いままでと変わった事と言えば
結局、冬休みが終わるまでみっちりと入院するハメになってしまった。
おまけに、退院してもさらに二週間は自宅で安静にするようにとのお達しで、貴重な高校一年の冬はむなしく過ぎ去ってしまうのだった。
そう、自宅である。今、僕は楽しい思い出なんか一つもないマンションに戻って暮らしている。
児童相談所の人や学校の先生たちと交えて話し合った結果、いったんここに戻って生活することにした。クソ親父はいまだ檻の中で、当面は出てこれないとのことで僕は念願の独り暮らしというわけだ。
「はい、じゃあ一之瀬君は何もしなくて良いから。しっかり休んでてね」
そして、吉本さんが後ろで髪を括りながら、キッチンで料理の準備に取り掛かっている。
制服のブレザーを脱いで、ブラウスの上から持ってきたエプロンを巻いている。眼福だ。見ているだけで怪我が治るに違いないな。
まずは言い訳を聞いてほしい。一人暮らしを始めたからと、早速連れ込んだわけじゃない。
そもそもは昨日の夜にした吉本さんとの通話がきっかけだ。
学校が始まってしまうと彼女も忙しくてなかなか会えないから、毎晩の通話が楽しみなっている。
「今日もちゃんと、おとなしくしてた?」
「うん、ちょっと買い物に行っただけで、後はゴロゴロしてたよ」
「そっか。ご飯とか買いに行ったの?」
「ご飯と言うか、適当に食べ物とかの買い出しかな」
「一之瀬君、今は料理とかできないもんね。ご飯ちゃんと食べてる?」
「うん、食べてるよ」
「カップめんとかばっかりじゃダメだよ」
「ああ、カップめんじゃないよ」
「お惣菜とか?」
「ううん」
「じゃあ、コンビニ弁当とか? その手で自炊は無理だよね?」
「もともと、僕は料理とかできないしね。今日はお菓子とか適当に食べてただけだよ」
「…………お菓子?」
「うん、ポテチとかロールケーキとか。そういうのを小腹空いたらつまんでるだけ」
「ひょっとして、退院してからずっとそんな感じ?」
この辺りで、吉本さんの声が妙に低くなってきたんだよな。
何か怒らせるような事言ったっけ? って不思議に思ってた。
「まあ、そんな感じかな。コンビニ弁当も飽きてきたしね。言われてみれば、退院してから一週間たつけど、カップめんかお菓子しか食べてないや」
「バカッ!!」
「えぇ!? なんで?」
「もっと、自分の事をいたわってよ!」
「でも、ちゃんと休んでたよ?」
「もっと、ちゃんとしたの食べないとダメ!」
「ちゃんと、カロリーは取ったよ?」
「栄養を摂れ!」
「うーん。栄養とかそういうの、良く分かんないんだよなあ」
「と・に・か・く! 明日、昼前にそっち行くから!」
どうも、僕の食生活が彼女の
折しも今日は土曜日で昼ごはんを食べさせてくれるために、怒りの吉本さんが乗り込んできたというわけだ。
「僕は悲しい」
キッチンでうちに置いてある鍋やら、まな板やらの料理道具を確認してる吉本さんに話しかける。
「何が?」
彼女は
振り向くときに、後ろで結った髪が躍るのが綺麗に思えた。
制服の上にエプロンをつけている彼女が新鮮に感じる。
「吉本さんが、付き合ってもいない独り暮らしの男の部屋に上がっちゃうような女の子だったなんて」
「そんな体で変な事なんかできないでしょ」
呆れたように僕の戯言は聞き流される。
確かに吉本さんの言うとおりで、いまだに左手は心臓よりも高いところをキープしないといけない。だから、左手を右肩にあてるような格好でダイニングに置いてあるテーブルの椅子に座っている。指の経過は順調で、二本ともこのまま上手く繋がってくれそうだった。
「しっかし、ホントに調味料とか何も置いてないんだね」
吉本さんは、ふー、とため息をついて我が家の悲惨なキッチンを見やっている。
近所のスーパーの袋から、小さな瓶に入った醤油やみりんといった調味料たちを並べ出した。
「まあね。そこにある炊飯器も動いてるところ見たことないや」
いつも薄暗い印象しかなかったリビングだけど、冬の穏やかな日差しが窓から差し込んでいるのと、吉本さんがキッチンに立っているだけで明るくなったような気がする。
窓からは冬晴れの青空が広がっているのが見えて、ときどき子どもたちが楽しそうに遊んでいる声がどこかから聞こえてくる。
「そう言えば、今日は部活行かなくて良かったの?」
「うん。今日は休ませてもらったんだ」
吉本さんは、ジャガイモをシンクで洗っている。
「ひょっとして、僕のために?」
「だって、一之瀬君、ちゃんとしたの食べないんだもん」
僕の方に振り向くと、頬を膨らませて怒ったような顔をする。
もちろん、本気で怒ってるわけではないのはわかる。
「制服きてるから、本当は部活行くつもりだったんでしょ? なんか、ゴメンね」
吉本さんには心配とか、迷惑ばかりかけてしまっていて、本当にすまなく思っている。
「一之瀬君と会ったら、やっぱりこっちにいたいって思ったし。だから、良いの」
そう言うと、慌てて僕から目をそらして、耳まで赤くなっている。
なんか、僕も同じように顔が赤くなってしまった。
ちょっと、お互いに気恥ずかしくなって無言の時間が過ぎる。
吉本さんは手際よく、野菜の皮をむいて、カットして、鍋に放り込んでいく。料理をしている彼女はいつもと少し雰囲気が違っていて、少し大人びて見えた。
迷いなく、テキパキと動く姿は見ていて気持ちいい。いつか、吉本さんと結婚して自分の家でああして料理を作ってもらえたら幸せだろうなあ、とかぼんやり考えていた。
二つの鍋が使われていて、一つは味噌汁のようだ。もう一つはできるまで秘密ということになっている。リクエストを聞かれたんだけど、メニューが浮かばなくて、その代わりに「普段、家族だけで食べるような普通の手料理」という曖昧な要望をだしたら、吉本さんは少し考えて「わかった」と受けてくれた。だから、僕も出てくるまで大人しく待つことにしている。
あたりに良い匂いが漂ってきた。鍋からはクツクツとじっくりと何かを煮込んでいる様な音がしている。
んー、こういうの良いな。
自分のために料理を作ってくれる人がいて、早くできないかなとおなかを空かせてウズウズする。もし、そんな子供時代を送れていたら、また違った僕になれたんだろうか。
そんな空想に浸っていたら、吉本さんがテーブルの向かいに座った。しばらくは手が離せる工程になったのかもしれない。
「今度、先生と部屋探しに行くんでしょ?」
「うん、そうなんだ。良いとこ見つかると良いなあ」
クソ親父もいつまでも檻の中ではないし、いずれここに戻ってくる。だから、ここにいるのはあくまで僕の自宅療養が終わるまでの間だけで、それが終わると新しく部屋を探す予定だ。
今回は、ちゃんと後ろ盾がある。
お見舞いに来てくれた生活指導の先生が「俺が何とかしてやる!」と協力を約束してくれたのだ。前はずいぶんネチネチとしつこい取り調べを受けたから、あまり良い印象がなかったけど、改めて話してみると理想を持った熱心な先生なんだなと思い直した。しつこかったのも熱心さの裏返しだったのかも。
「困ったことがあれば夜中でも連絡しろよ」と携帯番号まで教えてくれて、頼りがいあるところも意外だった。前は奥さんはどこが良くて結婚したんだろうって疑問に思ったけど、こういうところが良かったのかもなあと、思ったり。
「良かった。やっと安心できるね」
「吉本さんも、今までありがとう」
でも、吉本さんは俯いて悲しげな表情になる。
「でも、私は結局なにも力になれなかったよ」
「そんなことないよ。一人だと心細かったけど、吉本さんがいてくれたから僕は頑張れた」
だったら、嬉しいかな。そう言って、少し微笑むと鍋の前に戻っていった。
今まで吉本さんがどれだけ僕の支えになってくれたのか、どうやったら伝えられるんだろう。言葉をいくら繋いでも届かないんだろうな、本当にもどかしい。
彼女はみりんと醤油を加えて味を調えている。
「もうちょいだよ!」
吉本さんは、ちょっとしんみりした空気を吹き飛ばすかのように元気な声を出した。
僕の方を振り向いて、親指を立ててニカッと笑う。僕も右手の親指を立てて返す。
「これだけは、残念だけど」
と不満そうにつぶやいて、パックのご飯を二人分電子レンジで温めてくれた。
我が家にお米なんてもちろん置いてないから、ご飯はパックので妥協となった。
そうして、吉本さんの作ってくれたお昼ご飯がテーブルに並ぶ。
ご飯に、白菜となめこと豆腐の味噌汁、そして肉じゃがだ。
「やっぱり、こういう時は肉じゃがらしいよ。男の人は肉じゃがに弱いって、ネットに書いてあったし」
そういって笑う吉本さんは、少し得意気な様子だ。
クソ親父が酒を飲む以外に使われていなかったテーブルに、湯気を立てた料理が並んでいるのを見ると現実離れしたような不思議な感覚に見舞われる。
「よし! じゃあ食べようよ」
「うん、おいしそう」
二人で顔を見合わせて同時に手を合わせた。
「「いただきます!」」
まずは味噌汁からいただく。とろとろと柔らかくなった白菜の甘みと味噌の塩気が舌に広がって、最近の貧弱な食生活で味を楽しむ事を忘れていた僕の味覚が復活した。なめこのつるんとした食感も気持ちいい。肉じゃがは、とても優しい味だった。こういうのがおふくろの味ってやつなんだろうな。ホクホクの良く味がしみ込んだジャガイモやにんじんが体の中から温めてくれる。思わず、顔がほころんでしまう。味噌汁も、渾身の肉じゃがも、なぜかとても懐かしいような味に感じた。
「うまー!」
「良かった。多めに作ったから沢山食べてね」
「うん! ホントに美味しいよ!」
ガッツガツと夢中で食べた。右手しか使えないせいで、少しみっともない食べ方になってしまったのが恥ずかしかったけど、吉本さんなら諸々分かってくれているし、あえて気にしない様にした。
「そんなに食べてくれたら、作った甲斐があってうれしいな」
言葉の通り、嬉しそうな顔で見守ってくれている。
久しぶりにちゃんとしたご飯をお腹いっぱいに食べて、とても満たされた気分になる。
「はー、幸せだった」
食べ終わってからも、穏やかな気持ちで余韻に浸っていた。
吉本さんはそんな僕を見てクスクス笑いながら、コーヒーをいれてくれる。
食べるときは向かい合うように座ったけど、自分のコーヒーを手に僕の隣にちょこんと座った。
彼女はテーブルに向かって座らないで、僕の方に体を向けて座るから、僕も吉本さんの方に向いて座りなおした。
お互いに向かい合う格好になる。目を合わせて自然と軽く笑い合った。
「本当に、ありがとうね。めっちゃ美味しかったよ」
「口にあったみたいで良かった」
吉本さんはニッコリして、コーヒーを一口飲む。
「私ね、一之瀬君の食べるところ見るの好きだな」
「そうなの?」
「うん、だって本当においそうに食べてくれるんだもん。作って良かったーって思えるよ」
「お世辞抜きに美味しいし、自然とああなっちゃうって言うか……」
ちょっと、照れくさい気がして、鼻の頭をかく。
そんな僕を面白そうに見ている。
吉本さんは、そっと手に持っていたコーヒーカップをテーブルに置いた。
「一之瀬君の好きなところなら他にもあるよ。いつも優しいところも好きだし、どんなことも一生懸命するところも好きだし、人の悪口とか言わないところも好きだし、困ってる人は放っておかないところも好きだし、私が勉強でつまったところを根気よく分かりやすく教えてくれるところも好きだし、私の事を良く見てくれているところも好きだし、一緒にいて楽しいし、優しい目が好きだし、聞いてると落ち着く声も好きだし、カッコいいし、可愛いし」
少し潤んだような目でじっと僕を見つめている。
僕は思わず息をのむ。
「そんな一之瀬君のことが好き。大好き。だから……」
少し間が空いた。
吉本さんは軽く息をすって呼吸を整える。僕は唾をのんで次の言葉を待つ。
「だから、私と付き合ってください」
全身に電気が走ったかのように喜びが駆け巡った。
吉本さんは顔を真っ赤にして少し震えて、僕をじっと見つめている。
もちろん、答えなんか一つだ。
「僕も……僕も吉本さんが好きだよ。いつも吉本さんのことを考えてたんだ。ずっと、ずっと僕のそばに居てほしい」
僕たちは顔を見合わせると、どちらからともなく、ふふふと笑った。
「……夢みたい」
吉本さんはそう呟くと、目元を拭いながら幸せそうに微笑んだ。
「そうだね……」
胸がいっぱいになって、視界がにじんでしまう。
今までのいろいろな想いがこみあげて、気持ちを上手く言葉にできなかった。
ただ、こう言うのが精一杯の自分を少し情けなくも思いながら、
「めちゃくちゃ、大切にします」
そう言うと、彼女は照れくさそうにこくんとうなづいて僕の右手をそっと握った。
「じゃあ、明日もごはん作りに来るから、良い子で休んでおくんだよ」
あれからも特に何かをするわけでもなく、ずっとおしゃべりしながら過ごしていた。
彼氏と彼女になっていままでと変わった事と言えば、その間ずっと手を繋いでいた事かな。
まだ、吉本さんを家まで送ってあげられないから、暗くなる前には帰ってもらうことにした。
「連日は大変じゃない? 吉本さんに無理はして欲しくないな」
僕がそういうと、少し拗ねたような顔になる。
「彼氏がちゃんとご飯食べてくれないから、放っておけないでしょ。それに料理は慣れてるから無理なんかじゃないよ」
そう言われてしまうと、返す言葉がない。
「そろそろ、行こうかな」
部屋を出て行こうとする吉本さんの腕を右手で軽くつかんで引き留める。
どうしたの? と不思議そうな顔をする彼女の背中に右腕をまわして、じっと目を見つめる。
あっ、とつぶやいたその唇にそっとキスをする。
離して見つめ合う。彼女は驚いていたけど、すぐに目を閉じた。今度は少し長めに唇を合わせる。
そう、こんな体でだってこれくらいはできるんだ。
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