コンクリートの廊下は冷たすぎる
クリスマスイブの前日、吉本さんと「明日たのしみだねー!」とかメッセージのやり取りしているうちに、ちょっとおなかがすいてきた。
時間をみると、午後十時をすぎた頃。
晩飯のカップめんにお湯を注ぐためにキッチンにいくと、クソ親父がウイスキーのソーダ割りを飲みながら、コンビニ弁当を食っている。
テーブルの上には、クソ親父が食ったここ数日分のコンビニ弁当のガラが山積みだ。
何杯飲んだのかは知らないけど、 座った眼で半分ほど手を付けたコンビニ弁当をじっとにらんでいる。いつもならとっくに酔いつぶれて寝ている頃合いなのに、今夜に限ってまだ起きているなあ。
仕方ないから自分の部屋で時間をつぶしていたけど、まだ晩ごはんを食べていなくて、おなかも空いてきたから渋々キッチンに向かったのだった。
クソ親父とは関わり合いになるとロクなことにならないので、 刺激しないようにしてコンロの前でヤカンのお湯が沸くのをジッと待つ。無駄に広いダイニングキッチンの良いところは、クソ親父の座っているテーブルと距離が取れる事だな。
しかし、吉本さんとイブを過ごせるとか感慨深いなあ。
プランもばっちり組み立てたし、ちゃんとプレゼントも用意している。完璧だ、こんなにクリスマスが楽しみなのって初めてかも。
うちはこんな家庭だったから、楽しいクリスマスの思い出なんてあるわけなくて。
もちろん、プレゼントなんか貰ったこともない。近所のケーキ屋に予約したクリスマスケーキを楽しそうに受け取りに行く何組もの家族連れを羨ましく眺めていた記憶しかない。
もし、いつか子どもができたら、僕がもらい損ねた分もプレゼントしてあげたいなあ。ベッドが埋もれるくらいのプレゼントの中で目を覚ましたらどんな顔をするんだろう、見てみたいな。
その時のことを想像すると、思わずふふっと笑みがこぼれる。
「おい、なにを笑ってんだ」
クソ親父が座り切った目でこちらをにらんでくる。もつれた舌を何とか動かしたようなひどい滑舌だ。
お前のことなんかこれっぽちも考えてねえよ。
このクソ親父も本当は自分の惨めさが分かってるんだろう。とにかく被害妄想が強い。
「誰も親父の事なんか笑ってないって」
クソ親父がふらふらと立ち上がってこちらに向かってくる。
僕の前に立ったクソ親父が急に右手を振り上げた。子どもの頃からの癖で、僕は反射的に両手で頭をかばってしまう。
「へっ……情けない奴だな。そんなに殴られるのは嫌か」
小馬鹿にしたような口調で酒臭い息を吐き出している。
僕の反応に少しは満足したのか、嫌らしく口をひん曲げて笑みを浮かべている。
体を丸めて頭をかばう情けない格好をした僕の太ももを、つま先で思い切り蹴ってくる。
痛みでさらに屈みそうになった僕の胸ぐらをつかむと、グッと壁に押し当ててきた。
壁に押し当てられた時に、後頭部をドンと強めに打ってしまって目まいがする。これがクソ親父式壁ドンか。
「ちょ……落ち着こうよ、暴力反対だよ」
胸ぐらをつかんでいるコブシを首に押し当てて、軽く首が閉められるような体勢を取られてしまう。
首も絞められてて喋りにくいけど、なんとか抗議する。
顔を真っ赤にして口の端には唾がたまっていて汚らしい。
「クソガキが……笑いやがって。親をバカするとはお前は何様だぁ!! 」
「バカにされたくなかったら、もうちょっと尊敬できるようになってくれよ」
明日は吉本さんとデートだというのに、顔にアザなんかつけられたら堪らない。今までになかったくらい僕は必死に抵抗をする。
胸ぐらをつかんでいるクソ親父の両手首を、力いっぱいに握りこんで捻ってやった。
「ぐっ……、は、離せ」
想いっきり手首を締め上げると、親父はたまらず声を漏らす。
そのまま押しのけてやったら、尻もちをついてひっくり返った。
今日のところは家を出てどこか泊まれる場所を探そう。
無様な姿をさらしている親父を冷たい目で一瞥して、部屋に戻ろうとした。
と、そのとき背後から何かが割れるような派手な音がする。
振り返ると、親父がジャックダニエルの瓶をキッチンのシンクに叩きつけていた。
割れたジャックダニエルを右手に持ってこっちに向かってくる。真っ赤になった眼は獣じみていて、冬眠から目覚めたヒグマでももう少し優しい眼をしているんじゃないか。
中身のウイスキーが割れたガラスをギラリと滑らせている。
心臓が早鐘のように打ち、冷や汗がダラダラ流れて止まらない。本能が最大級の危険を訴えている。
「おいおい……、それはさすがにマズいって」
「………………」
ギリッと親父が奥歯を噛みしめる音がする。
血走った目を爛々とぎらつかせた親父は、ためらいなく割れたジャックダニエルを振り回してきた。
かわしきれずに額をかすめる。切り口からドロリとした、生ぬるい血がたくさん流れて視界が赤くなる。
コンロにかけていたヤカンが中身が沸騰したことを知らせるため笛のような音を鳴らす。
その音を合図のようにして、親父がもう一度ジャックダニエルを振り回す。
思わず左腕で頭部をかばう。
左腕の前腕部分で受けたら、ジャックダニエルに肉と骨を荒々しく削り取られた。
「ああああああああっ!!」
腕をえぐる鋭い痛みに思わず悲鳴が漏れる。
刺されたショックでへたり込みそうになるのをなんとか耐えて踏ん張った。
逃げないと、そう思うけど体がすくんで動けない。
「へっ! 今のは手ごたえあったぞ」
クソ親父が歓喜の声を上げる。僕の血で濡れたジャックダニエルを嬉しそうに眺めている。
肉をえぐり取られた激痛に目がくらむ。
と、その瞬間、首元にジャックダニエルが降りかかってきたから咄嗟に身をよじる。なんとか首は守れたけど、左腕の付け根を引っかくように切り裂かれてしまった。
「----ッ!!」
声にならない悲鳴を上げる。
鋭い痛みが冷たい感覚となって駆け抜けると、ついに屈みこんでしまう。
さらに上から振り下ろされるジャックダニエルを、両手でかばいながら逃げ回る。
両手を切り刻まれながら、必死に親父の膝を蹴ってよろめかせた隙になんとかキッチンから脱出した。
そのまま、廊下に出て自分の部屋に逃げ込んで内鍵をかけた。
しまった、玄関から外に出るべきだったとすぐに後悔したがもう遅い。
傷が深かったようで左腕や両手からは、どくどくと血が溢れてくる。
割れた酒瓶の荒い刃にズタズタに切り裂かれてしまった。多分、普通の刃物で切られるよりもひどい。
フローリングに流れ出た血が、小さな貯まりを作る。
「開けろ! オラァ! ぶっ殺してやる」
クソ親父が激昂しながらドアを殴っている。
そのうち全身でドアにぶつかりだしたようだ。部屋中に凄い振動が響き渡っている。
これ、絶対ご近所にさんにも響いているだろう。
ドンッ……ドンッ……ドンッ……ドンッ……
一定のリズムで衝撃を受けているドアはそろそろ限界が近そうだ。
湧き上がってくる恐怖と怒りで叫ばずにはいられなかった。
「なんでだよっ! どうしてだよ!」
いくら喚いても、クソ親父が止まることはなかった。
僕の絶叫なんか誰にも届くことはない。今までだってそうだった。そう思うと、頭の中が冷めてきた。
なにか助けになる物はないかと部屋の中を見回してみるけど、部屋の中には物自体があまりない。
ベッドと長机とパイプ椅子の他には、教科書なんかを入れているカラーボックスがあるくらいだ。
廊下に面した窓にはサッシがはまっていて、ここから逃げ出すことはできない。
深呼吸。パニックになりそうな自分を無理やり落ち着ける。
改めて、ガランとした部屋を見渡して使えそうな物を探す。
とは言え物がほとんどないから、逆にあまり迷わなくて良いかも。少し苦笑して、パイプ椅子を痛む右手で取る。そいつを折りたたんで武器に使う事にする。右手も傷だらけでパイプ椅子を握るのも辛いけど、左手が全く使い物にならないから、右手だけで何とかするしかない。
クソ親父がぶつかることで規則正しく軋むドア。タイミングを見計らってドアノブを捻って少しだけドアを開ける。
変わらない勢いでドアにぶつかってくるクソ親父は、急に開いたドアに驚いて体勢を崩す。つんのめる様に部屋の中に突っ込んできたクソ親父の顔面に、折りたたんだパイプ椅子をすくい上げるようにフルスイングしてやった。
パキィ---!
何かが割れたような、甲高く乾いた音が部屋に響く。
パイプ椅子に込めた力がクソ親父の顔にきれいに吸収されていく手応え!
うつ伏せの格好で床に突っ伏して動かくなったクソ親父は、車に轢かれたカエルを連想させた。
足でクソ親父をひっくり返すと、見事な白目をむいている。あごは割れたようで妙に顔の下半分が広がって見えた。血をどくどくを流している口元を良く観察すると、前歯は上下ともに無くなっていた。見ると床に何個か散らばっている。鼻もひしゃげていて、折れている事が一目で分かった。
会心のスイングだったからなあ。
自分でも少し意外に思ったのは、クソ親父をこんな目に合わせてやったのに思ったよりもスカッとしなかった事だ。親を殴って後悔しているとか、そういう殊勝なことでは断じてないのに。
廊下に落ちているジャックダニエルと完全に伸びているクソ親父を見ていると、抑えきれない衝動が湧き上がってきた。
――殺すか。
そうか、あれぐらいの痛めつけ方じゃ気が済まないってだけか。
近くにジャックダニエルが転がっている。
それを手に取ると躊躇なくクソ親父ののど元に振り下ろす事ができるだろう。
手を伸ばす。
指先が触れようとしたその瞬間、普段のバカ話をする時の仁の顔や、吉本さんのぱあっとした笑顔が脳裏をかすめた。
目をつむって、深呼吸。
そうだよね、こいつのためにこれ以上手を汚すなんてバカらしいよな。
何も手に取らず、代わりにクソ親父を踏みつけて足にグッと体重をかけてやる。
§ § §
ちょっと左腕の出血がひどいな……。
出血しているせいか、寒くて震えが止まらない。
左腋にタオルを挟んで圧迫して止血を試みるけど、効果があるのか怪しい。
両手とも血まみれになっていて、どうなっているのか良くわからない。
と、良く見ると左手の小指が無くなっていてギョッとした。付け根を少し残していて、そこから脈に合わせてどくどくと血が溢れている。
同じ左手の薬指も皮一枚を残して、付け根のあたりから手の甲側にだらしなく倒れている。小指を落とした時に、こっちも勢い余って切り落とされかけたみたいだった。
今まで、痛みは感じていなかったのに、気付いてしまうと急に痛みが主張し始めるのは何なんだ。薬指と小指があった辺りからズキズキと猛烈な痛みが襲い掛かってきた。あまりの苦痛に涙がこぼれる。
歯を食いしばりながら周りを見回すけど、小指はどこにも落ちてない。半泣きになりながらリビングに引き返すと、テーブルの下に落っこちていてホッとする。
転がっていた小指は血とホコリで汚れていたので、流しで洗う事にする。シンクには割れたジャックダニエルの破片が飛び散っていたから、その上に落とさない様に慎重に洗う。両手とも深い傷だらけだから、水がしみると目がくらむほど痛む。その割に、自分の小指を両手で大事に洗うってのも変なもんだなと、のんきな事を考えたりと我ながら精神状態がまともじゃない。
洗いながら傷口を良く見てみると、割れた酒瓶でやられたのにスパッと意外に綺麗な断面になっていた。
クソ親父の躊躇のなさというか、殺意の高さがうかがえる。でも、これなら病院でくっ付けてもらえるような気がするな。
クソ親父がコンビニ弁当を買った時のレジ袋に、冷凍庫から出した氷を目いっぱい詰めて、ガーゼにくるんだ小指を放り込む。
それを見て、無性に悲しくなる。いつか、またギターやりたかったのになあ。
さて、ずいぶんとズタボロにされてしまったけど、まだ諦めていない。
指の痛みに朦朧としながらも冷静になろうと、これからすべき事を整理する。病院に行って、体中の傷を縫ってもらって、指も繋げてもらって、少し寝てから体を綺麗にして、服を着替えて待ち合わせ場所に向かう! うん、まだいける、大丈夫。これくらいのトラブルならリカバー可能な範囲だ、大丈夫。
明日の約束だけは、死んでも果たす。
とはいえ、家から病院まではちょっと距離あるし、今は歩いていける自信がない。これだけ怪我してたら救急車呼んでも怒られたりはしないよね。そう思ってスマホを探しているのだけど……。
あれ? どこ行ったんだろな?
家には固定電話なんてない。仕方ない、コンビニに公衆電話あったっけ? なかったら、店員さんに呼んでもらおう。
コートを取るためリビングから自分の部屋に戻ると、クソ親父が扉に尻を向けて四つん這いになって立ち上がろうとしている所だった。僕の気配に気づいてこちらを振り向くそぶりだったので、コートは諦めて玄関に向かう。
玄関に置いてある鏡を見ると、顔から足先まで血で汚れている。足の裏もいつの間にか切っていたみたいで、足元が血まみれだ。
普段履いているスニーカーは痛くて足を通せなかったのと、クソ親父が部屋から出てきそうだったから急いでサンダルをつっかけて外に出る。
ドアを開けると、強い風が廊下を鳴らして通り抜けて行った。
みぞれ混じりの冷たい雨が廊下に降り込んでいて、身を切るような風と一緒に、体を湿らせて熱を奪っていく。
コート無しは無謀だったことを痛感する。
服を濡らした冷たい雨が傷にしみこんでくるせいで、寒さと一緒に耐えがたい痛みがやってくるのにはまいった。
一歩一歩進むたびに、激痛でうずくまりたくなる。痛さのせいで涙が勝手に溢れる。
しかも、エレベーターまでやけに遠い。廊下がいつもより十倍くらい伸びてる気がするぞ。
やっと、エレベーターの近くにたどり着いたところで足がもつれて転んでしまった。
小指と氷を入れたコンビニ袋がガシャっと音を立てて床に落ちる。袋は僕の右手から溢れた血が流れ込んでいて、汚らしい赤で染まっていた。
全力疾走した後のように、ぜえぜえと息切れがする。
自分が思っている以上に体力を消耗していたみたいで、一度寝転んでしまうと立ち上げることができない。
声を出すのも億劫なくらいだ。
姿勢を仰向けにしたら、お尻のポケットに固いものが入っている感触があった。痛む手を我慢して突っ込んでみると、あんなに探していたスマホが入っていた。なんとか、体を起こして壁にもたれかかるようにして座りなおした。
なんだ、やっぱり慌ててたんだなあ。思わず苦笑する。
僕はスマホを指紋認証でロックをかけている。両手とも血でどろどろに汚れていてうまく外せない。
『汚れを落としてもう一度お試しください』
だんだん焦ってきて、冷静さをなくしつつある。
少し、落ち着こう。
緊急通報は、ロックを外さなくてもできるはず。とりあえず服で画面をふいてみたら、服も血まみれなので画面全体に血が万遍なく広がっただけだった。汚れた指で入力しようともしたのだけれど、寒さのせいなのか出血のせいなのか、それとも両方のせいなのか指が激しく震えていて思うように動かせない。
しばらく悪戦苦闘してみたけど、自分の指がどうしても思うように動いてくれなかった。
詰んでるな。
だんだん、可笑しくなってきて心の中で笑う。
そのうち、震える手から血まみれのスマホがこぼれ落ちた。手を伸ばしても微妙に届かないとこに転がってしまう。
もう、いいや。
めんどくさい。
座っているのも億劫になってきたので、倒れこむようにして横になった。
昇っていくエレベーターから女の人の悲鳴が聞こえた。多分、窓から僕の事が見えたんだろうな。お見苦しいものを見せてすみません。上に遠ざかって行く悲鳴の主に心の中で謝った。
冷たい雨が全身を濡らして、凍てつく風が容赦なく体温を根こそぎ奪っていく。
コンクリートの廊下は冷たすぎる。
少しでも温もりがとれるよう、なるべく体を丸めて目をつむった。
出血のせいか頭がぼんやりしてくる。
……。
…………。
気を抜くといしきがとびそうになってしまう。
…………。
……………………。
いたい、さむい、いたい、つめたい。
あぁ、すごくつかれたな。
すこしだけ。
すこしだけやすみたい。
ちょっとねむったらげんきになるから。
そしたら………………………………。
よしもとさんにあやまりにいかないと。
またやくそくまもれなくてごめん。
あいたい。あいたいなよしも
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