぶ長蛇の列を見た。


 検問だ。行かないと!


 アトは慌てて列に並びに走った。

 辺りが珍しくてついつい忘れていたが、これを通らないといつまでたっても都に入れない。

 そうしてアトはゾロゾロと列に並び、いつもの調子で関門を通ろうとしたその時、


「止まれ! 旅券(※4)はあらためたのか!?」 


「? ここでするんだろ??」


 すると兵士は小バカにした態度で言った。


「けっ! 何だ田舎者か。都じゃ官吏が旅券を検めるんだ。戻れ!」


 アトは目を剥いた。


「官吏ぃ!? じゃどこで検めるんだ!」


 兵士は無言で建物を指差した。その先には朱柱の立派な建物が建っていて、大勢の人が出入りしている。

 地方では旅券を門番の兵士に見せて、名前と在所を言うだけなのだが、都では官吏がお出ましになられるようだ。

 アトは門番の嘲笑を背に、建物に渋々と向かった。中に入るといくつも行列を作っており、その先にはずらりと机が並べられ、緑の盤領に幞頭ぼくとう(※5)の男達が座って、ポンポンと判子を押していた。

 アトはしょうがなしずらずら並ぶ列の一つに一刻(二時間)ほど並んだ。

 ようやっと順番が回ってきて、早速旅券を差し出すと顎の細い官吏がジロリ……。


「女人……とあるが?」


 官吏はアトの旅券を見て言った。


「あぁ。 女だが?」


 格好が少年の様だから、どうも疑われているらしい。


「下女を呼べ。 調べさせろ。」


 そう命令すると、白髪混じりの女が出てきて、アトの体をトントンはたきながら調べた。

 すると不意に懐から、郭の旦那に貰った借用書がぽろっと出て―――。


「何だ? ………なっ!!」


 官吏は一瞬固まった。


 銀錠二つの借用書。債権者はアト(目の前の身分卑しい小娘? イヤ……少年。)


「こっ……こんな大金! 有り得ぬ!! 詐欺に使うつもりだったのであろう!! 引っ立ていっ!!!」


 途端にアトはわらわらと出てきた兵に囲まれた。


「違うよ! 嘘だと思うなら郭の旦那に聞きゃあ――――――!」


 兵士達はさっさとアトを後ろ手に縛り上げた。アトは身をよじって抵抗したが。


「動くなぁ!!」


「はっ放せ! 違っ!」


 アトはさっさと兵士に取り押さえられ、牢に放り込まれてしまった。


 ―――――――――――――――――――――――――――――――


 ※1:襟の丸い着物。

 

 ※2:漢服のはかま。 


 ※3:漢服の軍服。


 ※4:住んでいる県や州を出るとき身分証明書として提示する木製の札。


 ※5:朝服に用いた頭巾。










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